第一章 箱庭世界(1)
Phantasy-Chronicle-Online。
その不可思議なゲームの案内が届いたのは、日常の退屈さに嘆いているときだった。ふと何気なく携帯を見ていたら、着信メールの中に目を引くタイトルがあった。
――自分だけの物語を貴方に――
見るからに胡散臭い内容だった。
ネットゲームと書かれていながら内容は一切不明。運営会社の記載もない。試しにネットで検索をかけてみてもヒット件数はゼロ。
普通なら業者メールだと削除する怪しさに、しかし指示通り空メールを返信したのは、タイトルの言葉に震えるモノがあったからだ。
ちょうどそのときやっていたネットゲームに、飽きを感じていたというのも大きな理由だったかもしれない。
返事がきたのはそれから一ヵ月後。メールの存在など忘れかけていたときだった。
椅子にだらしなく座りながら携帯をいじり、メールに記されたIDとパスワードを入力し、ログインボタンを押した。
その刹那、現実の彼の意識は、『此処』ではない『何処か』に転送されていた。彼の感覚では瞬き一回の間に、目の前の光景が変化していたのだ。
そこは決闘場。月明かりすらない深い夜。無人の観客席。地面に突き刺さる無数の武器。暗闇のはずなのに何故か視認できる武器の群れに囲まれて、彼は沈黙した決闘場の中央で立ち尽くしていた。
『――選んでください』
空から声が降ってきた。
声に反応し頭上を仰ぐと、闇色の空を白く発光する物体がくるくると中空を旋廻していた。拳大ほどのサイズの発光する球体は、緩やかに下降すると彼の顔の横で静止した。
『この中からひとつだけ選んでください』
なにを?
『武器を。貴方の持つ魂の形質を示してください』
言われるがままに周囲を見回す。
剣。短剣。大剣。槍。戦斧。刀。大鎚。大鎌。わかるモノからわからないモノまで、様々な種類の武器が地面に突き刺さっている。
声を三度言う。選べ、と。この中からひとつだけ、自分に見合う武器を選択しろと声が静かに彼を促す。
剣がいいな。
彼は武器を見ながら、ぼんやりと思った。理由はない。しいてあげるのならば、彼の意識では剣が一番かっこいいからだ。
とはいえ、一言で剣と括っても、決闘場にはたくさんの剣がある。
大きな剣。小さな剣。両刃の剣。片刃の剣。真っ直ぐな剣。曲がった剣。数が多すぎて、あげててはキリがない。
きょろきょろと落ち着きのない視線を左右に泳がせる。焦点の合わない夢遊病者のような挙動だった。
と、彼の注目を引く剣があった。無意識のうちに足を前に踏み出していた。ふらふらと彼が歩み寄ったのは、無骨で頑丈そうな大剣だった。
普通なら振り回すどころか、持ち上げることすら困難な大剣だ。だからこそ、この剣に惹かれたのかもしれない。退屈な日常を破壊するかもしれない象徴として。
手を伸ばす。指先が大剣の柄に触れ――直後、身体に電流が走った。
『――読み込み開始。心的強度:焦燥。属性:真夜。性質:愚者。魂の形質を抽出・固定化。心経接続を開始。全工程を終了。幻体の作成を完了します』
一体なにが起こった。
衝撃でふと我に返った彼は、慌てて柄から手を引っ込めると数歩後退った。理解のできない展開に、遅まきながら恐怖が湧いてきた。
『如何ですか? アバターの調子は?』
彼とは正反対の落ち着いた声色。
少年とも少女とも判断のつかない中性的な声で訊ねられて、彼は目を白黒させて困惑した。如何と言われも意味がわからない。
そもそもここはどこなのか。さっきまで自分の部屋にいたはずなのに、なんだってこんな映画のセットのような場所に立っているのか意味がわからない。
一から十までなにもかもが不明で謎だった。
『見てください』
未確認発光体がそう言うのと同時に、彼の正面に長方形の物体が出現した。鏡である。姿見に映し出された自分の姿に、彼は息を呑んで絶句した。
そこには自分の知らない自分が映し出されていた。黒髪に黒目というのは現実世界の彼と同じだが、顔の作りはまったくの別人だった。
身に纏っているのも直前までの私服ではなく、漫画やゲームでよく目にする革の防具だった。しかも背中には、鞣革の鞘に収まる巨大な剣が吊るされている。
声の言うアバターとは、この肉体のことだろうか。本当の肉体ではないのに、違和感がないことに違和感を感じた。
『当然です。そのアバターは貴方の魂から作製された分身。文字通りの意味での半身なのですから』
言って、発光する球体は滑るように空を舞った。くるくると螺旋を描き、淡い燐光を宙に撒き散らす。
『これから貴方には、とあるゲームに参加して頂きます』
ゲーム。――そう、ゲームだ。
ここにくる直前、自分がなにをしていたのか思い出した。
正体不明のネットゲーム。Phantasy-Chronicle-Online。確かそんなタイトルのゲームだったはずだ。
『そうです。Phantasy-Chronicle-Online。ファンシーと覚えてください』
彼の思考を読んだかのようなタイミングで声が響く。
『ここはその始まりの場所。現実と仮想と中間地点。日常と非日常の境界線』
いまのいままで自分の部屋にいたはずなのに、一体いつ連れ出されたのだろう。
『誤解しているようですが、貴方の本来の肉体は現在も現実世界にあります。肉体はそのままに、精神だけがこちらに転移したと考えてください』
転移? なんだそれ。じゃあ、ここは異世界だとでも言うのか。それこそゲームや漫画の世界の話ではないか。
『半分は正解で半分は不正解です。確かにここは貴方のいた世界ではありません。ですが、異世界と呼ぶには規模が小さくて相応しくないのです。隔絶された空間に存在する造りモノの箱庭――とでも理解してください』
ゲームといったが、自分になにをさせるつもりなのだ。
『貴方にはこれから探索者として、迷宮に挑んでもらいます』
迷宮。その単語に何故か心が跳ねた。まるでそれこそが自分の望みであるかのような不可思議な感覚が、強い衝動となって胸に湧いた。
『貴方が挑むのは千界迷宮。千の世界を重ねた神秘の迷宮。貴方は十万人のプレイヤーの一人として、迷宮を攻略してください。目指すは最下層。そこに存在する”黄昏の秘蹟”の入手こそが、この世界で成すべき最終目的になります』
……もしも、断ったらどうなる?
『特にはなにも。貴方に生じる不利益は一切ありません。拒否するというのならば、それもまたひとつの選択でしょう』
ただし――、と言葉を繋ぐ。
『ひとつだけ。アカウント削除に関する注意事項があります。アカウントを削除する際には、この世界での記憶の全てを消去させていただきます』
記憶の削除?
『はい。また、死亡によってもアカウントは削除されますので、行動には細心の注意を払ってください』
一回死んだら、それで終わりってこと?
『そのとおりです。死亡状態からの蘇生方法はありません。また、一度この世界を去った者が、再びこの世界を訪れることもありません。例外はないと断言します』
死亡したらアカウント削除。しかも、リトライのチャンスも与えられないときた。これはまた極悪なペナルティだ。一般的なネットゲームでそんなデスペナルティがあったら、間違いなく誰もよりつかない。ゲームの出来次第では一部のコアなユーザーには受けるかもしれないが、大半の人間にはそっぽを向かれてしまうだろう。
『これはゲームです。しかし、もうひとつの現実でもあります。やり直しはありません。繰り返します。やり直しは不可能です。一回の人生。一度限りの生涯。だからこそ、意味があり意義が生まれるのです』
夜の決闘場に響く声。
闇の中を淡い光の粒子が踊るように軌跡を刻む。
『どうしますか? 受諾するのも拒否するのも貴方の意志ひとつです。強制はしません。意志なき意思は不要です。私たちが求めるのは確固たる信念。断固たる決意。最後まで諦めずに戦う存在こそを欲しています』
その問いに沈黙を保っていた彼はゆっくりと口を開く。
彼の非日常がはじまったのは、その瞬間からだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目を開くと見知らぬ天井が見えた。
まだ寝起きで頭が働かない。横になっていた身体をゆっくりと持ち上げて、ぐるりと首を巡らしヘキサは室内を見回した。
簡素な部屋だった。家具はベットとタンス、それと丸テーブルがひとつだけ。他にはなにもなかった。本棚がない。パソコンもない。テレビもなければゲーム機もなかった。
どこからどう見ても自分の部屋ではない。
なんでこんなトコで寝ていたんだろう――と目を擦り、唐突に意識が覚醒した。
ここは現実の世界ではない。ここは箱庭の世界。はじまりの街、ドゥナ・ファム。または千界迷宮第0界層。
この世界を訪れたプレイヤーが、まず最初に降り立つ街だ。
そして、この部屋はヘキサが生活の拠点としている宿屋の一室である。ちらりと室内の時計を一瞥すると、時計の針は午前7時を指し示していた。
昨日、辛くもホーンベアを撃破した後、モンスターに遭遇することなく、どうにかこの部屋に帰還したヘキサは、そのまま倒れ込むように眠ってしまったのだ。
見れば大剣も床に無造作に放り投げている。
着替える余力もなかったため、着ているのも普段着ではなく、簡素な造りをした皮の鎧だった。雑で荒い造りだが、初期装備なのでこんなモノだろう。
いまは生活するだけで精一杯で、装備を買い換えるだけの余裕はないが、まとまった金ができたら装備を一新するつもりでいた。
「……そっか。あれからもう二週間も経つのか」
夢を見ていた。
こちらの世界にはじめてログインしたときの夢だ。結局、ナビゲーターである発光体に対するヘキサの回答は保留だった。
止めるのにリスクはない。止めるのはいつでもできる。ならば実際に体験してみて、それから判断しても遅くないと考えたのだ。
そして、箱庭世界に来訪してから二週間。黒髪は少年は見事なまでに、このゲーム――ファンシーに『ハマっていた』。
実際にゲームの中に入ってプレイする。全感覚潜行型、とでも言えばいいのだろうか、この場合は。明らかに常識離れした現象だ。
最早、科学の世界の話ではない。完全にファンタジー世界の話になっている。
確かにその手の小説は大抵読破しているし、そうしたネットゲームに憧れてはいた。
いつかは体感したいと思いつつも、自分が現役の間に技術が確立することはないだろうと諦めていた。
剣と魔法の世界。異世界――ナビゲーターに言わせると別物らしいが――での冒険。年頃の少年なら誰しも一度は憧れる展開だ。これでハマらない道理はない。
「――ッ。痛すぎるだろ」
上半身を起こした途端、走り抜けた痛みに動きが固まった。
身体中がギシギシと軋み悲鳴を上げている。昨日、無茶な戦い方をした代償だ。全身が筋肉痛のような状態になっている。
それでもなんとかベットから這い出し、よたよたと覚束ない足取りで窓に近づくと、鍵を外して窓を開け放った。
部屋の中に差し込んだ陽光の眩しさに手で目元を隠す。窓の外。そこには現実では絶対に見ないであろう光景が広がっていた。
まさに剣と魔法の世界。
全身甲冑を纏う騎士。とんがり帽子と黒いローブ姿の魔法使い。腰に剣を吊るした剣士が、槍や斧で武装した仲間と楽しげに談笑している。石の階段に腰掛け竪琴を奏でる吟遊詩人の横で、露出度の高い薄い衣を羽織る踊り子が華麗に舞っている。
ヘキサは踵を返すと身体に負担をかけないよう、ゆっくりとベットに腰を下ろした。開けっ放しの窓から聞こえてくる喧騒をBGMに、彼は腰のポーチに手を伸ばした。
ちなみにこのポーチはプレイヤー全員に配布される初期装備なのだが、ただのポーチではなく容量拡張の効果が付加された立派な魔法アイテムである。
見た目の何倍ものアイテムを格納できるうえに、ポーチの重量が増えることもない。中身を取り出すときも、手を突っ込めば頭の中に格納しているアイテム一覧が表示され、自由に取り出される優れモノである。
「……えっと、あれ……ない?」
ポーチの中に手を突っ込んだまま首を傾げる。
脳裏に浮かぶ一覧の中に目的のアイテムがなかったのだ。ヘキサが探しているのポーションで、レベル上げで使わなかった一個が残っていたはずなのだが。
「あー、そっか。確か使ったんだっけ……?」
そういえばドゥナ・ファムに帰還する直前に飲んだような気がする。ふらふらしてたのでよく覚えていないが多分あっている。
「まいったなぁ。身体が痛くて動けないっていうのに――あ、そうだ」
そこでふと思い出したことがあり、ヘキサは左手を胸の前に掲げた。
「『オープンブック』」
言葉と共に、翳された手の平の上で光が散った。
光の粒子が中空を舞い、一瞬にして本の形に凝縮する。ヘキサの手に収まったのは、金細工で装飾された革張りの本だった。
この本はプレイヤーが一人につきひとつずつ持つ、一言でいうならば本型のシステムメニューである。革張りの本には所有者のレベルやステータス、スキルにアイテムとプレイヤーのすべてが記載されているのだ。
装丁を開く。外見に反して中身は金属質の頁だった。硬質な頁を捲りアイテムの頁を開くと、中空にシステムブックに格納されているアイテム一覧を展開した。
眼前に開かれた半透明のウインドを見て、お目当てだったポーションの予備があることに口元を緩めた。すぐさま画面をタッチし、ポーションを選択する。すると頁の上に光が渦巻いた。
いきなりの発光現象に驚くことなく、光の中に手を突っ込むと、光が収束してカードに変化した。銀色で縁取られたカードには、赤い液体で満たされた丸い瓶の絵が描かれている。
「『マテリアライズ』」
変化は一瞬だった。再度、カードが発光したかと思うと、次の瞬間には実体化したポーションの瓶がヘキサの手の中にあった。
ファンシーでは武器や防具、消費アイテムや生産素材などの大抵のモノは、このようにカード化してシステムブックに格納しておくことが可能である。
『マテリアライズ』でカードから実体化させられ、逆にカード化するときは『シール』で実行できる。
わざわざ声に出さなくても思考操作で実体化もできるのだが、それにはある種のコツが必要で、まだ慣れていないヘキサは確実な音声操作で行なっているのだ。
親指でコルク栓を弾くと、中身の赤い液体を一気に飲み干す。口の中に広がる苦味に眉をしかめる。
ポーションは液体の色によって効果が違い、赤いポーションは傷の治癒や体力回復に使われる。この苦味にはいまだに慣れないが、魔法薬の効果は確かだった。
ふいに和らいだ痛みにほっと息を吐くヘキサ。完治にはまだ時間がかかるだろうが、それでも起きがけよりは大分楽になった。
いま飲んだポーションも初期支給品なのだが、いざというときのために残していた正解だった。まあ、ただ単に忘れていただけともいうが。
「『クローズブック』」
用の済んだシステムブックを手元から消して、ヘキサは今日の予定を頭の中に巡らした。
まずはマリーゴールドに行くべきだろう。集めた生命子を吸収しなければならないし、回収した魔石やアイテムをリラ――この世界でのお金の単位――に換金しなければならない。
その後は使い切ってしまった消費アイテムを補充して、それからはまたレベル上げに励むべきか。ホーンベアとの戦いで痛感した。自分はまだまだ弱いと。
「よし。今日も頑張るか」
予定が決まったら後は行動するのみ。これから時間が経てば人はさらに多くなる。そうなる前に一通りの準備を整えてしまいたいところだが、
「その前にちょっと休憩」
完全に取れきれないダルさにヘキサは、そうつぶやくとベットに横たわるのであった。