雨男の傘は意味を成さない
大切な日はいつも雨だ。
告白した日も、初めてのデートも、互いの誕生日も、クリスマスも。いつも私たちは雨に濡れていた。
最初こそがっかりしたけれど、あまりにも降られるものだから次第に可笑しくなって。
君が雨女だからかもね、とからかいながら誕生日プレゼントに傘を渡すと、ふくれた顔をしながらも、それからはずっとその傘を使ってくれていた。
二人とも大学に進学し、彼女が異国の地へと発つその日も、やはり雨は降っていた。
見慣れた傘をさす彼女の後ろを、できるだけゆっくり、私は歩いた。
空港に近づくにつれ強くなる雨脚は、彼女の行く足をとめてはくれなかった。
また雨だね、と言うと、また雨だね、と答える。
元気でね、と言うと、元気でね、と返す。
いつ会えるかな、と言うと、いつ会えるかな、と声を小さくする。
私は怖かった。明確な言葉を投げかけると、途端に終わってしまいそうな気がして。
「君が帰ってきたら」
だから曖昧な約束で繋ぎとめようとした。
「月が一番きれいな夜、また会おう」
一年に一度、もっとも美しく月が見える夜に。
場所は決めても具体的な日時を指定しなかったのは、私が臆病だったからだろう。そこまで取り決めて、けれど叶わなかったときを想像したくなくて。
二人のこれまでを考えたら、難しいことのような気がした。曇りのときでさえ、私たちにしてみたら上出来なのだ。けれど、クリスマスでも、正月でもなく、そんなあやふやな日にしたのは、彼女が来なかったときに自分が傷つかないための悪あがきだったのかもしれない。
今年もまた、雨が降った。
使い慣れた傘は端が少し破れ、隙間から水滴が侵入してくるが、なんてことはない。去年の台風や一昨年の雷の日にくらべれば優しいものだ。
今年の十五夜は土曜日にかさなった。おかげでこんな時間でも人通りは多い。駅の周辺はどの店も賑わっており、雨宿りついでに飲んで時間を潰そうとするカップルがまた一組、後方にある飲み屋へと消えて行った。錆びついたモニュメントが水にうたれながら鎮座する駅前の広場で、私は時計を確認した。短針は十をさし、まもなく長針が十二に届くかというところだった。
同じ時刻、同じ場所、何度も同じ景色を見てきた。
カラオケ店のネオンライトが濡れた石畳に反射し、鮮やかに色をかえている。街灯のそばにある窪んだ地面には水溜まりができ、落ちる雨がいくつもの波紋をつくっている。不思議とイヤホンから流れる音楽と共鳴しているかのように同じリズムを刻むので、昔のことを思い出してしまった。
好きな曲を口ずさみながら、靴が濡れるのは嫌だから、と水溜まりを飛ぶように避ける仕草。
それがまるでステップを踏むみたいに楽しそうで。そんなときは、雨も悪くないな、と歩く隣で目を細め、踊る君を焼き付ける。そういうなんでもない時間が心地良かった。
あの水溜まりは避けられそうにないか、と苦笑いしつつ、私はしばらくぼんやりとそれを眺めていた。
誰かが私を呼んでいることに気づいたのは、アルバムが二周目にはいったころだった。
こちらに向かって軽く手をふりながら近づいてくる人影に目を凝らすと、見知った顔がそこにあり、私は耳からイヤホンを外すと同じように手をふった。
「どうしたの、こんな雨の中」
学生時代より少し大人っぽくなった同級生はすでにひっかけてきた後らしく、興奮した様子で赤らめた頬を緩ませた。
「久しぶり。うん、ちょっとね」
よく見ると、彼女の背後にも懐かしい姿がちらほらあり、状況を察する。
「休みが合ったから、集まろうってなって。サークルのみんなもいるし、せっかくだからよかったら一緒にどう?」
私の視線に気づいた彼女は好意でそう言ってくれたが、申し訳ないけれどまたの機会にしよう。
「人と待ち合わせしているから。ありがとう、また今度誘って」
それなら仕方ないね、と言う彼女と二言三言言葉をかわし、そして少し離れたところにいた他の連れたちと合流した彼女は正面にあるカラオケ店へと連れ立って行った。
ふと目にした時計の針は、いつの間にか両針が十二をさしていた。
そろそろ帰ろう。
また来年に持ち越しか。
背にしたモニュメント沿いに時計回りに歩きだす。
今年も会えないみたいだ。それもそうか。月だって一向に見えないし。
ため息をつくと、一層肩が重くなったような気がした。人通りが減った駅前は、灯りが消え始め、眠りにつこうとしている。
数店舗ある二十四時間営業の店の看板だけが、先ほどまでの賑やかさの余韻を残してはいるが、夜の闇の深さには逆らえない。鼓膜をうつのは雨粒の音だけだ。
あのカラオケ店は何時までなのだろうか、と何気なく振り返る。モニュメントが邪魔をして見えないので、諦めて踵を返そうとしたとき、視界のすみに見覚えのある傘をとらえた。
暗がりではっきりとは確認できない。けれど、その傘の人物がまるでステップを踏むかのように、足元の水溜まりを何度も飛び跳ねながら避けるのを見た瞬間、私はまさかと思い走り出していた。
やっと、会える。ようやく君に、会えるのだ。
傘が意味をなさないくらいにずぶ濡れになっても、かまわなかった。
息を切らし、地面を蹴り、その姿を追う。大声で呼べば聞こえる距離まで駆けて、駆けて、そして君の名前を叫んだ。
「 」
十数年ぶりに発したその言葉は、目の前を横切ったトラックに遮られ、姿もろとも消し去って行った。
幻だったのだろうか。今追いかけていたあの姿も、傘も、何もかも、私の願望がつくりだした偶像であったのだろうか。
もと来た道を引き返す足取りは重い。服は水分をともなってずっしりと体に纏わりつくが、そんなことはもうどうでもよかった。
あらわれない月と、あらわれない一人を思い、憂う。とめどなく流れる滴は雨か、何かか。
この心を覆う傘なら、ない。