ともだちひゃくにん、キャパオーバー
子どもの頃に覚えた歌って、歌詞の意味なんて深く考えもせず、雰囲気だけで歌ってたよね。
たとえば小学一年生になる前の、友達作りへの希望を謳ったあの歌。
友達百人の歌だから、自分を入れたら百一人になるはずなのに、富士山の上で食事する時には一人減って百人になってる。
その一人は何処へ消えたのか、それとも“自分”は最初から存在しなかったのか――深く考えたら怖いんだけど、当時はそんなツッコミも思いつかなかったな。
あの頃、数が多いのは単純に“良いこと”だと思っていた。
友達の数が多いのは人として優れている証で、“友達百人”は目指すべき目標なんだ、って。
だけど、今はそんなこと考えられない。
だって、成長した現在の私は、自分がどういう人間なのか、もう分かってしまっている。
友達百人なんて、とんでもない。
そんな人数、私の精神の許容量を優に超えてしまっている。
ダンバー数とか言うらしいけど、人間が無理なく関係を築けるのって、だいたい百五十人くらいらしい。
人によって百から二百五十くらいまで幅はあるみたいだけど――それを初めて聞いた時「え? 多くない?」って思ったんだよね。
だって、私の人づき合いの許容量は、絶対もっと、呆れるくらい少ない。
物心ついた時から、人づき合いの輪を広げるのが苦手だった。
いつも決まった子たちとしか遊ばなかった。
友達はいつも、片手の指で足りるほどの人数。
百人なんて、望むべくもない。
クラスメイトと比べても、友達が少ないのは気づいていた。
正直、劣等感を持っていた。
友達作りの苦手な私は、人間として“ダメな子”な気がしていた。
あの頃はまだ“友達の多い人間”を、羨ましいなんて思ってもいた。
現代は何かと“数”を競う時代だ。
テストの学年順位、偏差値、年収、SNSのフォロワー数、動画の視聴人数……。
数字の大きさが、そのまま“自分の価値”のような錯覚に陥ってしまう。
他人の持つ数字と自分の持っている数字を比べて、無駄に落ち込んでしまう。
現代人が生きづらいのって、絶対これのせいでもあるよね。
何でもかんでも数値化して比較したがるけど……数字って、多いか少ないかがハッキリ目に視える分、逃げ場も救いも何も無いんだ。
デジタルな数字なら、まだサクラだとか不正だとか疑いようもある。
だけど現実的な人づき合いは、数を誤魔化しようがない。
友達の少ない私は、いつも人目を気にしていた。
“友達の少ない可哀想な子”って思われていないか、いつも気にしていた。
私はたぶん、記憶の整理が上手くない。
一度にたくさんの人とつき合っていると、混乱する。
顔と名前と情報がごっちゃになって、誰が誰か分からなくなる。
似た雰囲気の人だったり、似た性質の人だったりすると、余計に。
前に間違えて、全然別の人の話題を出して「え? 私、妹なんていないけど」って、相手に変な顔をされたこともある。
あれって本当に心臓に悪い。
また間違えるのが怖くて、迂闊に話題も振れなくなる。
相手が誰でも通用する、当たり障りのないことしか話せなくなる。
私はたぶん、同時並行作業も上手くない。
一つのことで頭がいっぱいになっている間は、他のことなんて意識の外へ行ってしまう。
約束をいっぺんに幾つも抱えるなんてできないし、考え事を同時に幾つもなんて、もっと無理だ。
友達の数が増えるごとに、ちょっとした約束や考え事が増えていく。
私に捌けるのは、片手の指の数がせいぜいだ。
友達百人分なんて、扱えるわけもない。
たくさんの友達と平気でつき合えている人を見ると、不思議に思う。
何でそんなことができるんだろう。
許容量超過で思考停止したりしないのかな。
私だったらきっと、脳が疲れてヘトヘトになってしまうのに。
友達が増えるごとに疲労が増えていくこの頭脳は、ポンコツなのだと思っていた。
たくさんの友達に耐えられない、許容量の少ない脆弱な脳ミソ。
恥ずかしいと思っていた。損をしたと思ってきた。
もっと許容量の大きな精神が欲しかった。
違和感に気づいたのは、何時だっただろう。
昨日まで“友達”と言っていた相手を、酷い言葉で拒絶する人を見た。
少し前まで“友達”と呼んでいた相手を、皆で揶揄って嘲笑う人達を見た。
ちょっとしたことで気持ちがすれ違う人類だから、人間関係が急変することなんて、そんなに珍しくもないのかも知れない。
だけど……友達って、そんなに簡単に友達じゃなくなっちゃうものなのだろうか?
友情って、そんなに薄っぺらくて軽いものなのだろうか?
……何だか、私が思ってきたものとは違う気がした。
私はもしかしたら、夢見がちで子どもっぽい物の考え方をしているのかも知れない。
たとえば私が憧れてきたのは、アンとダイアナのような“腹心の友”だった。
互いを決して裏切らず、生涯の友情を誓い合う――そんな、旧き善き名作小説の中の友情だ。
世紀からして違う時代の友情なんて、現代に持ち込んだら重過ぎるのかも知れない。
物語の中の友情なんて、所詮は現実で成立し得ない“綺麗事”なのかも知れない。
だけど今でも、私が憧れるのは、そんな宝石のような、永遠の友情だ。
簡単に相手を裏切って笑いものにしたり、傷つけたりなんて……そんな紙一重の友情、これっぽっちも憧れない。
友達の定義って、実は人によって全然違うのかも知れない――そう気づいたのは、友達の少なさに散々悩み倒した後だった。
私にとって友達は、四六時中べったりくっついて、何処へ行くのも一緒なイメージだった。
同じことに一緒に笑って、同じことで一緒に怒って、喜怒哀楽を共にする――そんな“共感を分かち合う者”。
だけど人によっては、スマホに連絡先を登録しただけで“友達”って言う人もいる。
同じ部活で過ごしただけで、話す機会がほとんど無くても“友達”って言う人もいる。
逆に、たまたま意見や好みが違っていたというそれだけで「もう友達じゃない」って言う人もいる。
だったら、私があの頃思い描いていた“友達百人”って、一体何なんだろう。
いつ頃からか、気づいていた。
友達が百人いても、その百人は決して公平じゃない。
そこには残酷な序列が存在する。
あの子にとって、私は何番目の友達なんだろう――そんな、怯えにも似た不安で、気持ちが落ち着かないこともなった。
その順位は、決して不変のものじゃない。
クラス替えひとつ、席替えひとつ、ささいな共通点の発見ひとつで変わっていく。
好きだから一番……なんて単純なものでもない。
遠く離れた気の合う友達より、日々顔を合わせる友達の方が重要――そんな場面は、人生に山ほどある。
友達って、考えれば考えるほど、複雑なんだ。
だけど私は、その複雑さを考えないようにしてきた。
考えたって、どうにもならない。
あの子の中で私が何番目かなんて、視えないし、分からない。
私の中であの子が何番目かなんて、私自身にさえ、よく分からない。
むしろ知ってしまったら、何かが壊れてしまいそうな気がする。
友達が百人いたら、一人一人に使える労力は、百分の一になっちゃうのかな。
もちろん心の中の優先順位次第で、百分の九の人もいれば、百分の一未満の人も出て来るだろうけど。
元から対人エネルギーの少ない私の百分の一なんて、ほとんど零と一緒なんじゃないかな。
友達が百人いたら、一人一人に割ける記憶の量も百分の一になっちゃうのかな。
もちろんその割合も、心の優先順位次第だろうけど……。
元から記憶の整理が上手くない私は、百分の一未満の儚い記憶なんて、きっとすぐに忘れてしまう。
つき合える人数の限界値って、きっと個人差がすごいんだろうな。
私はきっと、一握りの人間としかつき合えない性質だ。
こんな私が無理に友達を増やしたって、きっと“友達一人分の友情”が薄まるだけだ。
だけど、最近は時々思う。
友達百人とつき合える人間って、本当に私より濃い人間関係を味わえているのだろうか?
もちろん、世の中には百人全員と濃密な関係を結べる“超人”もいるのかも知れない。
だけど中には、スマホに登録しただけの人数を、友達と呼んで自慢している人もいるのかも知れない。
友達だと思っているのは本人だけで、相手からは友達だなんて思われていないかも知れない。
たくさんの友達に疲れてしまうのは、私が“友達一人に費やすエネルギー”が、他人より大き過ぎるせいなのかも知れない。
友達百人いる人より、一人の友達に全力でぶつかり過ぎているせいなのかも知れない。
友達づき合いの濃度なんて、数値化できない。
友達百人いる人と、私と、どっちが濃厚な友情を味わえているのかなんて、分からない。
だったら、嫉妬なんてしていても意味が無い。
私はただ、この片手で握り込めるだけの友情を、大切に育てていけば良いだけだ。
それが友達百人分より尊いものになるように、大事にしていけば良いだけだ。
友達百人が許容量超過な私には、きっとその方が合っている。
きっとその方が、無理なく私らしい人生を味わっていける。
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