第六章 廻る歯車(4)
炎。炎。炎。
ぐるぐると視界に踊る赤い炎が、なにもかもを燃やし尽くしていた。雲で覆われて明かりの乏しい夜空を、燃え上がる炎の篝火が赤く染めている。
とある界層の辺境にある小さな村。慎ましいながらも穏やかな生活を破壊する炎の揺らめきが、村を吞み込み地獄絵図に塗り替えていた。
それはあまりにも現実味がない光景だった。地面に血を流してこと切れているNPC。いつもにこやかに挨拶してくれる老人。村でたった一件の雑貨屋を営む若い夫婦。
小さな村であるが故に顔見知りである人々の無残な有様に、彼は――”俺”は腹の底からこみ上げてくるモノを堪えて、必死の形相で駆けていた。
充血したよう爛々としている双眸。強く噛みしめ過ぎて口の端からは血が滴っていた。右手には『敵』の返り血に染まった片手剣。刀身に絡みつく赤い液体を拭う余裕すらなく、身体の大きく上下させながら走っている。
――ああ、またこの夢か。そんな自分を醒めた視線で見ながら、”俺”は声にでない声で嘆きを洩らしてしまった。
明晰夢。夢を夢だと自覚できる夢。過去の残滓。あまりにも何度も繰り返し視るモノだから、細部に渡って鮮明に再現された悪夢に、もはや怒りを通り越して冷めた感情しか抱けなかった。
その日は楽しい一日になるはずだった。そうなるように皆で頑張って準備したし、その準備の間ですらとても楽しかったのだから、きっとその日は生涯の記憶に残る一日になるに違いないと、皆に弾む心を悟られぬように普段よりも無口になっていた。
悟られたところでなにかがあるわけではないのだが、子供みたいにはしゃいでいると思われるのが恥ずかしかったのだ。もっとも、皆にはとうにバレていたようだから、無駄な努力でしかなかったのだが。
そう、楽しかった。楽しくて、楽しくて――その結果が『コレ』なのかと思うと、悲しくて仕方がなかった。正直にいえばその場で泣きたかった。しかし、悲しみを塗り潰す怒りが、崩れ落ちることを許可せずに、当時の”俺”を突き動かしていた。
黒煙と炎に彩られた視界に、複数の赤い二重円が表示されている。プレイヤーキラー。頭のイカレたプレイヤーたち。”俺”の日常を切り刻んだ怨敵。
片っ端だった。人数もなにもあったモノではない。目に映る赤いカーソル目掛けて突撃すると、湧き上がる黒い衝動に身を任せて、我武者羅に剣を振り下ろしていた。当然、そんな無茶なことを続けていれば、こちらとて無傷ではすまない。
身体に決して浅くはない傷を負いながらもしかし、”俺”の足は止まることなく次の標的に向かって突き進んでいた。身体を休めるよりも敵を斬りたい。端的に言ってしまえばそれに尽きた。そのときの”俺”の頭の中にはそれしか考えられなかった。
斬って斬って斬りまくり、もう自分の血なのかどうなのかさえ判別つかないほど全身を真っ赤にして――”俺”はあいつの前に辿り着いた。
くすんだ真鍮のような瞳がこちらを睥睨している。あいつに刃毀れした剣の切っ先を突きつけ、”俺”がなにかを喚き散らしている。
頭に浮かんだことをそのまま口にしていたので、なにを言ったかは覚えていないが、「なんでだ」とか「どうしてだ」なんて、大方そんなところだろう。
あいつが口を開いた。その言葉がなんだったのか。これもまた定かではない。ただそれを聞いた瞬間、激昂した”俺”は剣を振り上げていた。
距離を詰める。闇夜に瞬く銀閃が交差し、”俺”は――。
目覚めは最悪の一言だった。泡沫の悪夢から覚めたヘキサは、唸り声を洩らしながら額に浮かんだ脂汗を拭う。
チク、タク。チク、タク。室内に備え付けられた時計が、規則正しく時間を刻む。薄暗い室内はカーテンの隙間から差し込む月明かりで淡く照らされている。
ここはとある宿屋の一室だった。ヘキサはここでメール相手との待ち合わせをしていたのだが、どうやら待っている間に寝てしまったらしい。相手はまだきていないのか、どれぐらい時間が経過しているのか。
天井をぼんやりと見上げながらそんなことを考えつつ、何気なく横に投げ出した左手がなにやら妙に柔らかいモノを掴んだ。
むにゅりと指が沈み込む感触に首を傾げ、伸ばした右手でサイドボードのスタンドに触れる。彼の生命子に反応し、灯った光源が室内を薄暗く照らしだし――ヘキサは息を呑んで沈黙してしまった。
黒い瞳と目が合った。黒曜石のように澄んだ黒目に、馬鹿みたいに口を半開きにした自分の間抜けな顔が映っている。
ヘキサが寝ていたシングルベットの上。いつの間にか一人の少女が、彼に寄り添うようにしてベットに横になっていた。
錆びたブリキ人形のようなぎこちない挙動で、視線を恐る恐る下にズラし、今度こそ本当にヘキサは硬直した。
小刻みに震える左手が少女の胸を鷲掴みにしている。服の生地越しにもわかる豊かな胸を掴む指先から、彼女の体温と心臓の鼓動が伝わってきた。
「――あんっ。もう、大胆なんだから」
鈴の音を転がすような声が耳朶をくすぐる。
ワザとらしい声に突っ込む余裕などあるはずもなく、彼女の胸から手を放した拍子にベットから転がり落ち、床に思いっきり頭を打ちつけてしまった。
目の奥で火花が散る。後頭部を押さえて蹲るヘキサの頭上から、クスクスと軽やかな笑い声が降ってきた。
美しい少女だ。腰まで伸びる長い黒髪は、その前髪の一房だけが、鮮やかな紫色に染め上げられている。偏執的なまでに整った相貌にシミひとつない白い肌。水晶のように無機質的めいた美貌の少女が纏っているのは、至るところに黒いフリルがついている黒地の衣装。ゴシック調の洋服の上からは、足元まである黒いクロークを羽織っている。着ている漆黒のゴスロリ服と相まって、まるで御伽噺にでてくるお姫様のようだ。
「あら、痛そう。大丈夫?」
「痛っ。ああ、なんと――じゃない!? なに人のベットに潜り込んでるんだよッ! 心臓止まるかと思ったぞ!?」
「大げさね。ちょっとした悪戯じゃない。……それともお子様にはちょっと刺激が強すぎたかしら」
「だ、誰がお子様だ! 発言の撤回を求めるッ!」
「そう? じゃあ、これはどうかしら」
憤慨とばかりに声を張り上げるヘキサを前に、彼女はベットの上に立ち上がると、こともあろうにいきなりクロークの裾を捲り上げた。
「ふふ。どう? 私、脚線美には自信があるの」
流し目で言って、フリルのついたスカートから伸びる真っ白な脚を、見せびらかすように強調する。しかも下から見上げる形になっているものだから、きわどいところで下着が見えそうになっていた。
咄嗟に視線がそちらにいきそうになるが、ぎりぎりのところで堪える。ここで慌てては駄目だ。いつものパターンに陥ってしまう。ここは冷静に大人の対応をするべきだ。
「おおお、俺だって、い、いつま、までも、だだだ……」
訂正。どうやらまだまだのようだ。がっくりと項垂れる自分の頭を撫でる手に、抗う気力すら湧かずにされるがままのヘキサだった。彼女と行動を共にするようになって三ヶ月が経つが、いつもこの調子でからかわれてしまうのだ。
黒髪の少女の名前はリグレット。普段はソロを貫くヘキサがパーティを組む、唯一の『例外』と呼べる相手である。彼女との関係を一言で言うなら――期間限定のパートナーといったところだろうか。
『忘れな竜の聖杯』。今年のアニクエをクリアするための大切なパートナーだ。
「それで……? 新しい『メダルモンスター』の居場所がわかったって話だけど、一体どこにいるんだ?」
「千界迷宮70界層『砂塵の墓場』。メダルが寄生しているモンスターの名前はイブル・カトラスよ」
ベットの端に腰掛けるリグレットの言葉に、ヘキサは思わずうげっと呻き声を発していた。それはまた『砂塵の墓場』かという気持ちもあったし、イブル・カトラスの厄介さからくるモノであった。
イルブ・カトラス。砂漠の悪魔の異名を持ち、70界層のボスモンスターよりも強いと噂される大型のモンスター。砂漠のフィールドを自在に移動し、縄張りを変えることから捕捉が難しく、奇襲を許せば『王城派』のプレイヤーですら全滅することから、生けるトラップとも云われている。
「めんどくせぇ。探すのがめちゃくちゃ大変だぞ」
フィールドを徘徊するという特性上、事前に出現位置を予測するのは困難極まる。深い砂の中を移動するため、浮上するまでは探知にも引っかからない。となれば、有効なのは人海戦術くらいなのだが、こちらは二人しかいないのでそれも無理。
残された手段は地道に歩き回って探すくらい。あの炎天下の砂漠を運任せに彷徨うのかと思うと、それはため息の一つも吐きたくなるものだ。
それに見つけたら見つけたで、メダルで強化されたイブル・カトラスを倒さなければならない。それも自分とリグレットの二人でだ。
「憂鬱そうにしているみたいだけど、それなら心配しなくてもいいわよ。イブル・カトラスの出現座標と時間はもうわかっているもの」
「いやいや……わかってるってどうやってさ? ンなもん、事前にどうこうできるって代物じゃないだろうが」
法則性がないから困っているのだ。それがわかれば苦労はしない。さらりと言ってのけるリグレットに懐疑8的な視線をやる。
「そうとも限らないわよ。それを覆すインチキアビリティ持ちがいるじゃない」
「……ひょっとしてマリアのことか?」
未来視のマリア。≪天上神歌教会≫のトップ。普段は本部の奥にこもっているため、ヘキサも実物を目にしたことはないが、彼女の保有するアビリティを知らない者はいない。
ユニークアビリティ『天の啓示』。詳細は不明ながらそれは未来を視る能力だとされている。いわゆる予知能力だ。事実、彼女の視たとされる未来の光景は助言とし、いままでも幾度となく攻略の手助けになっている。
なるほど。情報源がマリアだというのならば、信憑性はかなり高い。それだけの実績が彼女にはあるのだが、どうやってリグレットがその情報を入手したのかだ。
個人的に知り合いだったりするのだろうか。などと考えていても仕方がないので、本人に疑問をぶつけてみることにした。
「≪天上神歌教会≫の所属プレイヤーから訊いたの。中々に口が堅かったけど、ちょっと媚売ったらあっさり口を割ったわよ」
そうかよ、とそっぽを向くヘキサ。この美貌に迫られて鼻を伸ばさない男はいないだろうが、それに何故か苛立ってしまう。
途端に不機嫌になった白髪の少年に、リグレットは含み笑いを洩らした。
「安心して。私が身体を許すのは貴方だけだから」
「だからなんでそう、他人が聞いたら誤解されるような言い回しするんだよ! マジでなにそれ。そんなに俺が嫌いなのか!?」
「まさか。私はヘキサのことが大好きよ。ほら、よく言うでしょう。好きな相手ほどいじめたくなるって」
ヘキサは尚も反論しようとし、なにを言っても無駄だと判断して口を噤む。代わりに彼は話の続きを促した。
「情報元がマリアってことは、≪天上神歌教会≫の連中も当然『メダルモンスター』狙いなのか?」
「ええ、そうみたい。……ただし、今回は≪聖堂騎士団≫と≪天上神歌教会≫の合同らしいのよね。レクリエーションの一環とか言ってたけど、詳しいことはわからなかったわ」
ヘキサの記憶が確かならば、ふたつのギルドの仲は険悪とまではいかないものの、『王城派』ギルド同士、千界迷宮の攻略において敵対関係にあったと認識していたのだが。
規模の大きなギルドにありがちな構図だ。ギルド同士、仲良く腕を組んで攻略しましょうなんて考えがあるはずもない。表向きは友好関係を維持しているが、本質的には犬猿の仲であることは有名である。
まあ、いまはどうでもいい話だ。それよりも優先するべき問題がある。場所だけではなく時間まで特定されているとなれば、先手を打って抜け駆けするのは無理だろう。
『メダルモンスター』の取り合いになったら分が悪いのはこちらである。なにせ自分は悪名高きマンイータだ。ただでさえPKに人権などないというのに、下手すればイブル・カトラスごと抹殺しようとされかねない。
強化されたイブル・カトラスとハイレベルプレイヤーを同時に敵に回すのは流石にキツい。今回は見送りかなーと、どこか他人事のようにつぶやくヘキサの耳朶を、リグレットの不敵な声が打った。
「大丈夫。私に考えがあるわ」
言って口の端を曲げるリグレットに嫌な予感が止まらなかった。そして、自分の予感は悪いときだけ当たることを思い出し、ヘキサはうんざりした様子で嘆息するのだった。