うわさ探偵3 〜溝の怪〜
またも調子に乗って続編です
「うわさ探偵 〜扉の怪〜」 https://ncode.syosetu.com/n3239jg/
「うわさ探偵2 〜蟲の怪〜 https://ncode.syosetu.com/n8234jg/
じりじりじりじり、数多の蝉の鳴き声は、ただ煩いだけでなく、心を蝕む厭な響きがある。
少しずつ掠め取るように蝕まれ、苛立ちで余裕のなくなった頃には、普段ならしないようなつまらないミスを簡単に許してしまうのだから堪らない。
まさに今、そのせいで僕は動けなくなっていた。
コの字になった校舎の向かい側、今は使われていない教室がある場所の窓から。
何かがこちらを見ていた。
この場所を通るとき、いつも見られている感じはしていたから、絶対にコの字の向こう側は見ないようにしていたのに。
ふと、本当にふと、誘導されるように視線の元を辿ってしまったのが良くなかった。
誰もいないはずの暗い教室から、じっとりこちらを見ている何かと目が合った。
僕の経験上、こうなってしまったら、できるだけ目を逸らさない方がいい。
尤も、怪しい気配を感じたら、最初から目を合わせないことが最善なのだけど、それはもう後の祭りだ。
お互いに窺うよう、視線を向け合い続ける。
向こうが飽きて視線を切るまで続く静かな攻防は、割とすぐに僕の勝利で締めくくられた。
粘つくような厭な視線がふつりと消えて、僕はほっと息を吐く。その瞬間。
ばんっ!!
僕のすぐ前にある窓が、激しく叩かれた。
ガラスが割れなかったのが不思議なくらい強い音の痕跡は、工業用油のようにべとりとした手形になって、くっきりと窓に残されている。
考える間も置かず、僕は一目散に走り出した。
決して振り返ってはいけない。
速度を緩めてもいけない。
僕は恐ろしいものから逃れるために必死に走って、そこにあるはずのない階段から足を踏み外し、落っこちた。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
あっと思ったときには遅かった。
強いビル風に吹かれて飛んで行った帽子は、月見里が空中でキャッチして回収してくれたけど、既に僕は近くにいた人たちの注目を浴びてしまっていた。
今が夜ならまだマシだったかもしれないが、明るい陽光の下だったことも災いしたのだろう。
月見里から受け取った帽子を被り、俯き加減に急いでその場を離れようとしたけれど、それよりも彼らが声を上げるほうが早かったのだ。
彼らの興奮した大きめの囁き声は、ものの数十秒で僕の正体を周囲に知らしめてしまい、あっという間にちょっとした人垣ができていた。
10代20代を中心とした人たちの間では、それなりに僕の顔は売れているのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが。
そのうち、勇気ある1人が僕に声をかけてくる。
「あのっ! 『うわさ探偵』の人ですよね!?」
「ええ、まあ……はい……」
ちらりと月見里を見ると、諦めろとでも言いたげな視線が帰ってきた。
どちらにしろ、僕らの目的は彼らのような若い人たちから話を聞くことだったけれど、ここまで大々的にするつもりはなかったのに。
あちこちから小さく上がる歓声を聞きながら、僕は内心溜め息を吐きつつ、それを隠すように和やかな笑顔を浮かべた。
「撮影じゃないですよね。もしかして、取材ですか?」
「ははっ、そう。今日は取材。そうだ、もしよかったら、少し話を聞いてもいいかな?」
またしても、どよどよと小さな歓声が上がった。
僕と月見里は、囁くように世間に広がる奇妙な噂話を集めて、それを元に作ったドラマを動画サイトに投稿している。
月見里が脚本を書いて僕が主演を務めるドラマ『うわさ探偵』は、奇怪な噂の陰で起こる犯罪を暴く推理ものだ。
妖怪や悪霊、呪いや超常現象などのせいにされて見過ごされている犯罪を、白日のもとに晒していくスタイルが、若者を中心にウケている。
その一部には、もしかしたら自分の知っている噂かもしれないという、距離の近さもあるのだろう。
今回のように、運が良ければ僕らの取材に当たることもあるのだから、そりゃあ期待するのも頷けるというものだ。
熱心なファンの中には、精力的に噂の収集をしている人や、あろうことか自分で噂を作り出そうとしている人までいると聞く。
それが良いことなのか悪いことなのか知らないけれど、真偽の定かでない怪しい噂になんか、誰も関わらない方がいいとは思う。
尤も、その原因を作っている僕に、そんなことを言う資格はないのだけれど。
「最近、周りで変な噂が流行ってたり、聞いたことがあるという人はいますか?」
月見里が問いかけると、僕らを取り囲んでいる人垣がざわざわと騒がしくなった。
この場にいる大半の人たちは噂について話しているようなのだが、ちらほらと何人か、話に混ざらずじっと僕を見ている人がいる。
その人たちは、何処かに表情を落としてきてしまったかのように、無機質な視線を僕に向けている。
じっと見つめるその顔から突然、溶けたラクレットのように、どろりと目玉が落ちてきた。
思わず「ひっ」と息を呑みそうになるのをすんでのところで堪えて、代わりに、彼らに見せる和やかな笑顔をより深くした。
抉れた眼窩からは、どろりどろりと絶え間なく白い塊が溢れていて、僕はやっと、それが目玉ではなかったことに気が付いた。
あれが何なのかはわからない。
わからないけれど、多分良くないものだと思う。
僕たちの作るドラマ『うわさ探偵』の元になった《噂》に関わっていた人たちは、どういうわけかあの不気味な白い塊に、記憶を《喰われ》て忘れてしまうのだ。
そして知らぬ間に身の内を蝕まれ、ときに本人の意思とは関係ない言動を齎すことがある。
何のために、どうやってかなんて、知る由もない。
僕らはただ《上》に言われた通りドラマを配信しているだけで、それ以外のことなんて何ひとつ知らなくてもいいのだから。
笑みを深めた僕の前では、白い塊がうねうねと蠢いて宿主たちに絡みついていた。
あれを無視し、無いものとして振る舞う僕に、存在感を見せつけるように。
パン生地のように伸びたり膨らんだりしながら、あちこちで僕を嘲り嗤う姿に、内心では怖気が止まらず、噛み締めているはずの歯が小さくカタカタと鳴り響く。
「もう十分だ、傘屋」
耳元で、低くどっしりと安定感のある月見里の声が聞こえて、僕は瞬いた。
僕を呼ぶ声が引き金になって、急速に現実感が目の前に広がっていく。
背中を生温い汗がどっと伝っていく代わりに、全身の震えは止まっていた。
白い塊は、もうどこにもいない。
「ご協力ありがとうございました。是非、次回の配信もご期待ください」
それだけ言うと、月見里は僕を強引に引っ張って人垣から抜け出した。
少しだけ振り返り、まだ話しかけたそうにしていた彼らには小さく手を振って、足早にその場を後にする。
僕だけならばすぐに人混みに紛れてしまったのだろうけど、人より少し頭が飛び出るくらい長身の月見里は目立つだろう。
彼らと十分に距離が取れたと確信できるまで、僕らは無言で歩き続けた。
「あの中に《喰われ》てる奴でもいたか?」
漸く月見里が口を開いたのは、駅から続くメインストリートを抜けて、幹線道路沿いのオフィス街に入ってからだった。
妙にがらんとした人通りのない道を歩きながら、今日が祝日なのだと思い出す。
人のいない歩道と正反対に、車道は殺気立った車がエンジン音を撒き散らしながら走り抜けていて、あまり人に聞かれたくない話をするにはうってつけの場所だった。
「何人か。でも、噂が本物なら、あそこにいた人たち全員……」
「…………まあな」
薄気味の悪いあの白い塊は、僕にしか見えていない。
だけどあのとき、恐怖を塗り潰した笑顔を下手くそな演技で浮かべる僕の様子から、月見里は気付いていたのだろう。
月見里は、怯える僕の代わりに彼らから話を聞き、次のドラマにするための新しい噂を入手していた。
これから僕らは、その噂が使えるものかどうか確認しなければならない。
もしも噂がドラマのネタとして使えるものであれば、あの場にいた人たちは全員、配信の後で得体の知れない何かに記憶を《喰われ》ることになるだろう。
僕たちのやっていることが、正しいかどうかなんて知らない。
ただ僕らは《上》に言われたことをやる。それだけだ。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
日没の瞬間、この街にある濡れた溝を踏むと、忘れていた記憶を取り戻す。
それが、僕らを取り囲んだ人たちから月見里が聞き出した噂話だった。
「で、もうすぐ日没だけど、濡れた溝って何処にあるのさ」
「知らん」
「この街って言ったって、捜索範囲広すぎだよ」
「怯えてぷるぷる震えてた誰かさんのせいで、場所まで聞きそびれたからなあ」
それは確かに僕のせいでもあるので、月見里のボヤキも甘んじて受け止める。
だけど、そう思っても僕の苛々は収まらなかった。
月見里に対してというよりは、暑い中汗だくで歩き回っていることに加え、時折不意打ちで鼓膜を攻撃する蝉の鳴き声が、やり場のない苛々を募らせているのだ。
都会の真ん中と雖も、拙い街路樹にすら取り付いて細い生を謳歌する蝉たちは逞しい。
唐突に始まったかと思えば、呼応するようにあちこちからじりじりじりじりと響く逞しすぎる騒音のせいで、僕は少しずつ心を蝕まれていたのだろう。
道と道に挟まれた、歩行者用の安全島に差し掛かったところで、普段なら絶対にしないようなとんでもないミスをした。
視界の端で何かがちらついたり、妙に気を惹かれる何かがあったとしても、直ぐにそちらを見ないのは鉄則だというのに。
ふと視線を向けた足元には、どんよりと澱んだ黒い水たまりが広がっていて、僕に踏まれるのを待っていた。
まずいと思ったときには既に、とぷん、と重みのある液体に足を突っ込んだような音がしていた。
ビルの隙間、申し訳程度に残っていた茜色が、闇に溶ける瞬間が見える。
「くそっ! 暗渠のことだったのか!」
焦った声が聞こえて、僕は振り向いた。
じりじりじりじり。
じりじりじりじり。
蝉の声が煩くて、何も聞こえない。
数多の蝉の鳴き声は、ただ煩いだけでなく、心を蝕む厭な響きがある。
少しずつ掠め取るように蝕まれ、苛立ちで余裕のなくなった頃には、普段ならしないようなつまらないミスを簡単に許してしまうのだから堪らない。
まさに今、そのせいで僕は動けなくなっていた。
コの字になった校舎の向かい側、今は使われていない教室がある場所の窓から。
何かがこちらを見ていた。
この場所を通るとき、いつも見られている感じはしていたから、絶対にコの字の向こう側は見ないようにしていたのに。
ふと、本当にふと、誘導されるように視線の元を辿ってしまったのが良くなかった。
誰もいないはずの暗い教室から、じっとこちらを見ている何かと目が合った。
僕の経験上、こうなってしまったら、できるだけ目を逸らさない方がいい。
尤も、怪しい気配を感じたら、最初から目を合わせないことが最善なのだけど、それはもう後の祭りだ。
お互いに窺うよう、視線を向け合い続ける。
向こうが飽きて視線を切るまで続く静かな攻防は、割とすぐに僕の勝利で締めくくられた。
粘つくような厭な視線がふつりと消えて、僕はほっと息を吐く。その瞬間。
ばんっ!!
僕のすぐ前にある窓が、激しく叩かれた。
ガラスが割れなかったのが不思議なくらい強い音の痕跡は、工業用油のようにべとりとした手形になって、くっきりと窓に残されている。
考える間も置かず、僕は一目散に走り出した。
決して振り返ってはいけない。
速度を緩めてもいけない。
僕は恐ろしいものから逃れるために必死に走った。
向かいの校舎から僕を見ていた何かは、いつでも僕を捕まえられるところまで迫っていた。
まるで誂って愉しんでいるように、窓と言わず壁と言わず、すぐ横をばんばんと叩く大きな音が僕を追いかけてくる。
必死に走りながら、どうして廊下がどこまでも真っ直ぐ続いているのだろうと思ったら、泣きそうになった。
放課後とはいえ、さっきまでちらほら残っていた生徒たちの姿も、今は全く見えなくなっている。
僕は一体、何処に迷い込んでしまったのだろうか。
「……えっ?」
終わりの見えない追いかけっこに心が折れそうになったとき、足元から突然、床が消えた。
いや。消えたのは、どこまでも続いていた廊下の方で、元々そこにあった階段に、僕が全速力で突っ込んだだけだったのだ。
耳元で、けらけらと嘲り嗤う声が聞こえる。
やられたと思いながら、かくんと落ちる身体の重さを自覚して、心臓が大きく跳ねた。
家族や周囲の人が、心配を通り越して呆れるくらいに怪我や事故に遭いやすい僕だけど、これはちょっと洒落にならないかもしれない。
僕は、ぱっきりと心の折れる音を、間近で聞いた。
今までなんとか耐えてきたけれど、これから先もずっとこんなに怖い思いをするくらいなら、もういっそのこと、全部終わりにしてしまいたい。
そんなふうに諦めて手放そうとした運命は、けれども僕を嘲笑うように、容赦なく襟首を引っ張り上げた。
「危ねえ!!」
ぐいっとシャツを強く引っ張られる感覚があって、僕の体は下ではなく後ろに落ちた。
どすんと衝撃が駆け抜けて、階段に引っかかるような形で僕は尻もちをついている。
打ち付けた身体がじんじんと痛むけれども、それよりも尚、異常なほどに暴れまくる心臓の鼓動が痛かった。
「何やってんだよ、お前」
振り向くと、顰め面をした男が背後にいた。
どうやら彼が、階段へダイブしようとしていた僕を間一髪止めてくれたらしい。
一歩間違えば自分も巻き込まれていたのに、よくもまあそんな危険なことができたものだと、妙に冷静な頭が考える。
荒い息を少しだけ落ち着かせて、ごくりと唾を飲み込んだ僕は、小首を傾げた。
「えっと……蝉が煩かった、から……?」
「はぁ?」
心底、意味がわからないといった顔をした男は、じろりと僕を見て、立ち上がった。
随分と背が高い。
差し出された手を借りて立つと、やっぱり僕よりもずっと視線が高かった。
「ありがとう。怪我はない?」
「そっちこそ」
「僕は、多分大丈夫。慣れてるしね」
「……お前、いっつもあんな危ない遊びしてんのか? 余計なお世話かもしれないが、止めといた方がいいぞ」
「そういうわけじゃないんだけど……」
僕だって好きで慣れてるわけじゃないけれど、気になる所へわざと視線を向けないように行動していると、躓いたりぶつかったり落ちたりすることもあるのだ。
小さな怪我や軽い捻挫くらい、いつものこと過ぎて大したことじゃない。
だけどそれを上手く説明できなくて、僕はへらりと笑うしかなかった。
「あのさ。本当に余計なお世話かもしれないんだけどよ…………」
長身の彼は、暫く言葉を探して迷うように視線を彷徨わせていたが、やがて真正面から僕を見た。
「お前、何かから逃げてたのか?」
どきん、と鎮まりかけていた心臓が、また大きく跳ねる。
曖昧な笑みのまま、僕は彼に伝えるべき言葉を持てなかった。
嘘をついて誤魔化すことは簡単だけど、何故か彼には僕の嘘なんて全て見抜かれてしまうような気がした。
「ああ、ほら。向こう側の校舎、暗くて気味悪いから。なんか、怖くなっちゃって」
結局僕は、嘘とも真実とも言えない、微妙な返事で誤魔化した。
高校生にもなって、暗くて怖いから走っていたら怪我しそうになったなんて、笑い話にでもしてくれればいい。
でも、もしかしたらそんな僕の考えも、彼には見抜かれていたのかもしれない。
じっと僕を見ていた彼は、無愛想な顔に更なる無愛想を貼り付けて、咎めるような視線を寄越した。
「暗いところが怖いのは、当たり前だ。人は見えないことに恐怖を感じるようにできてる。だけど、見えるからこそ怖いってこともあるだろ」
僕を暴くように、じっと見つめてくる彼の真っ暗な瞳が、妙に怖かった。
そんなわけはないのに、僕が笑顔の底に押し込めて隠している恐怖を、もっとずっと前から彼に覗き込まれていたような気がしたから。
僕だけが知る恐ろしい世界を、初めて会った人と共有できるはずがないのに、もしかしたら理解してもらえるんじゃないかと一瞬でも期待してしまったからこそ、彼のことを怖いと感じたのだ。
既に一度諦めた筈の自分を、もう一度諦めることになるのが、何よりも怖かった。
だったらもう、折れたままにして、何にも期待なんてしたくない。
へらへら笑ったまま何も言わない僕をじっと見ていた彼は、ふぅと軽く息をつくと、僕の両肩にぽんと大きな手を置いてきた。
「わかった。お前が逃げなくても済むように、俺が手伝ってやる」
「…………は?」
「だからお前は諦めるな。俺に黙って逃げるなんて、絶対に許さない」
このときは、彼が何を言ってるのかさっぱりわからなかった。
わかったのはこの翌日、小説家志望だという彼が書いた、僕を主人公にした短編小説を読まされた後だった。
小説の中の僕は、恐怖に駆られて廊下を全速力で走っていた。
不気味な声に追いかけられ、滑る廊下で転びながら、壁に浮き出る手形から逃げるように走った先、僕は階段から落ちて、怪我をした。
けれど実は、これらの怪現象は僕を怖がらせるために友人たちが画策した手の込んだ悪戯で、彼らは怪我をした僕に、やり過ぎたと反省して謝ってくる、という物語だ。
「暗いところも説明できない現象も、わからないから怖いんだ。俺はお前の恐怖をフィクションの世界に閉じ込めてやる。そこでは、恐怖に必ず説明のつくオチをつけてやるからな。だからお前は安心して、いくらでも怖がってろ」
なんと単純な奴だろうと呆れたものだが、意外なことに、この単純なやり方は思いのほか僕に大きな安心を与えたようだった。
僕も十分、単純な奴だったということだろう。
物語になったことで、昨日感じた恐怖がどこか他人事のようになってしまったし、絶対に違うとわかっているのに、もしかしたらあれも誰かの悪戯だったのではないかという気さえしてくる。
そうして僕は、僕だけが見る恐ろしい世界の話を物語のように彼に話すようになり、彼は僕の恐怖を現実なのか非現実なのか曖昧なものにしてくれた。
彼との交流は、僕が転校するまでの短い間のものだったけれど、確実に僕の人生に影響を与えることになった。
彼がいなくなっても、相変わらず僕の周りには恐ろしくて悍しいものたちが蔓延っていたが、僕は彼の作ってくれた『傘屋』という架空のキャラクターを演じることで、恐ろしい世界に立ち向かう勇気を、ほんの少しだけれど持てるようになったのだ。
どうやら彼は、一度折れたはずの僕の心を、前よりも頑丈に立ち直らせることに成功したらしい。
これが、僕と月見里の始まりの物語だ。
◆ ◆ ◇ ◆ ◆
「くそっ! 暗渠のことだったのか!」
焦った声が聞こえて、僕は振り向いた。
ぐいっと引っ張られる感じがして、僕の身体は後ろへと数歩よろめく。
まるであのときと同じだな、と思ったところで首を捻る。
あのとき、っていつのことだ?
「おい、大丈夫か傘屋!」
月見里にがくがくと揺すられて、ぼうっとしていた僕はハッとした。
「だい、大丈夫だから、ちょっと、止めて」
街に広がる空は完全に闇の領域に呑み込まれているにも関わらず、氾濫する光の抵抗にあって、薄く高い場所まで追いやられている。
横断歩道を渡る人たちは、何事かと僕らへ視線を寄越すものの、すぐに興味をなくし、街の光へと吸い込まれるために横を通り過ぎていった。
僕を離した月見里は、いつもの無愛想な顔に、こちらが申し訳なくなるほど心配の表情を乗せていた。
「本当に大丈夫か?」
「うん。それより……」
もたもたしている間に、信号が赤になっていた。
余程急いでいるのか、それとも何かから逃げているのか、数人が走って無茶な横断をして、僕と月見里の2人だけが安全島に取り残される。
「僕たちが最初に会ったのって、《上》からドラマの話が来たときだったよね」
「そうだけど。なんだよ、いきなり」
怪訝な顔をした月見里に、僕も首を傾げる。
何故だがわからないけれど、なんとなく確認しておきたくなった気分を、上手く説明できない。
「まさか……何か思い出したのか?」
「えっ? 思い出すって、何を?」
「いや。そういう噂だっただろ。忘れていた記憶を取り戻す、って」
「ああ、そういえばそうだっけ。あれ、ってことは、ここが濡れた溝? ……溝?」
足元を見ても、アスファルトの地面が見えるだけで、溝もなければ濡れてもいない。
月見里に引かれる直前、黒い水たまりに足を突っ込んだような感覚はあったけれど、あのことだったのだろうか。
「濡れた溝ってのは、恐らく暗渠のことだろう。昔、ちょうどこの下が川だったんだ。幹線道路を通すんで、蓋されたんだ」
「へえ、よく知ってるね」
「ここの川には、昔よく釣りに来たからな。黒くてデカい魚が沢山釣れたんだ」
「そうなんだ。じゃあこの道って、まだ割と新しいんだね」
言ってから、じわりと妙な不安が胸を過る。
何がこんなにも不安なのかわからないけれど、自分の言ったことが酷く気味悪く感じられた。
月見里は、いつもと変わらない無愛想な顔のまま。
「ああ、ちくしょう。違和感に気付く程度には《持ってかれた》か。お前は俺のものなのに、易々と他の奴にかっ攫われやがって」
無愛想なまま呟いた声は、車の音に掻き消されてしまって聞こえない。
なのに、とてつもなく厭な感じがする。
身体の中を、ざわつく何かが走り抜けたような気持ちの悪さだ。
「なに? なんて言ったの?」
この厭な感じを払拭したくて、僕は殊更明るく言った。
僕ではなく、『傘屋』の仮面を被った『僕』の顔で。
「ははっ。本当に最高だよ、お前。恐怖から逃げたいのに、留まって立ち向かおうとする記憶が最高にイイ。だから俺は、お前が逃げ出さないように手伝ってやるから、お前は安心してずっと怖がってろよ」
月見里が、真っ白な舌をぬめりと光らせて、舌なめずりした。
いつもと変わらない、無愛想な顔を恍惚とさせて。
何がなんだかわからないけれど、信じていたものが足元から崩れ去ってしまったみたいで、上手く立っていられない。
混乱してよろめいた僕は、月見里に支えられながら記憶を《喰われ》ていた。
胸の奥に穴が空いたような虚しさを抱えながら、僕は月見里に言う。
「僕たちが最初に会ったのって、《上》からドラマの話が来たときだったよね」
「そうだけど。なんだよ、いきなり」
「別に。ただ、懐かしいなって思っただけ」
月見里と話していると、こんなふうに急に懐かしい気持ちになることがある。
何故だがわからないけれど、昔のことを思い出そうとしても思い出せなくて、でも懐かしさだけは感じる気分を、上手く説明できない。
「そういえば、何の話をしてたんだっけ?」
「おいおい、もうボケたのかよ。暗渠の話だろ。昔、ちょうどこの下が川だったんだ。幹線道路を通すんで、蓋されたんだ」
「へえ、よく知ってるね」
「ここの川には、昔よく狩りに来たからな。黒くてデカい奴らが沢山《喰えた》んだ」
「そうなんだ。じゃあこの道って、まだ割と新しいんだね」
「蓋がされたのは90年くらい前だけど、道ができたのは40年前だから、まあ新しい方かもな」
「そういえば、僕も高校生の頃までこの辺に住んでたことがあるんだよ」
「知ってるよ。お前が生まれたときからずっと目を付けてたし、たまにつまみ喰いもしてたからな」
「そうなの? ああなんか、ご飯の話してたらお腹空いてきちゃった。この前行った中華のお店、お値段すごかったけど美味しかったよね。連れてってくれたあの人、なんて言ったっけ……前によく共演してた女優さん。元気かな?」
「彼方のことか。あいつは勝手をし過ぎたし、なにより傘屋が前ほどあいつに恐怖を感じなくなったから、《上》の奴らにお払い箱にさせた。ああいうふてぶてしい奴は《喰って》も美味くないし、どうなったかまでは知らねえよ」
「そうなんだ。なんか悪いことしちゃったかな」
「気に入ったんなら、《上》の奴らにまた似たようなの用意させる。傘屋がとびきり怖がるような奴がいいか」
「えええ、勘弁してよ」
月見里は、色々なことを知っている。
何でもすぐに忘れてしまう僕と違って、些細なことでもちゃんと覚えているし、聞けばなんでも教えてくれる。
教えてくれないのは、必要ないことか、大したことがないからだろう。
或いは、単に面倒くさがってるだけかもしれないが。
だから大丈夫。
どんなに厭な感じがしても、月見里がいれば怖いものに追いつかれたりしないし、ちゃんと僕が納得できる物語にしてくれる。
僕の歩く世界は、油断すると喰い破られて掠め取られる細い綱のようなものだけど、僕自身が幾重にも張られた綱の1本として、ただそこに在ればいい。
「ねえ月見里、今回の《噂》はドラマにするの?」
「いや、ダメだな。黒いのにお前を《持ってかれ》て焦ったから、思わず全部《喰っち》まったんだ。もうここから《噂》は消えたし、意味ないだろ」
「そっか。あんまり怖い感じがしなかったし、たまにはこういうのも面白いかなって思ったんだけどね」
「俺としては、お前といれば程々に飯が《喰える》から満足してるんだ。これ以上、余計な事も面倒事も抱えたくないから、今くらいが丁度いいな」
「ははっ、月見里って意外と欲がないんだね」
「なんだよ。傘屋にはそう見えるのか?」
僕を見て嗤った月見里の口元から、真っ白な……いや、真っ赤な? 白? いや、赤……い舌がこちらを窺っている。
こんなふうに月見里が笑うなんて、珍しいこともあるもんだ。
明日は、真夏だけど雪が降るかもしれない。
僕の中に降り積もる、得体の知れない懐疑と苦悩と諦念によく似た、真っ白な雪が。