第四章 誰がための剣(2)
想定外の痛みに顔面を押さえて身悶えていたヘキサは、傍の気配に伏せていた顔を上げた。涙で歪む視界に、金髪の少女が映る。
「……ライラ」
「貴方という人は。なにをしているのですか」
いつもの無表情と無愛想な物言いに、彼は心の底から安堵した。
「よかった。無事だったんだ」
「ええ。おかげさまで。なんとか無事ですよ。……むしろ、ヘキサのほうが大丈夫ですか。なにやらもの凄い音がしてましたが」
「こ、これくらいなんともないよっ」
理由がわからないが温度の低い視線に、ヘキサは慌てて鼻を啜ると、大丈夫なところを見せようと立ち上がった。
一瞬、ふらりと眩暈を感じたが、それもすぐに収まる。背中に大剣を戻したときには、すでに鼻血も止まっていた。HPバーが若干減っているのは、この際は無視することにした。
「そうですか。よかった」
ほっとしたような吐息に、ヘキサは鼓動を早めて、
「これで玄関の修理費を請求できますね」
その一言で現実に引き戻された。
「え!? そこ! そこの心配なのっ!?」
「はい。きっちりと支払ってください」
真顔で肯定するライラに、わなわなと慄くヘキサ。まさかこのタイミングで、修理費の請求をされるとは思わなかった。
「いやいや。ってか、なんで僕が払わなくちゃならないの。僕はライラを助けたんだよ!? 不可抗力でしょ!」
「でも、壊したのはヘキサですよね?」
冷静な一言だった。
「……まあ、その……確かに、僕だけどさ」
「あ。ついでに壁の修理費もお願いします」
「なんか増えてるぅー!?」
そのうち壊れたアイテムの代金まで、払わせられそうな空気だった。無茶振りを平然とする辺り、流石はライラだと驚きを隠せない。
だが――。
「平気そうで安心した」
本心だ。店の壁に大穴が開いているのを見たときは、正直生きた心地がしなかった。ひょっとした、もう――と最悪の事態に、青褪める思いだった。
「……無事だと言ったはずですが」
そうだけどさ、とモゴモゴと口の中でつぶやきつつ、きょろきょろと周囲を見回す。彼が感知できる範囲内にモンスターはいないようだが、それとて安心できるモノではない。
茶髪の少年が言っていた『当たり』とやらも気がかりだ。早急にライラを安全な場所に連れて行く必要があった。
「ライラ。修理費の話は後だ。まずはここから逃げないと」
「それもそうですね。……では、こちらはもう結構ですので、早く”行ってください”」
「……ねえ、ライラ」
金髪の少女の言葉に不吉を感じたヘキサは、確かめるような口調で問うた。
「もちろん、ライラも一緒に逃げるんだよね」
「いいえ。行きません」
問いに対する返答は否定だった。
「私はここに残ります。ヘキサは一人で逃げてください」
「ごめん。意味がわからない」
正気とは思えない。いつまたモンスターが現れても不思議ではないのだ。それなのに一人で残るなどと、自殺行為だとしか考えられなかった。
「ヘキサも知っているでしょう。私は走れません。足手まといになるだけです」
「だから残るっていうの?」
「安心してください。私とて自分から死ぬつもりはありません。幸いここには対モンスター用のアイテムがあります。準備さえ怠らなければ、そうそうやられたりはしませんよ」
窓の外に視線を向ける彼女の顔には、いつものように表情がなかった。知らずヘキサは噛みしめた奥歯を鳴らした。
何故だろう。その無表情に安堵を抱いていたのに、いまはそれが無性に腹立たしくて仕方がなかった。
「ふざけるな」
喉の奥から搾り出すような声だった。自分の声とは思えないしゃがれた声が、沈黙する室内の空気を小さく震わせた。
「ふざけてなどいません。まったく。聞き分けのない駄犬ですね。貴方は早く逃げなさい。……間に合わなくなりますよ」
「ライラッ!!」
「それから修理費ですが、私が生きていたらでいいですよ」
その一言でヘキサは完全にキレた。
「ヘキ――きゃっ!?」
ヘキサは無言でライラに近寄ると、彼女の背中と両脚に手を回し、有無を言わせずに抱きかかえた。所謂、お姫様抱っこである。これは流石のライラも恥ずかしいのか。白い頬を紅潮させると、ヘキサの胸をぽかぽかと両手で叩いた。
「な、なにをッ。くっ、離しなさい。駄犬! 本当に矯正しますよ!?」
ジタバタと全身を使って暴れるライラだが、仮にも探索者であるヘキサを振り解くには至らなかった。
「うるさい」
普段のヘキサからすれば大胆すぎる行動だったが、頭に血が上っているためなのか、気後れは一切感じなかった。
「一人で逃げろ? っざけんな。なんのためにここまできたと思ってるんだ。これでスゴスゴ引き返すなんて、ただのお間抜け野郎じゃないか」
そんなのは嫌だ。それではライラを助けにきた意味がない。そもそも彼女の足が不自由など、こちらは先刻承知しているのだ。
尚も腕の中で喚くライラの罵倒を無視し、ヘキサは彼女を抱きかかえたまま、壁に開いている大穴から外にでると、マリーゴールドに向かって駆けた。
道中、ライラがいることもあり、彼は細心の注意を払いながら左右に視線を配る。少しの違和感も見逃すまいと、瞬きすら惜しんで注視した。
視界に二重写しで表示されている【索敵】を確認しつつ、一秒でも早くマリーゴールドに到着しようと、ヘキサは息を乱しながら走り続けた。
いまの状態でモンスターに遭遇する事態は避けたかった。
両手が塞がっていては咄嗟に反応できない場合もあるし、ライラを危険にあわせる可能性をできるだけ排除したいという考えもあった。
なによりも怖いのが、レイブンの言うところの『当たり』である。
ときおりスキルの有効範囲内に入ったモンスターが反応するのだが、解析不能の文字を見たときは冷や汗が止まらなかった。
とてもではないが、やりあって勝てる相手ではない。しかも、有効範囲から逆算するに、相手との距離がさほど離れていないのは明らかである。
壁に背中を預けて、そっと先の通りを覗き、モンスターがいないのがわかると、物陰から飛び出して次の建物まで走りぬける。
ずっと全力で走っているためか、全身から汗が噴きだし、額からは玉の汗が滲んでいる。目に入るのが鬱陶しいが、両手が使えないので拭うことすらままならない。
と、下から伸びてきた腕が、手に持ったハンカチでヘキサの汗をそっと拭った。
「本当に強引なんですから。……まさかとは思いますが、他の女にもこんな風に迫ってるのではないでしょうね」
口から吐きだされる言葉は相変わらず痛烈だが、汗を拭く動作は丁寧だった。
「ライラ……その……」
「いまさらなにか言うつもりはありませんよ。……その代わりしっかりと連れてってください」
苦い笑みを浮かべるライラに、彼は真剣な面持ちで頷こうとし、
「――おや? ここにも逃げ遅れた人がいましたか」
ふいに響いた声に、ぞくりと背筋が総毛だった。
弾かれたように振り返ると、いつの間にかそこには、柔和に微笑む少年の姿があった。
線の細い顔立ちをした、穏やかそうな好青年だ。第一印象は誰もがそう思うだろう。その身に重なる赤いカーソルさえなければだが。
「怪我はありませんか?」
こちらを心配するような仕草をするが、ヘキサは無言で後退った。レイヴンのときと同じだ。本能が眼前の人物に警鐘を鳴らしている。
「ふむ。大丈夫そうですね」
にこにこと笑う。爽やかな笑みだったが、いまの状況を考えると、ヘキサにはその笑みが不気味なモノにしか見えなかった。
「それでですね。初対面のところ申し訳ありませんが――死んでくれませんか?」
一歩で間合いを詰めると、にこやかに微笑む少年は、驚愕する黒髪の少年に右手のナイフを一閃した。
その一撃を回避できたのは偶然でしかなかった。最初からヘキサが警戒していたこと。反射的にライラが体重を後ろに傾けたこと。なによりも相手が本気ではなかったこと。
それらの事柄が重なった結果、狙いが逸れた切っ先は、黒髪の少年の背後にあったモニュメントを切り裂いた。
まるで熱したナイフをバターに押し当てたかのように、金属製のモニュメントに斜めの線が生じ、上半分が滑るように落下した。
鏡のように滑らかな切断面には、驚愕の表情を浮かべるヘキサの顔が映っている。
恐ろしいまでの切れ味である。ナイフをどのように使ったら、このような凄まじい切り口を作られるのか、まったく想像がつかなかった。
「ほう。外しましたか。中々の幸運に恵まれた方々ですね」
手元のナイフとヘキサたちを交互に見やり、感心した様子で言葉を洩らす少年は、彼に抱えられている少女に目を細めた。
「そこの君。その少女を殺しなさい。そうしたら君は見逃してあげますよ」
状況の推移を一切無視した一言に、ヘキサは恐怖すら忘れて呆けてしまった。言葉の内容に衝撃を受けたというよりは、純粋になにを言われたのか理解できなかった。
「偶然とはいえ、ボクの一撃をかわした褒美です。それとちょっとした余興ですよ。ただ殺したのでは面白くないでしょう」
「……本気で言ってるのか?」
「はい。そうですが……それがなにか?」
「頭がおかしいだろ、お前」
嫌悪感を露にするヘキサの言葉に、意味がわからないと言いたげな調子で、微笑する少年は小首を傾げた。
「そうですか? 君からしても悪い話ではないと思いますが。……見たところ彼女はNPCのようですね」
笑う。それしか感情がないとしか思えないほど、ナイフを持つ少年は笑っている。
「NPC一人を殺すだけで、自分の命が助かるんです。こんな好条件なんて、滅多にありませんよ」
今日は機嫌がいいので、ボクからの大サービスですよ、とナイフをチラつかせる少年に、しかしヘキサの答えは決まっていた。
「お断りだ」
「……本当に?」
「当然」
それ以外の答えなど持ち合わせていない。
「ヘキ――」
「ライラは黙ってろ」
話の途中で強引に打ち切る。
どうせろくな話ではないのだ。聞くだけ無駄である。
彼女を犠牲にしてこの場を生き延びて、それでなんになるというのだ。一生後悔するのは目に見えている。それにそれでは、彼に顔向けできない。
目を閉じれば鮮明に思い出せる。黒い襟飾りに大きな白い背中。あの背中を目指す者として、他者の犠牲を許容するわけにはいかない。
例えこの身が役立たずであろうとも。譲れないモノが胸のうちにはあった。
「そうですか。だったら仕方がありませんね」
ふうっと吐息をひとつ。くるんと回したナイフを逆手に持ち替えて、にこやかに笑う少年は静かに言葉を紡いだ。
「さようなら」
反応する間すらなかった。
額を貫かんとするナイフが振り下ろされる――その刹那だった。
「――ハッハ――ッ!!」
上空から快活な声が降ってきた。
太陽の残光である白い軌跡が目に焼きつく。頭上からの強襲にはじめて顔色を変えた少年は、バネ仕掛けのような動きで跳ね跳んだ。
曲線を描く刃が空を斬り、地面を深く切り裂いた。軽やかに着地した闖入者は赤い衣を靡かせると、大鎌を肩に担いでヘキサのほうを振り返った。
「よう、ご両人。間一髪ってか」
野生的で精悍な表情をする少年だった。
長めに切られたボサボサな金髪。刃物を連想させる三白眼の瞳。ローブに軽装鎧を合わせたような赤と白の装束を身に纏い、どこかけだるげな雰囲気を漂わせているが、その立ち振る舞いには隙が微塵も感じられなかった。
「我ながら神がかり的なタイミングだな、おい」
「まったくです。実は登場の機会を窺っていたのでは?」
茶化したような物言いに、微かな熱を含んだ声色が重なった。
「これはまた、誰かと思えば。お久しぶりですね、ナハトさん」
「はっ。オレは二度と会いたくなったけどな。カイリ」
どうやら二人は既知の間柄らしい。彼の語調にはヘキサたちのときとは違い、ある種の親近感にも似た響きがあった。
「残念です。君はこちら側の人間だとばかり思っていましたが……。いつから趣旨を変えたので? 随分と”らしくない”ことをしている」
「ああ。それについては同感だ。こういうのは”アイツ”の専売特許なんだがな。なんだってオレがこんな役割、やらされてるのかね」
ナハトと呼ばれた少年は嘆息して肩を竦めると、やれやれとばかりに首を振る。
「ま、いまさら文句言って、どうこうなるわけでもない。お姫様からの頼みごとを断ると後が怖いんでね。これからお前をマリーゴールドに引き渡して、オレは報奨金で憂さ晴らしと洒落込むさ」
だから、と言葉を切り、大鎌を頭上で旋回させた。鋭い刃の先端を笑う少年に向けて、厳かに結末を宣告する。
「抵抗するなよ。生け捕りにしたほうが、高く売り渡せるんだからな」
「賞金首、ですか。勝手なことをしてくれますよ」
「喜べよ。また額が上がってるぜ」
「ホント酷いですよね。たかだが五十人程度殺したくらいで、人を血に飢えた猛獣扱いですよ? 挙句の果てに切り裂き魔などと、不名誉な名前で呼ばれるようになっていましたし。失礼だとは思いませんか?」
「相変わらずいい具合に壊れてやがるな。一度病院で診てもらったほうがいいんじゃなか。なんだったら、一生入院してろ。きっと世界平和に貢献できるぜ」
と、そこでナハトは状況の変化についていけず、放置状態だったヘキサたちを見やり、おどけたような口調で言った。
「ってなわけだ、お二人さん。盛り上がってきたトコで悪いが、そろそろご退場願おうか。流石に片手間にやりあうのはダルいんでね」
ヘキサはライラとナハトを交互に見た。
「行きましょう。ヘキサ」
ちょんちょんとライラがヘキサの腕を引っ張る。彼女の綺麗な瞳の中の自分は、顔を歪めて泣きそうに見えた。
「……うん」
白髪の少年のときと一緒だ。自分にできることはなにもない。役に立てない。できることは逃走だけ。いるだけで邪魔になる。
僕は脆くて、そして弱い。
「あの……ナハト、さん、ですか。……その、ありがとう」
「気にするな。これも頼まれごとの一環で、やってるだけだからな」
ひらひらと手を振るナハトに小さく頭を下げ、ライラを強く抱えるとその場から、脱兎の如く駆けだした。黒髪の少年の背中が見えなくなったのを見送り、ナハトはナイフを構えるカイリに視線を戻した。
「あっさり行かしたな」
「よく言う。下手に手をだしたら、その隙を狙うつもりだったのでしょう」
「見つけた以上、見殺しにするとお姫様のお仕置きが待ってるんでね。あんな拷問紛いのお仕置きに悦ぶのはアイツだけで十分だ」
「……変わりましたね」
顔に張りつかせていた微笑がなりを潜める。
「以前の君はもっとギラギラしていました。なにかに突き動かされていたと言ってもいいほどに。少なくとも他人と行動を共にするような人ではなかった」
「……かもな。まあ、いまの境遇にはそれなりに満足してる。アイツらと馬鹿やるのは面白いし。楽しませてもらってる分は働いてやるさ」
「ボクとしては疲れるだけなんで、遠慮したいところなんですがね」
カイリはポツリと言葉を零すと、振られた大鎌にため息を吐いて回避行動に移った。無人の広場に金属音が響き、弾けた鮮血が地面を紅く濡らした。