第五章 踊るように戯れろ(2)
耳元で旋風が唸る。迫る死の気配にヘキサは、硬直しそうになる心を無理やり滾らせて、鋼鉄の斧の軌道に全神経を集中させた。
ミノタウロスとの戦闘を開始してから、まだ幾ばくも経っていないというのに、彼の息は荒く全身に嫌な汗をかいていた。
肉体的な疲労からくるモノではない。ミノタウロスの攻撃に晒され続ける重圧からの精神的な疲労。それが身体にまで影響を与えているのである。
加えてもうひとつ。見過ごすことのできない要因がある。デュオだ。強敵と戦うときは、いつも彼が傍にいた。
確かにデュオは戦闘に参加していなかった。だが、いざというときは彼がいる、というのは自分で思っていた以上に、精神状態に作用していたのだ。
安心感である。デュオがいるから集中できたし、全力をだしきることができた。手をだしてはいないから、一人で戦っていたなどと、思い上がりもいいところだった。
一人になってそれに気がつくなんて、本当にどうしようもなかった。
石で舗装されている地面を削り、跳ね上がった斧をギリギリのところでかわす。眼前を巨大な鉄の塊が過ぎたかと思うと、ぱっくりと額が割れて血が滴った。
避けそこなったわけではない。ただの風圧で裂けたのだ。風圧だけでこれならば、あの斧が命中すればどうなるかなんて、想像でも考えたくなかった。
まるで削岩機だ。周りにあるモノを斧で豆腐のように切り刻む。木だろう石だろうが、おかまいなしだ。これで本当に半死状態なのか、と声を荒げたくなる。
――いや、違う。すぐさま自分の思考を否定する。出血によるためだろう。ミノタウロスのHPバーは赤くなっている。半死だからこそ、まだこうして立っていられるのだ。でなければ、最初の一撃で死んでいた。
まがりなりにも自分がミノタウロスと渡り合えるのも、敏捷性が極端に落ちているからに他ならない。本来の万全の状態ならば、一合とて持たない相手なのだ。
だからって、気休めにもなりはしないけどっ!
頭上から振り下ろされた斧を半身になってかわす。砕かれる石の破片を横目に、右足を軸にして小さく身体を回転させる。
遠心力を加えた一撃が、前傾姿勢になっているミノタウロスの角に食い込んだ。まるで金属をハンマーで叩いたような衝撃に両腕が痺れる。
「おおおおお――っ!」
構わずに大剣を振り抜く。角に入っていたヒビが拡大し、抵抗がなくなったと感じた瞬間、残されていた角が半ばからへし折れた。
折れた角はくるくると回転しながら地面に落ち、からんと乾いた音を立てた。身悶えしながら雄叫びを上げるミノタウロスに、ヘキサは口元の笑みを堪えることができなかった。
通じる。対処方法さえ誤らなければ、いまの自分でもこの牛の化け物と戦える。倒すことだってできるはずだ!
その思考こそが対処の過ちだと悟ったときには、すでにことが終わったあとだった。
ミノタウロスの筋肉が弾けんばかりに膨張する。血走った目で纏わりつく小蝿を睨みつけ、鉄塊のような斧を真横に薙ぎ払った。
気の緩みから反応が僅かに遅れた。それでもなんとか斧から遠ざかろうとし、瓦礫に足を引っ掛けて体勢を崩した。
旋風が巻き起こり、眼前に鉄の塊が迫る。避けられないと悟ったヘキサは、反射的に大剣を盾のようにし、自身と斧との間に割り込ませた。
劈くような金属音が木霊する。大剣の刀身は斧を防ぎ――拍子抜けするほどあっさりと砕けた。陽光を反射して破片が輝く。
「――、え?」
呆けた声が漏れた。
大剣を砕いた斧は勢いをそのままに、黒髪の少年の腹部を打った。鋲鎧の防御などあってないようなモノだった。腹部の重い衝撃を感じる間もなく、彼の身体は中空を舞っていた。受身をとる余裕すらなく地面に叩きつけられる。
「げぼ……っ」
口から鮮血が溢れた。視界が赤く明々している。腹に持っていった手が、ぬるりと暖かい液体に濡れた。口からはひゅーひゅーと、空気の抜けたよう音がしている。
凄まじい激痛が全身を駆け巡る。ジェルのときの比ではない。あまりの痛みに気絶することすらできない。
負けたのか。朦朧とする意識で、ぼんやりと思う。満タンだったはずの自身のHPバーが、いまの一撃でごっそりと削られ、現在も減少し続けている。
地面と水平になった視界に、ミノタウロスの脚が見えた。ドシン、と重たい足音が、地面から伝わってくる。
これで終わりか。情けない。結局、自分は守る側にはなれなかった。音が遠くなる。それに従い、視界も狭くなっていく。
ミノタウロスの脚がゆっくりと振り下ろされ――地面に倒れ伏すヘキサの身体を跨ぐと、振り返ることなく前へと進む。
見逃された? ……いや、どのみち自分は助からない。せいぜい死ぬまでの時間が少しだけ伸び、死因が変わる程度の違いでしかない。
意識が落ちる。その刹那、ミノタウロスの向かう先になにがあるのか。奇跡的に思考がそこに至ったヘキサに電撃が走った。
おい、待て。止まれ。止まれってば。そっちには行くな。駄目だ。だってそっちには。そっちの方角にはライラが――。
早く戻ってきてください。
意識が戻る。ぼろぼろの身体は相変わらず動いてくれないが、落ちかけていた意識は鮮明になっていた。
「……ざ……け、る……な」
それだけは駄目だ。許容できない。認めない。
意識は戻った。しかし、身体は動かない。動くわけもなかった。当然だ。HPバーの残量は一割を切っている。意志でどうにかできるレベルではないのだ。
指先が地面を引っ掻く。それだけの動作で戻った意識が、再び遠のきかけた。地面には流れた血液で、血溜まりができている。
それでも足掻く。身体は動かなくても、意志は止まらない。
失いたくないから。守ると約束したから。まだ話したいことがたくさんあるのだ。だから、動けよ。いまだけでいいんだ。
ここで立ち上がら――。
――アカウント、D000154。ユーザー名称、ヘキサ。
潜在意識に魂の慟哭を確認。
円卓委員会による審議を開始。
心象:憧憬。心属性:剣。心域色:青白い炎。
心経接続限界値突破。ユーザーの限定支援を要求>>>>>>不許可。ユーザーのレベル不足。ステータス不足。プライオリティ不足。
英雄条例、第四条と第七条を適応。ユーザーの限定支援を再要求>>>>>>条件付きで許可。
了承。図書館の閲覧を要求>>>>>>許可。
スキルの習得を要求>>>>>>不許可。
アビリティの作成要求>>>>>>不許可。
英雄条例、第二条を適応。アビリティの作成を再要求>>>>>>許可。
ステータスの修正要求>>>>>>条件付きで許可。
武器の修復/強化を要請>>>>>>条件付きで許可。
処理を開始。アーカイヴに接続。閲覧範囲を第一深度で設定。該当項目の検索を実行。
……。
…………。
………………。
検索完了。該当項目なし。
閲覧範囲を第四深度まで拡大。再検索を要求>>>>>>不許可。
閲覧範囲を第三深度に縮小。再検索を要求>>>>>>許可。
検索を再実行。
……。
…………。
………………。
検索完了。
勇気/羨望/闘志。アビリティの作成を開始。
……。
…………。
………………。
作成終了。アビリティ『戦歌の鼓動』を習得。
ユーザーの内在生命子を+50。戦闘終了まで全ステータスを+5。戦闘終了後に全ステータスを-2。
武器の修復/強化開始。
名称・グロリアス。武器種類・大剣。
破損修復>>>>>>完了。
強度補強>>>>>>完了。
性能値強化>>>>>>完了。
以上。処理を終了。
汝に女神の祝福を――。
――なければ意味がないだろう!
意志に反応して身体が動いた。動かないはずの身体が動く。その事実をヘキサには疑問にも思わなかった。思う必要もなかった。
地面から身体を引き剥がす。
ミノタウロスが脚を止めた。振り返る。地面に立つ黒髪の少年を見やり、動揺したように充血した目を瞬かせた。
地面に転がっていた大剣の柄を掴む。ずっしりとした両手の重さに、上半身が前に傾く。半死状態の身体には重すぎるそれを、ふらふらとよろけながら引き摺るようにして構えた。
折れたはずの刃が修復されていることも、肉厚の刀身が黒曜石のような輝きを放っていることも、いまのヘキサにはどうでもいいことだった。
自分はまだ戦える。誰かを守るために剣を振るえる。それだけで十分だった。後は不要。取るに足らない瑣末事だ。
大剣の切っ先を持ち上げる。それだけの動作で腹部から血が溢れて激痛がした。苦痛の呻き声を噛み殺し、黒髪の少年は剣を振るうべき理由のために、ミノタウロスへと足を踏み出した。
鬱陶しかった雑魚が宙に舞った。自分の片角をへし折った忌々しい雄は、地面に叩きつけられるとそれっきり動かなくなった。
否、僅かに身じろぎしているところを見ると、まだ息をしているようだ。もっとも、それも時間の問題だろうが。
ミノタウロス。30界層のモンスターでは、最強クラスのモンスターである。強靭な生命力に他を圧倒する怪力。魔法耐性こそ低めだが、単純に戦闘力のみを考慮するのならば、40界層クラスと比べても見劣りしないだろう。
ある程度実戦を積んだ探索者ならば、感覚で理解できることなのだが、実はモンスターには固体差が存在しているのである。
その中でも特に種族としての枠から外れてしまったモノを変異種と呼び、その強さはもはや元とはまったくの別物である。
このミノタウロスは変異種ではないものの、かなり”できる”固体だった。それ故なのか、ソレにはおぼろげながら意志というモノがあった。
ソレは怒っていた。住処である岩場から暗い場所に閉じ込められたかと思えば、見知らぬ場所に放り出されていたのだ。
怒りから暴れ回っていたところを、赤い衣の人間に殺されかかった。己が助かったのが、人間の気紛れだと理解したとき、ソレの怒りは限界を突破した。
屈辱だった。憤怒に我を忘れて、傷だらけの身体で暴れていたところで、今度は二人の人間に遭遇した。一度は見失ってしまったが、匂いを追跡し片割れを見つけて後はご覧のとおりだ。不様に這い蹲り死にかけている。それに雌のほうの居場所もわかった。
鼻を鳴らす。血臭に混じり雌特有の匂いが鼻をくすぐる。匂いの強さからそう遠くはない。すぐに見つけられるだろう。
元より複雑な思考はできない。ソレの脳内からは死にかけの雄のことなど消えていた。あるのはどうやって、雌を殺すかだけだった。
のっそりと動きだす。このとき雄を踏み潰さなかったのは、ちょうど跨ぐ位置にいたからであり、単なる偶然だった。
そして、その偶然がソレにとっての致命傷になった。
背後からの物音に振り返ると、そこには立ち上がる雄の姿があった。全身を自身の血で赤く染め、幽鬼のような瞳でこちらを見据えている。
死にかけだ。誰が見ても明らかに死ぬ寸前であり、反撃する余力など持ち合わせていないのは明確だった。だが、目はまだ死んでいなかった。血に濡れた顔面は蒼白だったが、黒い目だけは違った。強い意志を内包した、苛烈な光を宿している。
雄は黒い刀身の大剣を半ば地面に擦るようにして、地面を蹴るとこちらに突撃してきた。鉛色の斧と黒い大剣が噛み合い、眩い火花が飛び散った。
膨張した筋肉が軋み、足元の地面が砕けた。雄の一撃は速く、なによりも重かった。先ほどの比ではない。全力で対抗しなければ押し切られる。
思考ではなく本能で察したソレは、大剣を弾くと斧を振りかぶった。渾身の力を込めた一撃はしかし、黒い大剣によって受け止められた。
ソレは驚愕した。さっきはこれで大剣を砕き、雄に致命的な一撃を喰らわした。なのにいまは、ビクともしない。揺るぐことなく斧を防いでいる。
あまつさえ、雄は反撃に転じた。斧から抵抗が消えたかと思うと、殺意が込められた一撃が、ソレに襲いかかった。際どいところで斧で防ぐが、予想以上の一撃に拮抗状態を維持できず、斧が押されて肩に刀身が食い込んだ。
信じられない力だ。本当にこれが死にかけの人間だというのか。
目が合う。黒い瞳が宿す炎に芯が冷える。死に損ないの人間に気圧される己に気づき、ソレは血の混じった咆哮を木霊させた。
許さない。許してなるものか。この一撃で殺す、とソレは斧を振り下ろすが、またしても黒い刀身に受け止められた。
理解ができない。どうして防げる。どうして反撃できる。
いつしかソレを支配していたのは、燃えるような怒りではなく、凍るような恐怖だった。己を貫く衝動のままに、ソレは斧を振り回し続けた。
剣を振るう。
白熱する思考。白熱する身体。ただ無心でヘキサは剣を振った。
削岩機と評した連撃をことごとく防ぎ、同じ数だけの攻撃を叩き込む。大剣と斧が凌ぎ合い、発生した突風が周囲のモノを巻き上げる。
劈く金属音が響く度、彼の腹部の傷口から血が噴きだし、足元に新しい血溜まりを作っていく。ところが、ヘキサは全身を駆け巡る激痛など無視している。腹部の裂傷から溢れる血に、顔色一つ変えない。
変化が起きたのはその直後だった。ボボッと渦を巻く白い蒸気。炎の幻視させる陽炎の如き揺らめき。黒髪の少年の全身から白い蒸気のような煙が噴き出していた。
愚直なまでに剣を振るう。
前に。前に。前に――。立ちはだかる壁を壊すため、その先に進むために、がむしゃらに振るわれる剣が加速する。
互いに足を止めて近距離での応酬。黒髪の少年の目にはすでに、モンスターの姿は映しだされてはいなかった。彼が見ているのは届かぬ背中。あの日、憧れた白い背中だ。
手が届かないとわかっているからこそ、それに向かって手を伸ばす。いつの日か自分も、ああなりたいと憧憬を抱いて。
自分に呆れもしたし失望もした。所詮、自分なんてこの程度の代物なのだと、届かない背中に伸ばした手を引っ込めてしまった。しかし、それでも諦めきれない燻りが、胸のうちには確かに存在したのだ。蝋燭の火にも及ばない小さな瞬き。
力なんてない。自分を守るのが精一杯で、他者に伸ばす手などなかった。それでも、金髪の少女を助けたいと望んだのだ。
白い蒸気は尚も激しく全身から立ち昇っている。痛みを感じない肉体に違和感を抱くだけの思考などなく、技術の欠片もない不恰好なままに剣を振り回し続けた。
ライラ。僕をからかうのが大好きなサディストでいつも困らせられていた。人形みたいに整った容姿のくせにありえないくらい毒舌で、でも本当は誰よりも優しくて。いつも助けられてばかりだった。――ああ、だから思ったんだ。無表情で無愛想なその面を、笑い顔に変えられたのならさぞかし痛快なのだろうと。
故に魂を励起しろ。願いを口にしろ。容なき願いにあるべき容を与えろ。自分にとっての願い――在り方――即ち――、
「■■■■■■■。■■■■■■■■■■」
発動した。歯車が駆動する。音もなく接続された歯車が軋みを上げて、幼稚で未熟ながらも貴い幻想を駆動させた。
鮮烈な剣戟。白い陽炎は魂の輝き。幻体が内包する貴い魂の在り方だ。
どれだけの時間が経過したのかわからない。一分かもしれないし、一時間かもしれない。都合何度目かも不明な激突の後、小さな異変が生じた。
爆発じみた激突音が響く中、ピシリと乾いた音が響いた。音の出処はミノタウロスの持つ斧の先端。刃の部分が欠けていた。破砕音は激突を重なるたびに大きくなり、斧の破損は離れたところからでも確認できるほどになっていた。
届け。
斧の破損が拡大する。ヒビは柄にまで入っていた。刃の下半分は完全に砕け、すでに斧としての輪郭を保っていない。
対して、黒の魔剣はいまだに刃毀れ一つない。黒曜石のような光沢を持つ刀身が、陽光に濡れたような光を反射する。
届けッ!
それだけを願う。思考から乖離した意志。振るう剣の重さを支えるのは、強い願いだと思うが故に。
だから――。
「と、ど……けぇぇぇぇ――ッ!!」
孤を描く白い軌跡。黒い刀身が鉛色の斧を粉砕した。踏み込む。感覚のない手足。それでも戦う意志は折れていない。翻った剣先がミノタウロスを深々と切り裂いた。肩から腰まで斜めに刻まれた傷口から、噴水のような鮮血が青空を赤く染める。
モンスターの両手から残された柄が滑り落ちる。直後、灰色の巨体がぐらりと傾ぎ、前のめりになって地面に倒れた。
「たおし、た……?」
地面に突き立てた剣に寄りかかり、沈黙したミノタウロスを見下ろす。HPバーは砕け散っていた。身体の末端が光に変換されている。それがなによりの証明だった。
「や――だぁっ!?」
口元を緩めた瞬間、白い蒸気が消えた。途端に身体を貫く痛みに、声もなく地面に崩れ落ちた。仰向けに倒れて咽る。指一本すら動かせない。痛覚の処断が切れているのに熱を感じない。感じるのは寒気だけだ。
意識を保っていられたのは一瞬だけだった。急な坂道を転げ落ちるように、意識が深い闇に浚われる。記憶が途切れる瞬間、複数の足音と声が聞こえた気がした。