第七章 過去の残影(1)
「――、ン」
ヘキサ――否、樋口友哉はゆっくりと目を開いた。
まず目に飛び込んできたのは見慣れた天上だった。自室のベットに横になっていた友哉は、上半身を起こし――脳裏を過ぎる記憶に額を押さえた。
それは数日間の記憶だった。朝起きて、学校に行って、帰宅してからベットに寝転んでいた。それだけの記憶。そして、自分の知らないはずの記憶だ。
何故ならそのとき自分は、ファンシーにログインしていたのだから。
理屈も理由もわからない。ただ周囲の情報を整理すると、ログイン中の自分は一種の自動操作状態にあるらしい。ファンシーからのログアウトの際、その間の記憶が流れてくる奇怪な現象。俗にフラッシュバックと呼ばれるそれを嫌うプレイヤーは多い。
この時点でいかにファンシーが、異質であるかがわかるだろう。科学が云々ではない。完全にファンタジーの領域である。
当然、友哉もそう思っているのだが、それでもファンシーを止めるつもりはなかった。止めるのは目的を果たしてから。それまでは絶対に続けると固く決心していた。
机の上に置かれた時計に目をやると、時刻は午前七時半を指している。いつもより起きるのが早いが、かといって二度寝するほどでもない。それに目もすっかり覚めている。
仕方がない。着替えて学校に行こう。たまには早く登校するのもいいかもしれない。欠伸をしながら起き上がり寝間着を脱ぎ捨てて、ハンガーにかけてあったブレザーに着替える。
床に無造作に放置されている鞄を拾おうとし、足を前に出した拍子に雑誌を踏みかけて危うく転びかけた。転ばないように踏ん張りバランスをとる。
我ながらというか、部屋の中は物が散乱して、ひどい有様だった。絨毯にはゲーム雑誌やらマンガやらが無造作に放り投げられ、足の踏み場がない。
正面の机の上にはパソコンが鎮座している。その横にはテレビがあり、その前にはいくつものゲーム機が使われることもなく置かれていた。教科書が入った鞄は部屋の隅に投げ捨てられている。
「これは掃除しなくちゃ駄目かな」
部屋を見回しつぶやく。
どうせなら自分がログインしている間に掃除してくれればいいのに。そう思ってはみたものの、ログインしているときの身体が『普段の自分』を模倣しているというのなら、その選択はありえないかと思い直した。
友哉は物を踏まないように気をつけながら自室を出て、一階に行くために階段を下りようとして、
「あっ」
階段を上げってきた短髪の少女の姿に足を止めた。彼女の妹の樋口奈緒だ。
予期せぬ遭遇に息を詰める。おかしい。いつもよりも早く起床したのを計算にいれたとしても、いまの時間の奈緒は既に家を出ているはずだ。
「……なによ」
「いや、その……今日は家を出るのが遅いんだ」
「忘れて物を取りに戻っただけ」
「そ、そうなんだ」
会話が続かない。いや、そもそも会話する気がないのかもしれない。最初に視線を外したのは奈緒のほうだった。
「邪魔なんだけど。どいてくれない」
興味がないとばかりに素っ気なく言う奈緒。
「う、うん」
慌てて横に退ける。奈緒は友哉の脇を通り抜け自分の部屋に戻った。しばらく友哉は奈緒が消えたドアをじっと見つめていたが、彼女が戻ってくる前に家を出ようと、慌てて階段を下りると玄関から飛び出した。
そして、あえて普段使っている通学路から外れた道を選ぶと、そこでようやく一息吐いた様子で胸を撫で下ろした。
友哉と奈緒は同じ学校に通っている。当然、使っている通学路も同じなわけで、後ろから奈緒に追いつかれたときの対策として、わざわざ別の道を使ったのだ。
そこまでやるかという徹底振りだが、なにも奈緒を嫌っているわけではない。むしろ、逆である。彼女のほうが友哉を避けているのだ。
彼と妹のやりとりはいつもこんな感じだ。二言三言、言葉を交わすだけ。それで終わり。外で話した記憶などここ数年を振り返っても一度もない。
小さい頃は仲がよかった筈なのだが。両親が共働きということもあり、他の家の兄妹よりも仲がよかったとすら思える。だが、中学生くらいだろうか。妹と徐々に会話する機会が減り、いつの間にかいまの関係になっていたのは。
それとも現実の兄妹関係なんてこんなモノなんだろうか。もしくは単純に自分に愛想をつきたのだろうか。顔も平凡。成績も平凡。趣味はネットゲームのオタク野郎。両親が共働きで家にいないのをいいことに、遊び呆ける毎日。媒体が変れど、いまもそれは変らない。
好かれる要素がないから好かれない。ただそれだけのことだとしたら、それはある意味で当然のことなのかもしれない。
「そんな兄貴なんて自慢にならないよなぁ」
自分の心境とは裏腹の青空を見上げて、大きなため息を吐き出すと、気分を入れ替えようと別のことに考えを巡らした。
『メダルモンスター』――イブル・カトラスの討伐方法である。
黒髪の少女の考えは実に単純明快だった。状況かを顧みて≪聖堂騎士団≫と≪天上神歌教会≫の干渉は避けられない。ならば、モンスター退治は彼らに任せてしまえばいい。要は最終的にメダルさえ入手できればいいのだ。
メダルを手に入れるのは最後の一撃を入れたプレイヤーだというのは、過去の検証から判明している。出現場所に隠蔽状態で待機し、HPがギリギリまで削られたところで、最後の一撃を食らわして即座に撤退。
即ち、メダルの横取りである。”メダルの入手”のみに焦点を絞るのならば、『メダルモンスター』と真っ当に戦う必要性はなく、メダルの横取りも可能になるわけだ。
確かにこの方法ならば自分にもチャンスはある。タイミングさえ見過ごさなければ、一番可能性の高い案かもしれない。
ただしこの方法、論ずるまでもなく重大なマナー違反である。モンスタードロップの横取り。偶然ならともなく故意となれば、掲示板でノーマナープレイヤーとして晒されてもおかしくない。というか、攻略ギルド相手にやれば確実に晒される。
しかし、手段を選んでいられる状況ではないのも確かなのだ。一次選考と呼べるメダル集めの期限まで一ヶ月を切っている。それまでに後四枚のメダルを手に入れなければならないのだが、それは容易なことではなかった。
メダルを獲得する手段は二つ。『メダルモンスター』を倒して入手するか、プレイヤーがすでに持っているメダルを入手するかである。
現状、後者はかなり難しい。
まず誰が持っているのかがわからない上、わかったところで素直に渡してくれるとも思えない。メダルはカード化できないという制限があるが、誤魔化す手段などいくらである。
加えて、厄介なのはメダルを十枚以上保有しているプレイヤーがいる場合だ。メダルの保有枚数に制限はない。十枚以上持つことでメダルの端数を作り、参加できるプレイヤー数を減らし、ライバルを潰そうと考えている者がいてもおかしくはない。
なので、ヘキサとしては回収できるメダルが極力逃したくないのだ。それにリグレットの言い分としては、『プレイヤー同士での奪い合い』が前提条件である以上、小細工を弄するのは卑怯ではなく立派な戦術だとのことである。
そんなこんなで最終的な結論はでなかったものの、予想出現時間まで幾ばくかあるということで、クールタイム――――ログアウトしてから、再ログインできるようになるまでの待機時間――の頃合いも兼ねて、一端ログアウトすることになったのだ。
プレイヤーの安全性の確保というお題目の下、ファンシーには最大で接続可能な時間が設定されている。最大接続時間は箱庭世界で換算して七日間。一日が二十四時間なのは現実と同じで、時間経過速度は四倍。
最大接続時間を超過した瞬間、街中だろうが戦闘中だろうが問答無用で強制切断されるため、大体のプレイヤーが最低でも半日は余裕を持ってログアウトすることにしていた。
リグレットへの返事をどうするべきか、思案しながら歩いていると、道路を挟んで学校の校門が見えた。遠回りしたのでいつもよりも時間がかかったが、それでも早起きしたのでいつもよりは早く着いていた。
「よう、友哉。今日は早いじゃないか」
「あ、おはよう。ちょっと早く目が覚めたんだ」
と、校門を潜ったタイミングで声をかけられた友哉は、背後を振り返り茶髪の少年――稲葉浩二に返事をした。浩二は友哉のクラスメイトで、彼が友達と呼べる数少ない一人だ。
二人は他愛のない会話を交わしながら揃って歩き出した。建物の中に入り、下駄箱で靴を脱ぎ、内履きに履き替えようとして、友哉の動きがぴたりと止まった。
自分の靴入れに手をかけた体勢のままで、右横の靴入れを凝視する。その靴入れにはネームシールがなく、シールが剥がされた後だけが残っていた。
「おお、そういやお前さ。いまでも速水とは連絡とってるのか?」
それを見ていた浩二が何気ない調子で聞いてくる。
速水徹。それがその靴入れの使っていた学生の名前であり、一ヶ月前に家庭の事情で転校したクラスメイトの名前だった。
「……いや。とってないけど、それがどうかした?」
「お前、あいつと妙に仲良かったじゃん」
「……そうかな。そんなことはないと思うよ」
その言葉に過剰反応しないようにするには、想像以上に精神力が必要だった。
努めて自然な口調を装う友哉。幸い浩二は靴入れを掴む手が、小刻みに震えていることには気がつかなかったようだ。
確かに友哉は速水と仲がよかった。携帯には彼の電話番号が登録されているし、電話しようと思えばいつでもできる。だが、自分のほうから彼に連絡することは今後もあるまい。あるとすればそれは、友哉の願いが成就したときのみだ。
硬直していた身体を動かして靴を履き替える。横で首を傾げている級友を促し、友哉は自分のクラスへと向かった。