序章 おわりのはじまり
「ぎゃあぁぁぁぁ――!? やばいやばいやばい! マジでヤバイ! ホントにマズイ! 死ぬ。本当に死んじまう――って、うぎゃあ!?」
背後から聞こえてくる唸り声に、黒髪の少年はほとんど感任せに身体を横に振った。ブンッと耳元を風斬り音が通過し、頬に軽い痛みが走る。
再び悪寒。頬の痛みを感じる間もなく前方に転がると、続けざまの一撃をかわして、起き上がると同時に、背中の鞘から大剣を抜き放った。
身の丈ほども大剣を両手で構えると、彼は振り返って襲撃者と対峙した。
「ぐるるるる……ッ」
そこにいたのは額から角を生やした熊のような生き物だった。大きな牙を生やした口から唾液を垂れ流し、両手の鋭い爪を擦り合わせてこちらを威嚇している。
角熊に重なる黒いカーソル。モンスターの名前は、ホーンベア。攻撃方法は牙と爪による近接攻撃のみ。適正レベルは7。黒髪の少年の現在のレベルが同じく7なので、やってられない敵ではないのだが、生憎とタイミングが悪かった。
「ああ……くそっ。最悪だ、ちくしょう」
ぜいぜいと荒い息を吐く黒髪の少年の顔色が悪いのは、全力で走ったせいだけではない。
ちらりと視界の隅に表示された自身のHPバーに視線をやる。赤いゲージはまだ七割近くが残っている。残りのHP残量のみを考慮すれば、十分に戦闘の継続は可能なのだが、全身に襲いかかる鉛のような気だるさで戦闘を続行するほどの余力はなかった。緊張の糸もすでに切れてしまっている。
黒髪の少年がホーンベアに襲われたのは、レベル上げを終えて拠点に帰還しようとしたときだった。体調が万全ならホーンベアの一匹くらいならどうとでもなっただろうが、度重なる戦闘からくる疲労ですでにふらふらだった彼にとってホーンベアは強敵だった。
分の悪さを感じて逃走を試みたわけなのだが、結果はご覧のとおりだ。逃げること叶わず、こうして一対一で対峙する羽目になったわけである。
【索敵】スキルの有効範囲内に他の反応がないのが不幸中の幸いではあるが、だからといって安心できる状況でもなかった。
こんなことになるのなら限界まで粘らず、適当なところで切り上げるべきだったと、後悔したところで後の祭りだ。
それよりもいまはどうやってこの危機を脱するか考えるべきである。
とはいっても、そう選択肢が多いわけではない。拠点である街までは距離がある。周りに人影はなく助けも期待できない。逃走は失敗してしまった。
ならばこそ、黒髪の少年に残された選択はひとつだけ。ホーンベアを倒す。それだけだ。それしか生き残る道はない。
一角熊とにらみ合いながら、頬から滴る血を片手で拭い、彼は覚悟を決めた。少しでも体調を整えようと一度大きく深呼吸し、黒髪の少年は大剣を振り上げて跳躍した。
長時間の戦闘に耐えるだけの余裕はない。短期決戦。疲弊している自分にはそれしかない。出し惜しみはなしだ。最初から全力でいく。
「――ッ。<息吹>!」
方術発動。内力術式<息吹>。
身体が熱い。身体を構成する生命子が活性化し、重たかった全身に活力が満ちる。
地面を強く蹴り加速する。急に変化した彼の動きに、ホーンベアは対処ができなかった。闇雲に振り回される爪を掻い潜り、大剣を薙ぎ払った。
肉を斬る生々しい感触が柄から伝わってくる。”こちら”にきて二週間。いまだに慣れぬ感触に顔を顰めつつ、抵抗に抗い一気に剣を振り抜いた。
刀身が肉を食い破り、鮮血が宙に舞う。仰け反り苦悶の叫びを上げるホーンベアの頭上に表示されたHPバーが減少する。
黒髪の少年は右足を軸に、身体を反転させ、畳み掛けるように剣を振るう。戦闘を優位に進めながらもしかし、彼の表情には余裕が感じられなかった。
時間がないのだ。身体から気だるさは消えているが、<息吹>による一時的なモノに過ぎない。効果が切れればそれこそ戦闘どころではないだろう。
角熊のHP残量が半分を割り込み、バーの色が緑色から黄色の警告色に変化した。
ホーンベアの懐に飛び込み、息の続く限り剣を振るい続ける。人気のない平原に、血飛沫が飛び散り、異形の叫び声が響いた。
目の前が一瞬、揺らいだ。そろそろ自分の限界が近いことを感じながら彼は、跳ね上げた刀身を翻した。
「これで――終われよッ!」
大上段に振り上げた大剣を渾身の力で振り下ろす。血に濡れた刀身が一角熊を斜交いに斬り、ホーンベアは巨体を小刻みに痙攣させ――HPがゼロになりバーが砕け散り、そのまま前のめりに倒れた。
同時に<息吹>の効果が切れた。反動で襲いかかってきた鉛のような倦怠感に、彼は大剣に寄りかかるようにして崩れ落ちた。
地面に尻餅をつき、口を大きく開けて呼吸する。大気には血の臭いが混じっていたが、気にすることなく空気を貪る。
「はあっ。……ギリギリだったな」
本当に危なかったがなんとかなった。今回の経験は次回に生かすとして、いまは生き残れたことを素直に喜ぼう。
「はじめて二週間でさよならとか、ちょっと洒落にならないしなぁ」
こっちはまだまだ遊び足らないのだ。これで終わりだなんて勿体なさすぎる。
と、一角熊の遺骸が光に包まれた。巨体が形を失い、光の粒子に変換される。中空に四散した淡い燐光は、彼の左手の中指につけられた指輪に吸い込まれた。
地面に突き立てた大剣に背中を預け、ふと思い出したかのようにつぶやく。
「っと、そうだった」
掲げた左手の人差し指をくるくると三回転させると、効果音を伴って眼前に半透明のウインドが展開された。
あらかじめ登録してあったショートカットモーションに反応して、出現する新規入手アイテム一覧。月見草に猛犬の牙、各種の魔石。その他、諸々の素材アイテム。そこに記述されたアイテム名を確認して、強張っていた頬の筋肉が緩んでいくのが感じた。
想定外の事態はあったものの、いつもよりも多めにアイテムを入手できた。ポーションなどの消費アイテムの経費を差っ引いても、普段の二倍は稼いだ計算である。
今日の稼ぎに満足した様子でウインドを閉じ、黒髪の少年――ヘキサは頭上を仰ぎ見た。
視界に移ったのは青い空。見渡す限りの青空を白い雲がゆっくりと流れている。ときより吹き抜ける風が、火照った身体に心地よかった。
これが仮想の世界だとは信じられない。
ただのゲーム――と一言で断ずるにはあまりにも不自然。事実、ヘキサにはこれがゲームなのか、測りかねている部分があった。
現実ではヴァーチャル関連は未来の技術とされている。実用化の目処が経っているのは、せいぜい3Dゴーグルやグローブ程度なのだ。
それがどうだ。この世界は。風の冷たさ。血の臭い。身体の熱。頬の傷の疼き。なにもかもが現実と変わらない、圧倒的なリアルな感覚。
『もうひとつの現実』の看板に嘘も偽りもないと言うわけだ。あの日の選択は間違いではなかった。そのときの自分を褒めてやりたい。
きっかけは一通のメール。
それがすべてのはじまりだった。