好きにならせて利用してやろうって魂胆ですよね。すみませんが、私は聖女にはなりません。
港町ルティアの朝は、果実と風と笑い声でできていた。
青空の下、屋台の果物が並び、白い布がひらひらと風に踊る。
小さな薬茶屋「潮風亭」も、今日も静かに店を開けていた。
「セイナ、落ち葉溜まってる。掃いておけ」
店先に立ったのは、木工所で働く幼馴染のルカ。
ぼさぼさの髪、ぶっきらぼうな声、そして相変わらずの無遠慮。
「勝手に入らないでよ、もう……」
「滑る。危ない」
「うちの床の安全まで把握してるの?」
思わず呆れたように返す。
ルカは毎朝こうして現れては、黙って掃除したり、壊れかけた椅子を直したりしていく。
でも、それがありがたいと思ったことは一度もなかった。
優しいのかもしれない。だけど、その不器用な態度は、どこか“命令”に近い。
(まったく……気は利くけど、空気は読めないのよ)
セイナは溜め息をついて、軒先にぶら下がった風鈴を見上げる。
そのとき、隣の果物屋のおばちゃんが囁いた。
「ほら、また来たわよ。例の、王子様」
空気が変わった。
通りの向こうを歩いてくるのは、銀と青の衣に身を包んだ青年――
王子、ラゼル・サン=アロ。
日差しに映える金髪、柔らかな微笑み。
まるでこの町の陽射しさえ味方にしてしまうような佇まい。
「おはよう、セイナさん。今日の風はやさしいね」
「お、おはようございます……」
名前を呼ばれただけで、心が少し浮かんだ。
自分のような平民に、こんな人が挨拶してくれるなんて。
「今日も、君のお茶が飲みたくてね。心が癒されるんだ」
セイナは戸惑いながらも頷いた。
「……はい、用意します」
そのとき背後で、ほうきを止めたルカの気配があった。
けれど、気づかないふりをした。
(うるさい幼馴染より、私を見てくれる人のほうが、今は大事)
風鈴が鳴る。
なのに――
その風は、どこか冷たい。
ーーーーーーーーーーーーーー
ラゼル王子は、ゆっくりと腰を下ろした。
潮風亭の小さな木の椅子が、ほんのわずかに軋む。
「ここに座ると、不思議と落ち着くんだ。……まるで心が洗われるようだよ」
優しく語る声が、風に紛れて耳に届いた。
セイナは茶葉を湯にくぐらせながら、指先がかすかに震えるのを感じていた。
「そんな、大したことじゃ……」
「いや、君のお茶には、特別なものがある。……きっと、君自身の力だよ」
特別、という言葉に、心がざわめく。
それは、セイナがずっと信じたくて、でも遠ざけていた言葉だった。
(私が、特別なはずなんて、ない。平民の娘で、母の残した茶店を守るのがやっとで……)
でも、ラゼル王子は、そんな自分に目を向けてくれる。
店先の誰にでも丁寧な態度は見せていたけれど、セイナに向ける言葉だけは、どこか違う気がした。
王子は静かに、お茶をひと口すする。
「……やっぱり美味しい。身体の芯から温かくなる」
「それは……その、薬草の効果です」
慌てて目をそらす。
頬が、少しだけ熱い。
そのときだった。
風鈴が――鳴らなかった。
港町の朝にしては珍しく、空気が重く、風がまるで止まってしまったかのようだった。
(あれ? 風が……)
セイナは無意識に空を見上げる。
光は差している。けれど、空気がどこか静かすぎた。
その異変に、王子は気づいていない様子で微笑み続けていた。
(なんだろう、これ……)
胸の奥に浮かんだ違和感を、うまく言葉にできないまま、セイナはお茶を差し出す。
そのとき、不意に戸口から声が響いた。
「……王子に、お茶なんて、何の用だよ」
セイナが驚いて顔を上げると、そこにはルカが立っていた。
腕を組み、いつになく険しい表情をしている。
「ルカ!? いきなり何を――」
「ちょっとこい、セイナ! 王族が、こんな場所に通うわけねえだろ。……なに考えてんだ」
その言葉に、空気がピリついた。
「ルカ、やめて! そんな言い方――」
「セイナ。おまえ、変な期待してんじゃないのか?」
セイナは言葉を失った。
心の奥を、抉るような直球だった。
「王子様が私を見てくれてるって、そう思ったらいけないの?」
「……違う。そうじゃねえけど……」
「じゃあ何? 私に似合わないって言いたいの?」
「…………」
ルカは口を閉じたまま、目だけが悲しげに揺れていた。
セイナはその顔を見て、また目をそらす。
今は見たくなかった。
“自分を知っている人間”の正しさが、何より痛かった。
ラゼル王子は、あくまでも静かに立ち上がった。
「お邪魔をしてしまったかな。……また来ます、セイナさん」
「っ……はい……」
笑顔を向ける余裕もなかった。
王子が去ったあと、セイナは静かにうつむいた。
ルカの声も、もう聞こえなかった。
風が止んだまま、空だけがやけに青く見えた。
ーーーーーーーーーーーーーー
王子が帰ったあとも、セイナはお茶の香りの残る器を洗いながら、何度も手を止めていた。
(ルカの言葉……あんな言い方、ない)
怒りとも戸惑いともつかない気持ちが胸に残る。
だけどそれ以上に、心の奥にひっかかっていたのは――
(王子様の“ありがとう”って、すごくあたたかかった)
ふわりと花が咲くように思い出される、あの声。
やさしいまなざしと、自分のためだけに向けられた笑顔。
(……誰かに“特別”って思われるのって、こんな気持ちなんだ)
今までの人生で、そんな風に扱われたことはなかった。
平民の娘として、目立たずに、母の店を守ることで精一杯だった日々。
王子はそんな自分に、まるで光を注ぐようにやさしくしてくれる。
ルカみたいに無遠慮に入ってきて、勝手に箒を振るって、文句を言うような人じゃなくて――
静かに、でも確かに、心に触れるような人。
(ルカには分からない)
セイナは首を振り、頭を切り替えるように台を拭きはじめた。
ちょうどそのとき、店の戸が軽く叩かれた。
「……もう、何か忘れ物?」
戸を開けると、そこには王子がいた。
「もう一杯、お茶が飲みたくて。……もし迷惑じゃなければ」
「……いえ、大歓迎です」
自然と笑みがこぼれた。
彼の存在は、少しだけ沈んだ空気を押しのけるように、優しくそこに立っていた。
王子はいつものように座り、セイナが差し出した茶をゆっくりと受け取る。
「……今日はね、少しつらい日だったんだ。心の疲れは、なかなか取れないね」
「……王子様でも、そんな日があるんですか?」
「あるさ。僕も、ただの人間だよ。君のように、誰かに癒されたいと思う時もある」
その言葉が、心に染みた。
(……私なんかが、癒しになる?)
「セイナさん」
名前を呼ばれただけで、目が合っただけで、心臓が跳ねる。
「僕が、君の店に来る理由……本当にわかっていないのかい?」
「えっ……?」
王子は、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
その手は、優しく、でも確かに、セイナの指に触れた。
「君のことが、もっと知りたい。……そう思っているんだよ」
世界が止まったように感じた。
言葉が出ない。
だけど、目の奥が熱くなる。
(私なんかを……?)
信じられない気持ちと、信じたい気持ちが、胸の中でぶつかっていた。
(……この人のこと、もっと知りたい)
風が、ほんの少しだけ揺れた。
でも、それは“心の波”ではなかった。
あの日と同じ、どこか空虚な揺れ。
それでも、セイナは――信じたくなっていた。
ーーーーーーーーーーー
◆王子視点
「心の揺れがはっきりと現れた。……風の流れが、彼女の感情に同調していた」
港町ルティアの古い宿屋、その奥の一室。
ラゼル王子は、淡々と話しながら机の上の地図を指でなぞっていた。
その向かいにいるのは、側近のエルヴィン。無駄のない動きと無感情な顔をした、王都からの腹心だ。
「つまり、聖女の兆候は確実と?」
「ああ。自覚がないのがむしろ理想的だ。操りやすいし、情に訴えればすぐ動く」
ラゼルは椅子にもたれ、ゆっくりと笑った。
「彼女は信じているよ。僕が、彼女だけを見ていると」
エルヴィンは目を細め、声を潜める。
「問題は、婚約関係です。王妃候補はもうすでにいらっしゃいます」
「わかってる。だからこそ、“正式な妃にはできない”ことをどう伝えるかが肝だ」
「……感情を先に引き寄せるのが鍵、ですか」
「ああ。好きになった後で、真実を小出しにする。
そうすれば、“でもそばにいたい”って思わせられる。……愛人という形でね」
ラゼルはグラスを軽く揺らした。
中の薬酒が静かに音を立てた。
「聖女を得るには、信頼と感情が先。
――彼女は、もうすぐ俺のものになる」
そしてラゼルは立ち上がる。
夜の帳が降りた港町に、甘い毒のような微笑みをたたえて。
「今夜が、決め手だ」
⸻
◆セイナ視点
風がぴたりと止んだ夜。
茶店の灯りがゆらゆらと揺れている。
セイナは、湯を注いだ器を王子の前にそっと置いた。
指先がかすかに震える。けれど、胸の奥の言葉はもう決まっていた。
(言わなきゃ。ちゃんと、言いたい)
「王子様……」
ラゼルは、変わらぬ優しい微笑みで彼女を見た。
「……私、あなたのことが、好きです」
ぽつんと落ちたその言葉は、店内の静けさに吸い込まれていく。
ラゼルは一瞬、目を細め――そして、微笑んだ。
「……ありがとう、セイナ。嬉しいよ、本当に」
涙が出そうだった。自分の気持ちが、届いたような気がして。
だけど――
「ただ、一つだけ……伝えておかなきゃいけないことがある」
セイナの笑みが、少しだけ凍った。
「……はい?」
「僕には、王都に婚約者がいる。……政略だよ、僕の気持ちとは関係ない」
その言葉は、音もなく心に突き刺さった。
そして続いたのは、あまりにも穏やかで、あまりにも優しすぎる声だった。
「でも、セイナ。君のことは、本当に特別だと思ってる。
だから、正式な妻にはできないけど……君に、そばにいてほしい」
“特別”という言葉に、胸がきゅうっと痛んだ。
嬉しいのか、苦しいのか、もう自分でも分からなかった。
「私を……愛してる、とは言えないんですね」
そう問いかけた声は、驚くほど冷静だった。
けれど王子は、すぐに答えなかった。
その沈黙が、答えそのもののようで。
(分かってる。……でも)
セイナは、自分の手のひらをじっと見つめた。
たくさんの茶器を洗い、母と過ごした記憶がしみついた手。
(私は、誰かの“特別”になりたかっただけなんだ)
たとえ、それが“本物の愛”じゃなかったとしても。
今、この瞬間、自分を必要としてくれているという言葉に、縋りたかった。
「……はい。私は、そばにいます」
その言葉が出たとき、王子は安堵のような笑みを浮かべた。
「ありがとう、セイナ」
その笑顔に、すこしだけ胸が痛んだ。
でも、選んだのは自分だった。
だから――
この手が、どんな未来に繋がっていても、今だけは信じたかった。
ーーーーーーーーーー
港町ルティアの夜は、いつになく静かだった。
茶店を閉めたあと、セイナは心を落ち着けるため、裏口から路地へ出た。
王子に「そばにいてほしい」と言われたこと、その申し出を“受け入れてしまった”自分。
あの決断が、胸の奥で重く、鈍く響いていた。
(私は……間違えたのかもしれない)
誰かに“特別だ”と言ってほしかった。
愛されたかった。ただ、それだけだったのに。
ふと、風が止んだ。
潮の香りの中、細い小道に入りかけたそのとき――聞こえた。
「……ええ、“愛人として扱うだけ”です。もう落ちましたから」
一瞬、耳を疑った。
それは、王子の声だった。
「感情の揺れも確認済み。これで“王都送り”は確定です」
「聖女かどうかなんてどうでもいい。力さえ使えればいいんだよ。
王妃になれない立場ってのが、ちょうど都合がいいんだ。縛られずに使える」
“使える”。
“送り”。
“愛人”。
セイナは、足元が崩れ落ちるような衝撃に、思わず手を壁についた。
あのやさしい言葉も、まなざしも。
すべてが、嘘だった。
(私……ただの道具だったんだ)
頭が真っ白になった。
どうやってその場を離れたのか、覚えていない。
気づけば、夜の市場を走っていた。
涙が止まらなかった。胸の奥がひりついて、何も見えなかった。
「セイナ!」
誰かの声がした。
振り返ると、そこにいたのはルカだった。
「……ル、カ?」
「店の前で待ってた。来ないから、嫌な予感して探したんだ……って、お前、泣いてんのか?」
セイナはたまらず、ルカの胸に飛び込んだ。
子どものように、泣きじゃくった。
ルカは何も言わず、ただ、そっと抱きしめてくれた。
「……何があった?」
セイナは、しゃくり上げながらぽつりぽつりと語った。
王子に言われたこと、自分が信じてしまったこと、そして――聞いてしまった真実。
ルカの顔がどんどん険しくなるのが分かった。
「……クソが。最初から全部、計画だったんだな」
セイナはうつむいたまま、ぼそっと呟く。
「私が、バカだったの。
誰かに必要とされたくて……“特別”って言葉に、縋りたくて」
そのとき、ルカがセイナの頬に手を添えて、まっすぐに言った。
「……お前は、間違ってねえ」
「でも……」
「でもじゃねえよ。
誰だって……誰かに、大切にされたくなる。お前が弱かったんじゃない。優しすぎたんだよ」
その言葉が、胸にしみた。
ごく自然に涙が溢れた。
「……でも、王子のところに行かなくても、王都の人が来るよね?」
ルカは少しだけ顔を伏せ、低く言った。
「……そうだな。あいつらは、お前を“聖女候補”として目をつけてる。
“そばにいる”って言った以上、引き下がらねぇ。今さら断っても、強引に連れていくだろう」
「逃げられない、の……?」
「いや、逃げられる」
セイナが顔を上げると、ルカの目は鋭く、そして確かに燃えていた。
「なあ、セイナ。……お前、知ってるか?」
「なにを……?」
「“聖女”になった女は、寿命が短え。
噂だけど、実際、歴代の聖女たちはまともに年を取れてない。
理由は簡単だ。王都が、力を絞り取るんだよ。使えるだけ、使って、壊れるまで」
セイナの心臓が、凍りついた。
「そんな……」
「だから言う。行くな。
あんなやつらのために、命なんて削るな。……逃げよう、セイナ。俺と一緒に」
セイナは、しばらく黙っていた。
でも、やがて小さく笑った。ひどく泣いた後の、少しだけ晴れた笑顔だった。
「……うん。逃げよう」
今度は、自分の足で。
信じたい人の手を、自分で選んで。
その瞬間、港の風が――優しく吹いた。
ーーーーーーーーーーーーーー
まだ夜の明けきらない港町ルティアの路地裏を、セイナとルカは静かに走っていた。
「……こっちだ。人通りが少ない裏道を使う」
ルカが指さした先には、市場の裏手に抜ける細い通路。
夜明け前の町は、思ったよりも静かで、あたりは薄明かりに染まりはじめていた。
背負った荷が肩に重くのしかかる。
けれど、心のほうがもっと重かった。
(これでよかったんだよね?)
セイナは走りながらも、心の中で何度も問いかけていた。
王子の甘い言葉に流されて、“そばにいる”と答えてしまったあの夜。
それがすべて、計算の上だったと知った瞬間――崩れるように何もかもが壊れてしまった。
「……ルカ、ここまで来てくれてありがとう」
ようやく海が見えたところで、セイナは足を止めた。
潮の香りと、冷たい夜の風が吹き抜けていく。
ルカが振り返る。
「急ごう。日の出と同時に港の見回りが始まる。出るなら今だ」
セイナは、小さく首を横に振った。
「……ごめん。私、やっぱり一人で行く」
「は?」
ルカが目を瞬かせた。
「私が王都に目をつけられたのは、私のせい。あなたまで巻き込むわけにはいかない。
……逃げるのも、戦うのも、私一人でやらなきゃいけないの」
そう言って微笑むセイナの顔は、どこか張り詰めていた。
強がっているのが、ルカにはすぐに分かった。
「……バカか、お前は」
ルカは静かに、しかし強く言った。
「俺は、自分で決めてここに来たんだ。誰かに頼まれたわけじゃねえ。
“巻き込まれた”わけでもねえ。……俺が、そうしたかったから来たんだ」
セイナは、何も言えなかった。
ルカは、ぐっと彼女の肩を掴んで言った。
「お前が……俺の好きな女だから、守りたいんだよ!」
その一言に、セイナの胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
優しい言葉。まっすぐな気持ち。
(でも、こんな状況だから……心が弱ってるから、余計に、そういう言葉が胸に刺さるのかもしれない)
ルカの告白に、嬉しくないわけじゃなかった。
でもその気持ちに、すぐに飛びついてしまう自分が――どこか、怖かった。
(こんなときに誰かに優しくされたら、すぐ好きになっちゃう。……そういうとこ、ほんとちょろい)
(王子様のときもそうだった。笑いかけてくれただけで、信じてしまった)
ルカの手があたたかくて、安心する。
でもこれは“恋”じゃない――きっと、“ときめいてるだけ”。
その区別を、今の自分はちゃんとつけていたい。
そんなセイナの胸のうちを知ってか知らずか、ルカは少しだけ目を細めた。
「でもな、この傷いついてるお前から、返事をもらおうなんて思ってない。
今はとにかく逃げよう。……それだけだ」
その声は、驚くほどまっすぐだった。
何の見返りも求めない、ただ守りたいという想いだけがそこにあった。
セイナは、涙をこらえながら微笑んだ。
「……ありがとう、ルカ」
その言葉には、まだ“恋”はなかった。
けれど、確かな“信頼”があった。
「じゃあ、乗れ」
目の前にあったのは、小さな木の舟。
波打ち際に浮かぶそれに、ルカがさっと先に飛び乗った。
「知り合いの舟だ。少し進めば潮の流れに乗れる。向こう岸に着いたら、あとは森を抜けて……自由だ」
セイナは、小さく笑って舟に足をかけた。
その手を、ルカがしっかりと取る。
「ありがとう。私、もう一人じゃないって思える」
「お前がそう思えたなら、それでいい」
舟が静かに岸を離れた。
水面がゆらりと広がり、朝焼けが海に色を落とす。
風が吹いた。
背中を優しく押すように。
(今度こそ、自分で選んだ道を歩く)
過去の傷も、涙も、そしてときめきさえも――すべて引き連れて。
セイナは、初めて「自分で選んだ自由」へと漕ぎ出した。
ーーーーーーーーーーーーーーー
港町ルティアの宿、朝。
金の刺繍が入った王国の装束を纏いながら、ラゼル王子は静かにカップを傾けた。
が、紅茶の味はどこか薄く、舌に乗らなかった。
目の前には、側近のエルヴィンが無言で報告書を差し出していた。
「……で、“いない”とはどういう意味だ?」
低く響いた王子の声に、エルヴィンが淡々と答える。
「今朝、茶店を訪れたところ、本人の姿はなく、開店の様子もありませんでした。
荷物は部屋にそのまま。家族にも行き先は不明とのことです」
「……逃げた、ということか」
「そのようです。痕跡を残さず、あまりにも静かに――まるで最初から“決めていた”ような」
王子はカップを静かに置いた。
指先に微かな震え。だが、顔には感情の色を出さない。
(あの女が、俺から……逃げた?)
思い返す。
柔らかく下げた視線、口元に浮かんだ微笑、そして“そばにいてもいい”と囁いた声。
確かに、手に落ちたと思っていた。
それでも――消えた。
「……なぜ、逃げる?」
小さく呟いた声に、エルヴィンが答える。
「昨夜、彼女が裏口から出る姿を見たという証言が一件。
また、茶店の配送係――“ルカ”という青年と連れ立っていたとの目撃があります」
王子の表情が、静かに険しくなる。
「幼馴染、か。庶民のくせに忠誠もなく、余計なことを」
しばしの沈黙の後、王子は窓の外へと視線をやった。
朝の光が港を照らしていたが、その景色も今は白々しい。
(そもそも、なぜ俺がわざわざこの町まで来たのか)
本来なら、セイナごとき庶民の娘に構う必要はなかった。
だが――聖女の資質をもつ“可能性”があると報告されたその瞬間、状況は変わった。
王都では今、次代の“聖女選定”を巡って貴族間での駆け引きが熾烈を極めている。
彼女を早期に囲い込み、“聖女”として王都に連れ帰ることができれば――
(俺の立場は揺るがぬものとなる)
しかも、正式な妃にできない“庶民の娘”は、縛らずに扱いやすい。
傍に置き、利用し、必要がなくなれば……それまで。
そのために、自ら足を運んだのだ。
“本物”かどうか、目で確かめ、心を操る価値があるか判断するために。
(だが……)
セイナは逃げた。
まだ何者にもならぬ、“聖女候補”の段階で――こちらの網を破って。
「……探せ。すぐにだ」
「承知しました。町の外れ、舟着き場と森の抜け道に兵を」
「この件が漏れれば、王都での立場に響く」
(俺を好きにならない女など、いないはずだ。
なぜ――“あの娘”だけが、それを拒む?)
王子の喉奥に、焦りが滲んだ。
そしてそれが、苛立ちと怒りに変わるのに、そう時間はかからなかった。
ーーーーーーーーーーーーーー
舟は、朝焼けに染まる海を静かに進んでいた。
潮の流れに乗りながら、二人の姿は港町ルティアの灯を遠ざけていく。
背後にはすべてを置いてきた。店も、荷物も、過去も。
ルカは舵を取りながら、時おりちらりとセイナを見た。
だが彼女は黙って海を見つめ、何も言わなかった。
(逃げ出すなんて、ほんとは、したくなかった)
港町には、幼い頃からの思い出があった。母の声、茶の香り、市場のざわめき。
“あの日々”が、すべて偽りだったわけじゃない。
でももう、戻れない。
――私を聖女として王都送りにするって言ってた。
あの王子の言葉が、耳にこびりついている。
(利用されるくらいなら、ただの平民のままでいい。何者にもなれなくていいから、生きていたい)
風が吹いた。
肌を撫でる潮の香りに、少しだけ心がほぐれる。
そのとき、ルカがぽつりと口を開いた。
「腹、減ってないか? 少しだけ、干し果とパンがある」
「……うん、ありがとう」
セイナが受け取った果実は、ルティアでよく見るスイ果だった。
瑞々しい香りが、懐かしさと安堵を呼び起こす。
小さな一口をかじりながら、セイナはそっとルカに問う。
「ねぇ、ルカ。……後悔してない?」
「なにを?」
「私を、連れて逃げたこと」
ルカは短く息をつき、すぐに首を振った。
「後悔? するわけねぇよ」
即答だった。
「お前があのまま王都に連れてかれたら……二度と戻ってこれなかったかもしれねぇ。
そう思ったら、いても立ってもいられなかっただけだ」
セイナは静かに頷いた。
けれど、胸の奥がわずかにざわめく。
(こんなふうに誰かに大事にされると……また、信じてしまいそうになる)
(でも、それは“恋”じゃない。たぶん、安心したいだけ)
“好き”という言葉にすぐにほだされた自分がいた。
だから今度は、少し距離をとって、自分の心をちゃんと見つめたい。
「……ありがとう、ルカ。でも、私……すぐ流されやすいから。
気をつけるって、決めたの」
そう言ったとき、ルカはにやっと笑った。
「そりゃあ、お前は昔っからちょろい女だもんな」
「ちょっと!」
「冗談だよ」
舟が波に揺れ、笑い声が波間に溶けた。
ほんのひととき――心が軽くなる。
やがて、遠くにうっすらと陸地が見えてきた。
「あそこだ。あの岬を越えれば、町がある。しばらくは、そこで身を隠せるはずだ」
「……うん。ありがとう、ルカ」
舟は、波の向こうの夜明けへ向かって進んでいった。
ーーーーーーーーーーーーー
王都ルミエルに貴族と神殿の重鎮たちが集まっていた。
高窓から差す光が薄く、まるで空そのものがこの国を憂いているようだった。
「――南の結界が、崩壊を始めた?」
議場の中央。報告を聞いた重鎮たちの声がざわめいた。
「はい。正確には“弱体化”です。
聖域からの力が、日を追うごとに不安定になっています。
……該当時期は、“聖女候補セイナの失踪”と一致」
「つまり……彼女がいたことが、結界の“核”だったというのか」
「はい。彼女は“存在するだけで結界を安定させる”ほどの特異な体質。
他の聖女候補とは、根本的に力の質が異なります」
沈黙が走った。
それはただの聖力ではなかった。
セイナ――彼女は、“国を保つ存在”そのものだったのだ。
「……それを、“庶民の娘”として蔑ろにし、
愛人にしようとした王子がいたと……聞いております」
重鎮の視線が、膝をつくラゼル王子に集まる。
「当人は、それを“自らの采配”と称して直接接触し、結果、失踪を招いた。
国を蝕む遠因を作ったのは、王子そのもの」
「結界の歪みは、王都にも及び始めている。
――民に不安が広がっている。事ここに至っては、誤魔化しは通らぬ」
王子は唇を噛んで、目を伏せた。
(あれほど、ただの庶民だと思っていたのに……)
「……ラゼル王子。
あなたには、“王家の名を返上し、平民として生きる”罰を科します」
「な……っ」
ついに、顔が歪んだ。
「この国を守るはずだった聖女を、手前の欲望で失わせた――その重さを、自らの身で受け止めなさい」
その瞬間、王子の肩から“王家の印章”が剥ぎ取られた。
誰も、彼をかばおうとはしなかった。
誰も、彼の名を呼ぼうとしなかった。
彼が見下した“ただの娘”は――この国そのものだった。
そして、自らの手でそれを手放したことが、
今、彼の運命を打ち砕いたのだった。
ーーーーーーーーーー
深い森を抜けた先にある、小さな村。
ここには王都の噂も、聖女の伝承も届かない。
ルカとセイナは、その片隅で静かに暮らしていた。
壊れかけた家を直し、野菜を植え、小さな畑を作った。
村人たちは穏やかで、誰もセイナの過去を詮索しなかった。
それが、ただ――嬉しかった。
「芽が出てきたよ、ルカ」
セイナが土の上で微笑む。
「ふん、やっぱりな。お前は、育てるのが上手いからな」
「……私、怖かったのかも」
「うん?」
「昔の私は、誰かに認めてもらうには、“特別”にならなきゃって思ってたの。
でも……それって、本当の私を見てもらうのが怖かっただけかもしれない」
「……」
「でも、今はちょっとだけ思えるの。
特別じゃなくても、本当の私のそばにいてくれる人がいるって。
ルカ、ありがとう。」
ルカはなにも言わず、肩を貸した。
セイナはその腕に、そっともたれた。
***
王都のことは、風の噂で少しだけ届いた。
“聖女の力が消えて、結界が揺らいだ”
“王子が王家から追われた”
“失われた結界の回復は見込めないらしい”
セイナは静かに目を伏せた。
(私のことなんて、ほっといてほしい)
(私が誰であったかより、
ここで、誰と、どう生きていくかのほうが――よっぽど大事)
***
ある春の日。
庭の木に、小さな白い花が咲いた。
「ねぇルカ、この花、名前あるの?」
「さあな。……今からつけるか?」
「ふふ、いいね。じゃあ、“風咲”ってどう?」
「お前っぽいな。風に揺れて、どこまでもしぶとく咲く」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
二人の笑い声が、庭に響く。
それは、国の中心には届かない。
でも、確かにこの小さな場所を、幸せで満たしていた。
もう、何者にもならなくていい。
ただ、ここにいて、笑っていられるだけで。
セイナはそう、心から思っていた。
完。
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