ドアを「バタン!」と閉める夫とは別れようと思います
ドアを閉める音が怖くなったのはいつからだろう。
夫は伯爵ドリス・エヴリール。
結婚してから、夫は変わってしまった。
いや、むしろ本性を現したというべきか。
夫ドリスはとにかくカリカリすることが多い。
機嫌が悪いのを全く隠さない。口調や態度が分かりやすく荒っぽくなる。
特に顕著なのがドアの閉め方。ドリスは仕事で何かトラブルを抱えている時は必ずドアを「バタン!」と強く閉める。ようするにドアに当たっているのだ。
貴族の職務は大変だし、仕方ない部分はある。
だけど、それが毎日のように続くと、さすがに参ってしまう。
夫は茶色い髪をオールバックにし、口髭を生やした男前であるが、いつしか私には彼の目がまるで蛇の眼のように見えていた。
彼の癖が、私に向かうまでにはそう時間はかからなかった。
こんなことがあった。
私が貴族婦人同士のサロンを終え、帰宅するとこんなことを言われた。
「レザミア、帰りが遅いんじゃないのか」
夫は私が出かける時、必ず日没までには帰るよう言い含めている。
だが、今日はまだ日は沈んでいない。
私も当然言い返す。
「ごめんなさい。でも、まだ日没にはなってないわよ」
夫の眼光が鋭くなる。
「なんだ、私に口答えするのか!」
「そんなことは……。でも、私はちゃんと約束を守ってるわ」
「私が遅いと言ったら遅いんだよ!」
「なによそれ……」
軽い口論になる。
この場合、私の方に理があるので、夫の形勢が悪くなるのだが――
「……もういい!」
椅子から立ち上がり、夫は部屋を出て行った。
バタンと大きな音を立てて。
まるで威嚇。私に恐怖感を与えるには十分すぎるほどの音だった。
私の心の奥底に、小さな傷がついた。
こんなこともあった。
ある夜、私たちは舞踏会に出席した。
音楽が奏でられる中、夫婦で踊る。
私はダンスには自信があるが、一方、夫ドリスは運動神経がよいとはいえず、ダンスは得意ではない。
私はそんな夫に合わせステップを踏み、息を合わせて楽しく踊った――つもりでいた。
舞踏会が終わり、帰宅すると、夫からこんなことを言われた。
「自分だけ楽しく踊って、さぞ気持ちよかったことだろうな」
最初、私は何を言われているのか分からなかった。
「普通、ああした場ではダンスが不得意な者に歩調を合わせるものだ。なのに、お前はそんなことはしようとせず、実に不愉快だったよ」
私もむろん言い返す。
「私はあなたと息を合わせたわ。現に、ダンスでは一度も失敗しなかったじゃない」
「あれでか。無神経にも程がある」
ネチネチと小言を言われる。
ただ私も、自分のダンスにも落ち度はあったかもしれないととりあえず反省はした。
そして、トドメとばかりに、
――バタン!
去り際にドアを強く閉められた。
自分の肩がビクッとするのが分かった。
結局私から折れ謝ると、夫は「仕方ない、許してやるか」という態度を取り、一応機嫌を直した。
邸宅の定期点検にやってきた大工の青年と話した後、いきなりこう言われたこともあった。
「レザミア、さっきはずいぶん楽しそうだったな」
「え、そう?」
「おおかた、あの大工を気に入ったんじゃないのか」
「何を言ってるの。私はただ、ご苦労様ですって言って世間話をしただけよ」
「どうだかな」
猜疑心も強い。
ちょっとしたことで、すぐこうやって疑ってくる。
最後にはドアをバタンと強く閉めて、出ていく。
そうすると、私が謝ってくることを知っているのかのように。
バタン!
バタン!
バタン!
ドアを閉める音はいつしか私にとって恐怖と服従の象徴になっていった。
離婚したい――こう思ったこともある。
だけど、夫はそんなことまず了承しないだろう。
実家にも相談してみたけど、私の実家はしがない子爵家。決して格は高くない。
父はこう言った。
「貴族同士の結婚なんてどこもそのようなものだ。暴力を振るわれたわけではないのだろう? なら我慢しなさい」
夫には逆らえず、頼れる人もなく、私は憂鬱な日々を過ごした。
ドアを閉める音に怯えながら……。
***
貴族婦人のサロンがあるので、髪をシニヨンにまとめ、アフタヌーン用のドレスを纏い、私はある街を訪れていた。
だけど、今日のサロンは集まる予定の邸宅でトラブルがあって、中止になってしまった。
時間を持て余した私は、一人あまり見知らぬ街を歩いていた。
夫のお膝元から離れて、ホッとしている自分がいる。
こんな心境になっている時点で、私たちはまともな夫婦ではないと言わざるを得ない。
いっそこのままどこかに逃げられたら……。
無理な願いだというのは分かっている。
今日も日没前には家に帰らないと、ネチネチとした小言を浴び、あの「バタン!」を聞かされるはめになる。想像するだけで胸を締めつけられる。
程々に散策を楽しんだら、早めに家に帰ろう。
すると突然、ドアを閉める音が。
私の肩が跳ね上がった。
今の音は全然大きな音じゃなかった。文字で書くと、パタン、程度のもの。
それなのに、この驚きよう。まったく自分が嫌になる。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。
私が振り向くと、そこには一人の青年がいた。
ふわりとした金髪、透き通るような翠眼、清潔感のある白を基調としたローブを纏い、肩には青いケープをつけている。
私より一つか二つ、年下だろうか。神秘的な印象を受ける。
我に返り、私は返事をする。
「ええ、大丈夫です……」
こう言いつつ胸を押さえる私はとても大丈夫には見えなかったはず。
「少し休んでいかれては?」
青年が私を家に招いてくれた。
だけど、なるべく早めに帰らなければならない。
「いえ、私は……」
「実は私、魔法使いなんです。もしかすると、お力になれるかもしれません」
驚いた。だけど、彼の醸し出す神秘的な雰囲気にあっさりと説明がついた。
それに青年の優しい眼差しは、私の足を引き留めるには十分すぎるものだった。
「じゃあ少しだけ……」
私は招かれることを選んだ。
青年の家のリビングは瀟洒でこざっぱりしている部屋だった。
招かれるままに椅子に座ると、青年はキッチンに向かう。
まもなく青年は温かいハーブティーを出してくれた。
一口飲む。上品で落ち着く味だ。
「……美味しい」
「趣味でハーブを育ててましてね」
部屋を見ると、植木鉢がいくつも並んでいるスペースがある。
青年が自己紹介をしてくれた。
名前はアーシス。魔法使い。
私も魔法使いの存在は知ってたけど、実物に会うのは初めてだった。
なにしろまず、数が希少なのだ。
魔法使いになるには、素質を認められた人間が何年もそれ専門の勉強をして、さらには山籠もりのような修業をして、やっとなれると言われている。
才能がなければなることさえ叶わない、本当に選ばれた者の世界。
彼の穏やかな佇まいの中には、尋常ではない努力が詰まっている。
まさか、こんな街中で出会えるなんて――
「ところで先ほど、あなたは“ドアの音”に反応したように見えました」
一発で当てられた。
さすがに洞察力も凄い。
「何かドアの音に怯えるような目にあっているのでは?」
大正解だ。
自分の心の中にずかずかと入り込まれているようで、憎らしささえ感じてしまう。
「理由を……教えて頂けませんか?」
言うわけにはいかない。
これを言えば夫への裏切りになる。
というより、夫が怖い。何をされるか分からないというのが大きい。
私が首を横に振ると――
「大丈夫。私が必ず何とかします」
あまりに力強い言葉だった。
いつしか傷だらけになった私の心。
そんな心に優しくハンカチをかぶせてくれるような、そんな一言だった。
今まで誰にも言ってもらえなかった言葉を言ってもらえた。
私は目に浮かび上がったものをぐっとこらえる。
「全てをお話しします……!」
私はありのままを打ち明けた。
アーシスは全てを聞いてくれた。
「よく分かりました。今までよく耐えてきましたね」
耐えろ、我慢しろ、そういうものだ、と言われ続けてきた私には、温かな励ましがストレートに心に染みる。
「今後、私はどうすればよいでしょう?」
「あなたに魔法道具を二つ差し上げます」
「魔法道具……」
あまり詳しくはないが、魔法の心得のない人間でも不思議な力を使えるようになる道具のことだ。
「一つはこのクリーム。これを家じゅうのドアノブ部分に塗って下さい」
小さな容器の中に、白いクリームが詰まっている。
ぱっと見、化粧用品にしか見えない。
「そして、もう一つは……」
アーシスが取り出したのは、まさに切り札というべき道具だった。
***
次の日の午前中、夫が出かけたので、私は家じゅうのドアノブにクリームを塗った。
ほんの少し塗るだけでよく、塗った後は匂いも痕跡も残らない。
つまり、夫には私がドアノブに何かしたということは分かりようがない。
夕方近くになり、夫が帰ってきた。
やはり今日も機嫌が悪い。
実は夫ドリスは、領民を省みず高級絵画を買い漁っていたことがバレ、弟さんなどから糾弾されている。
事あるごとに「貴族が贅沢して何が悪い」「必要経費だ」などとこぼしている。
「レザミア、今日は何をしていた?」
「家で読書をしていたわ」
「気楽でいいな、お前は」
ネチネチ小言が始まる。
アーシスとのことがあったからか、私の心にも余裕がある。いつもだったらムッとする場面だが、抑えることができた。
だけど、そんな私の態度が気に食わなかったのか、夫は強くドアを閉める。
その瞬間――
「うわっ!?」
夫がうめいた。
それもそのはず。今、夫には自分のドアを閉める音が何倍、いや何十倍にも増幅されて聞こえたはず。
私が塗ったのはそういうクリームなのだ。
ドアノブに塗っておけば、その開け閉めする音は、夫にだけ向かうことになる。それも極度に増幅されて。
ドアを始め、物を乱暴に扱い大きな音を立てる人に不満を持つ人は多いという。あのクリームはそういう人のためにアーシスが作った道具だった。
アーシスは、
「これを使えば、あなたの主人もドアを強く閉めることをやめるでしょう」
と言っていた。
せめて、ドアを強く閉める癖さえなくしてくれれば……。
まだ、やり直せるかもしれない。
だが――
「なんだ、この音!?」
「ふざけやがって!」
「くそっ、くそっ!」
夫ドリスは一向に態度を改めようとはしない。
もう異変には気づいているはずなのに。
自分の出した音に腹を立て、さらにドアを強く閉め、その音に腹を立て……という悪循環に陥っている。
獣だって痛みを味わったら「この行動をすると痛いんだ」と学習する。なのに夫は学習するどころか、その痛みに腹を立て、さらなる痛みを味わっている。
夫は獣にも劣るのかと見ていて呆れてしまう。
高まり続ける夫の怒りは、ついに矛先が変わる。
ものすごい眼で私を睨みつけてきた。
「レザミア……さてはお前の仕業だな?」
「なんのこと?」
私はとぼける。
「分かってるんだ! お前が何か仕込んだんだろ!?」
「知らないわよ……」
眉間にますますしわを寄せている。一度クシャクシャに丸めてから広げた紙のようになっている。
「しらばっくれやがって! いい加減にしろ!」
怒りに任せ、夫は私に掴みかかってきた。
「ぐあああっ!」
悲鳴が上がる。
声の主は――夫ドリスだった。
もう一つの道具、“護符”が発動したのだ。
使い方は、呪文が描かれた札を体のどこかに身につけているだけでいい。
自分に敵意や攻撃の意志をぶつけてきた相手に、それをそのまま返すことができる。
不慮の事故などには効果はないが、自分に怒りや憎しみを抱いている人間が分かっている場合、これほど頼りになる道具もない。
これがアーシスから託された私の“切り札”だ。
「ぐ、ぐぐ……!」
夫は頭を押さえつつ、私を睨みつけてきた。
「レザミアぁ……!」
私を憎めば憎むほど、怒れば怒るほど、それは痛みとなって返っていくはずなのに。
夫は私に敵意を向けることをやめようとはしない。
これ以上続くとどうなるか……。
私が怒り苦しむ夫を見つめていると、突如アーシスが部屋に入ってきた。
どうやって、と思ったけど魔法使いならいくらでも方法があるでしょうね。
例えば私の護符が発動したら、それをすぐ察知できるようにしていたのかもしれない。
そして、私の危機を察して魔法で現れたのだろう。
「なんだ、貴様……!」
「アーシス・ヘクセレイト。魔法使いです」
私はここで初めてアーシスのフルネームを知る。
ヘクセレイト家といえば公爵家。名門中の名門だ。
だけど今はそれどころじゃなく、アーシスは夫ドリスに向けて語りかける。
「私はあなたの奥方から相談を受けたのです。夫のドアを閉める音が怖いと。だから私はそれを直してもらうために、奥方に魔法道具を提供しました」
「ぐ、ぐぐ……ぐぅ……!」
夫ドリスの眼は血走っている。
「今のあなたは奥方に敵意を向けると自分がダメージを負うという状態だ。どうか怒りを鎮めて下さい。さもないととんでもないことになりますよ」
アーシスは夫を落ち着かせようとしている。
だけど、夫は落ち着くどころか――
「そ……そうか! お前ら、できてるんだな! だからこうして、共謀して私を……!」
「違うわ! 何を言ってるのよ!」
夫の顔がみるみる紅潮する。まるでおとぎ話に登場する鬼だ。
「許さん!!! お前ら二人とも、私の手で殺して……!」
直後、夫は絶叫した。
おぞましいほどの音量だった。
私たちに向けた強烈な殺意が、そのまま自分に跳ね返ってきてしまったのだろう。
「あ、が……」
糸が切れたように夫は倒れた。
私の目には、散々に暴れていた怪物が数多の攻撃を受け、ついに力尽きたような光景に見えた。
私はアーシスに抱きつき、彼もまたそれを受け入れてくれた。
***
夫は、ついに正気には戻れなかった。
自分で自分の敵意殺意を浴びすぎて、手の施しようがなくなり、病院送りに。
もはや退院することはできないだろう。
私はアーシスとともに今回起こったことを包み隠さず報告したが、エヴリール家は一切私を責めなかった。
夫ドリスの弟さんは「兄を退治してくれて、むしろ感謝している」とまでおっしゃった。彼も兄の怒りっぽい性質にはずっと手を焼いていたみたい。
私が彼と別れたい旨を告げると、離婚はあっさり成立した。
そして、私は一連のショックを癒すため、アーシスの元で心のリハビリに励んだ。
心が落ち着くまでにはかなりの時間を要したけど、アーシスは嫌な顔一つせず私に付き合ってくれた。
やがて――
「レザミア……どうか私と結婚してもらえないだろうか?」
私にとって、アーシスはヒーローであり、オアシスだ。
拒否する理由などなかった。
「私でよろしければ……」
こうして私はアーシスと再婚した。
ヘクセレイト家の方々も皆優しく、子爵家出身の私を温かく迎えてくれた。
これまではどちらかといえば貴族というより魔法使いとしての人生を送っていたアーシスだが、私との結婚を機に、貴族としての自覚も強くなったと言っていた。
なので今は領内に小さな邸宅を構え、そこで魔法使いとして活動しつつ、時には社交界にも顔を出すという生活をするようになった。
私としては騒がしすぎず、かといって貴族としての華やかさも味わえるという、いいとこ取りのような生活を送れるようになった。
ある晩、二人で食事をした後、アーシスが伸びをする。
「さて、そろそろ寝ようかな」
「私はもう少し読書してから寝るわ」
「分かった。じゃあ、先に部屋に行ってるよ。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
アーシスがドアを閉めて、寝室に向かう。
本に集中している私の心が乱されることはなかった。
あれほど怖かったドアを閉める音が、今はもう怖くない。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。