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王子を籠絡する方法

作者: ひめりんご

 「エレオノーラ、お前みたいな血も涙もないような冷酷な女を王妃には出来ぬ。王妃とは慈愛を持つ国母なのだ。私はお前との婚約を破棄し、新たに心優しく我が伴侶に相応しいヘンリエッテと婚約を結ぶことにする」


 第二王子ジークフリートの成人を祝う宴の場。国中の貴族が招待され、華やかに盛大に催された宴がそろそろ終いになるはずの時だった。最後に皆に重大な発表があるとジークフリートが発言したことにより、会場の空気はがらりと変わった。


 本当ならこの場で成人したことによる立太子とエレオノーラとついに結婚することが発表されると、皆が思っていた。


 国王の崩御が数年前。王妃が摂政として息子のジークフリートが成人するまで待っていた。第一王子は病弱であり、王位は継げないと判断されたからだ。一番の理由は第一王子の生母が元王妃付きの侍女であり、その侍女が死んでからも王妃は嫉妬から第一王子を王位には就かせまいとしているからだろう。


 国王が不在の不安定な時期は終わり、皆が日が昇ると信じていた。何より、ジークフリートの婚約者であるエレオノーラは優秀だったので。二人は手を取り合い、国を輝かしい未来へと導いてくれる。そう誰もが思っていた。


 しかし、現実はどうだろうか。ジークフリートの隣に侍るのはエレオノーラとは違う娘。茶髪に茶色の目といった素朴だが可憐な顔立ちの、新興貴族キーゼル伯爵家に養女として迎えられたというヘンリエッテという娘だった。


 花のような微笑みを浮かべ、ヘンリエッテは晒し者になったエレオノーラを見つめている。


 エレオノーラは冷や水を浴びせられたかのように固まる。今まで懸命に王妃教育を受け、冷酷と罵られようとも静かに耐えてきた。結婚したら私を見てくれる、とジークフリートの女遊びにも口を出さなかった。どうせ結婚するのだ。婚前の火遊びくらい黙っているのが良き淑女というものだと教育されてきた。


 しかし、最愛の人からの「冷酷」という言葉。今ならば氷のようにだってなってしまえるとエレオノーラは思った。心を凍らせ、流れ落ちそうになる涙を止められるのならば。


 エレオノーラは駄目よ、と心の中で呟く。泣くならば衆人の前ではなく休憩室に。しかし、ジークフリートと衆人はエレオノーラを逃してはくれない。


 エレオノーラは最後な力を振り絞り、毅然と対応する。


 「私から婚約者を奪って満足ですの、ヘンリエッテ嬢? 奪って得たものはいずれ奪われるもの。真に価値あるものは自分の中にあるものですわ」


 まるで自分は関係ないとこの場を見下ろすヘンリエッテにエレオノーラは語りかける。婚約破棄の意趣返しに、ジークフリートなど価値あるものではないと言い切り、ヘンリエッテも人のものを欲しがるだけの空っぽな女だと侮辱して皮肉げに笑って見せた。


 これくらい、言ってもいいはずだ。黙っているだけのエレオノーラはもう終わったのだ。最愛の人の裏切りによって。


 しかしヘンリエッテは笑顔を崩さずこう告げた。


 「まあ、私もこんなバカ王子なんて要らないんですけどね」



 

******



 

 「運が悪かったな。第一王子様の宝物庫に忍び込んで盗みなんて」


 硬い紐で縛り上げられた娘は床に伏していた。ぼろぼろの男ものの古着姿はあまり出身階層が高くないことを示している。


 「殿下、この娘が宝物庫に忍び込んだ盗人です」


 兵士二人に引き摺られるようにしてある貴人の前にヘンリエッテは投げ出された。目の前には夜着姿の金髪に翠眼の美しい青年が椅子に座って足を組み頬杖を突きながらヘンリエッテを見下ろしている。


 「私の手でも首でも切り落とせばいい!」


 ヘンリエッテは噛み付くように吠えた。通常、盗みの常習犯となると手首を切り落とす刑罰が執行されるが、第一王子の宝物庫となれば一発で手首が切り落とされる。


 「どんな財宝を蓄えているのかと思えば空っぽじゃない。あなた、王子様なのに貧乏なのね」


 「やめんか。不敬罪で本当に首が飛びかねんぞ」


 親切心からか兵士の一人がヘンリエッテの頭を床に擦り付けさせる。しかし、上から漏れてきたのは笑い声だった。


 「面を上げさせよ。私は怒ってはいない。むしろ、宝物庫に忍び込めたことに尊敬の念すら抱いている。警備を掻い潜るのは大変だっただろう。だが、何もなくて悪かったな。全て民にばら撒いてしまった」


 ははは、と第一王子ギルベルトは笑う。それは忍び込まれた側の顔ではなかった。


 「王子様、あなた宝物を金に変えて民に還元したとでもいいたいの? なら、病弱だなんだって言って引きこもってないで民の現状をみろ! 王妃と第二王子に好き勝手されて民がどうなっているのか知らないのか!」


 ヘンリエッテはこれだけ言えたら死んでもいいと思った。明日のパンなんて無い民の窮状をこの人に知ってもらえたら。そんな期待から、ヘンリエッテは普段盗みに入っている悪徳貴族の家ではなく王子の宝物庫を選んだ。


 その時、周りの侍従たちがざわめいた。なんと、ギルベルトは椅子から立ち上がり膝を折ると、ヘンリエッテの顔の高さに合わせてくれたのだ。


 「すまない。私の持つ財は微々たるもので、国民全てを救うことはできなかった。民を盗みに走るようにしてしまったのは上に立つ立場の──全て私の責任だ。すまない」


 ギルベルトは何度もすまない、すまないと繰り返し続けた。この国の王子が盗人に謝ることなどないというのに。義賊を気取ったって盗んだ財を民にばら撒いたってヘンリエッテは盗人でしかない。この国の高貴な人に頭を下げてもらう立場ではなかった。


 「だが、私は機を見て王位を第二王子から簒奪しようと考えている。だから、それまで耐えてくれ」


 しかし、ギルベルトの顔にはその耐えている間にも溢れ落ちていく民の命があることをわかり悲しみに耐えているようだった。


 「すまない、耐えてくれなど無責任なことを。しかしそれしか無いのだ。今、簒奪を企てようとも失敗する。そうしたら国は変わらない。……私には救える民などいないのかもしれない。だが、国民が盗みに走らず、飢えることのない国に戻してみせるとギルベルト・クラウス・フォン・クライノートの名にかけて違う。私を信じてはくれないだろうか」


 ギルベルトの真剣な瞳に晒され、ヘンリエッテは目尻に涙を浮かべていた。


 「そんなことない。救える民などいない、なんて言わないでください。私は、あなたに救われたんだ」


 その言葉に周りのものは驚いたように声を上げた。先程まで責めるように声を荒げていたヘンリエッテの変わりように驚いたのだ。


 「国王陛下の崩御、その時にシュタール監獄の杜撰な管理を見抜き女囚が生んだ子供を、恩赦で外に出してくれた。それが私です。あなたがいてくれなかったら私は外を知らず、看守に暴行されるだけで一生を終えていた」


 ヘンリエッテは一目、恩人の姿を見たかった。遠目からでもいい。そんな淡い願いが、ヘンリエッテの標的を第一王子の宝物庫に向かわせた。まさか目の前で見れるとは思ってもいなかったが。


 「私を助けてくれた恩人としてのあなた、民の現状を見ないあなた、どちらが本当なのかわからずにいました。でも、そうではなかったのですね。王子様は民を救ってくださるのですね。なら、私は満足です」


 そうしてヘンリエッテは「ほら、早く切れ」と言わんばかりに首を差し出してくる。不敬罪に当たると自ら思ったのだろう。


 「そなたが盗みに走ったのは私の力不足だ。社会復帰のための支援を何もせず、監獄から出したらそれで終わりと放り出したのがいけなかったんだ。だから、顔を上げろ。」


 ヘンリエッテが顔を上げるとそこには深い翠の目があった。


 「よく見たら、可憐な顔をしているじゃないか。私の下で誠心誠意働くと誓うのならば今夜の盗みも今までの盗みも罰さないと約束しよう」


 ヘンリエッテの答えは決まっついた。


 「働きます」


 その答えを聞くとギルベルトは笑顔になった。


 「そうか。ならば、誓約書を作らないとな。しっかりここで給金に関する交渉もするんだぞ」


 「給金も貰えるのですか?」


 罪を免じるためのタダ働きかと思っていたヘンリエッテは驚いたように声を上げた。


 「労働環境の改善は急務だ。私の元でタダ働きさせるわけにもいかない」


 「なら、給金の一部をシュタール監獄へ送ってください。母を監獄から出すために、金が必要なんです」


 ヘンリエッテが盗みを働くのはもちろん、食べ物がないのも理由だが母親のためでもあった。シュタール監獄は国の北にあり、女囚は刑務作業は免除されるものの厳しい環境には変わりない。それに看守の気分次第による暴行が待ち受けていた。


 「わかった。給金も送ろう。ところで、名前は何という」


 ギルベルトは兵士にヘンリエッテの縄を解くよう伝えて、名前を問うた。


 「ヘンリエッテ。ただのヘンリエッテです」




******




 ヘンリエッテにギルベルトから与えられた仕事は第二王子ジークフリートを籠絡し、第二王子派閥を切り崩すための内通者として送り込まれることだった。


 特にジークフリートの婚約者であるエレオノーラ・アンネリーゼ・フォン・エーデルシュタインとエーデルシュタイン家をこちらに引き込むことを目的としていた。そのためにはまず、二人の婚約を破棄させねばならない。そのためジークフリートを籠絡せよ、ということだ。


 ジークフリートは女好きで社交的だったので、高位貴族の主催するパーティーには必ずと言っていいほど出席していたので接触自体は容易だった。ギルベルトの協力者であるキーゼル伯爵家に養女としてねじ込んで貰えたヘンリエッテはそこで淑女教育を叩き込まれ、そしてパーティーに出席した。


 ジークフリートは令嬢たちに囲まれていて、誰でも構わず手を出しまくっているようだ。


 「問題はどうやって、印象に残るか」


 ヘンリエッテは扇子で口元を隠し、辺りを観察した。会場にはもちろん婚約者のエレオノーラの姿がある。婚約者が女に囲まれているというのにエレオノーラは眉一つ動かしてはいなかった。


 (エレオノーラ嬢が怒って、私を刺すって展開は無さそうね)


 二人の関係は冷え切っているように見える。ならばヘンリエッテも罪悪感なく、仕事ができるというものだ。そしてこれはヘンリエッテの個人的な復讐でもあった。


 ギルベルトは幼少期からジークフリートの母である王妃から毒を盛られ、神経毒により左手に少しの麻痺が残った。そして毒で母親も死んでしまったという。ヘンリエッテは初めて会った時は気づかなかったが、ヘンリエッテが自分の過去を晒したのだからとギルベルトに教えてもらった。


 その時のヘンリエッテは腑が煮え繰り返りそうになったのだ。


 (よくも、私の命の恩人に)


 ぎゅっと拳を握りしめる。何も知らずにのうのうと暮らしているその呑気な顔に腹が立った。ジークフリートが王になってもきっと何も変わらない。国民の窮状に現状維持はない。ただ転落していくのみ。

 責任をとってもらわなきゃ、とヘンリエッテは思った。飢えて死んでいった人たちの分を、そしてギルベルトの左手分を。


 ヘンリエッテのその可憐な容姿でジークフリートの目に留まるのは簡単だった。香水も控えめ、ふわりと残り香のように香る甘い花の匂い。薄い化粧に、艶々としたピンク色の唇。そんな楚々として控えめな女は、ジークフリートの目には逆に新鮮に映っただろう。


 「お前、名は何という」


 ヘンリエッテはかかったな、とほくそ笑むのを堪えて目を見て微笑んで見せた。少し間を置く。余裕があるように見せなくては。


 「ヘンリエッテ・ツー・キーゼルと申します」


 ドレスの裾を掴み、カーテシーをしてみせる。これだけで今日はこいつにしよう、とジークフリートは決めたようだ。


 「見ない顔だな。侯爵のパーティーは初めてか?」


 「私、キーゼル伯の養女でして。田舎から出てきたので初めてなのです。何か粗相をしてしまったらお恥ずかしいですわ」


 田舎娘を食ってしまうなんて簡単だと思ったのだろう。ジークフリートはさらに食いついてきた。


 「今宵が初めてか。ならば、私がエスコートしよう」


 「そんな、恐れ多いですわ」


 ここは一旦引いてみる。自分の思い通りにことが運ばない展開にジークフリートは焦るだろう。今まで女なんて簡単に釣れたのだから。


 「ヘンリエッテ嬢、ここで私に恥をかかせないでくれ」


 そう言ってジークフリートはウインクを飛ばしてきた。それを華麗に避けながら、ヘンリエッテは顔を赤らめてみせる。


 「まぁ、私パーティーのことはよくわからなくて。ここはお受けするのが正解でしたのね」


 そして差し出された腕に自分の腕を滑り込ませる。そのあとはさすが遊びなれているジークフリートだった。パーティーをしばらく楽しんだあと抜け出して、流れるように休憩室に連れ込まれてしまった。


 (ここからが勝負よ)


 ヘンリエッテはじっとジークフリートを見つめた。睨みつけていないかは心配になるほどに。口付けをしようとするジークフリートを手で抑える。


 「だめですわ、ジークフリート様」


 「エレオノーラを気にしているのか? 大丈夫、あの女は何も気にしない。それに私が守ってやる」


 思わず、嘘つきと漏れてしまいそうになったがヘンリエッテは我慢して眉を下げる。涙で瞳を潤ませた。


 「私、その…だめなのです。ジークフリート様のことは素敵な方だと思っているのですが…でも、だめなのです」


 「どうしてだ?」


 ジークフリートがヘンリエッテの肩を掴む。ヘンリエッテは先ほどまで見つめていた目を逸らししばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。まるで思案してから何とか覚悟を決めて語り出したかのように。


 「私、キーゼル家に引き取られる前に酷い扱いを受けていたのです。だから、男性が怖くて。でもジークフリート様は不思議で、ジークフリート様なら何とか大丈夫なのです。きっと優しくしていただいたおかげですね」


 ヘンリエッテは少ない時間でジークフリートをよく観察した。そしてこの男が愛に飢えていることに分かったのだ。一晩だけの虚しい関係を積み重ねてきたジークフリートにじっくり心を解きほぐし、徐々に心に近づいていくという長期戦を仕掛けることにした。


 きっとジークフリートにとっては全てが新鮮だっただろう。ジークフリートは傷ついている娘を無理矢理…というのは躊躇うほどの良心がまだ残っていたのか、その日はただ話をするだけで終わった。




******



 

 「経過は順調と言っていいです。ギルベルト様」


 椅子に座るギルベルトの前でヘンリエッテは報告していた。定期的に籠絡の状況を報告するよう言われている。


 「それはよかった」


 そう言ってギルベルトは紅茶を飲む。微かに左手が震えている。それを見るたびにヘンリエッテは何とも言えない気分になる。


 「気になるか?」


 じっと見ているのに気付いたのかギルベルトが尋ねる。


 「いえ、見てしまってすみませんでした」


 ヘンリエッテは頭を下げる。


 「謝って欲しかったわけではない。ただ、左手に麻痺が残っている王なんてみっともなくないかとふと思っただけなんだ」


 「そんなことありません! それはギルベルト様が強い証です。私なら毒に耐えた勲章だと誇ります」


 ギルベルトはじっと自身の左手を見つめた。


 「そうか、勲章か。考えたこともなかった。この手では民を救うのに不十分じゃないかと、そればっかり…」


 「失礼します」


 ヘンリエッテはそう言って無礼ながらギルベルトの左手を両手で包んだ。ヘンリエッテの手の中でギルベルトの手が震えている。


 「私はこの手で救ってもらった国民第一号です」


 そして、臣下が忠誠を誓うように口付ける。


 「この手を私は美しく思います。一番、愛おしい手です」


 しばらく、ギルベルトは驚いたように黙っていた。


 「ありがとう、そう言ってくれて」


 ギルベルトは噛み締めるように左手を見つめ続けた。




******



 

 「経過報告、概ね順調。意外とピュアな恋愛を演出してあげたらコロッと落ちました。幼少期、周りが大人ばかりで愛が貰えず寂しかった、婚約者のエレオノーラ嬢が優秀で引け目を感じていたなど色々聞き出しました。そろそろ褒美を与えてもいい頃かと思います」


 「褒美? ああ、何が欲しいんだ? 言ってみろ」


 ギルベルトはヘンリエッテに何が欲しいのか尋ねる。しかしヘンリエッテは首を横に振った。


 「ギルベルト様、私に対しての褒美じゃなくそろそろジークフリートに褒美をやる段階だと私は思うのです」


 「は? 何故…」


 ギルベルトは薄々わかっているだろうにそれを認めたがらなかった。


 「私の身体ですよ。ジークフリートに、私の身体を褒美として許すんです。そろそろ引っ張るのも無理が出てきましたし」


 すんなりと許可が出るものだとヘンリエッテは思っていたが、ギルベルトは首を縦には振らなかった。


 「駄目だ。もっと慎みを持って…」


 「私に操を立てる相手なんていませんし、何より今更です。生娘でもないのに、大事に大事にする意味がわかりません。若い時は人生で一瞬なんです。柔らかい肌を人に触れさせないで、貞操を語るだけなんて虚しくないですか?」


 強がりを言った。本当は大好きな人に捧げたいとすら思っていた。しかしもうヘンリエッテには無理なのだ。無理矢理頭を押さえつけられる恐怖を二度と味わいたくない。ならば機嫌を取って、柔らかな肌に触れさせてやって、乳房をまさぐらせればいい。それが一番簡単で、一番楽で、苦しい。


 それはわかっていた。でもヘンリエッテにはそういう生き方しかできない。男に媚びて、少しの我慢をして、少しの安寧を得る。


 「ギルベルト様だって、最初に私にこの仕事を言い渡した時からわかっていたでしょう? 身体でも何でも使って籠絡しなきゃいけないじゃないですか」


 その時、ギルベルトは椅子から立ち上がってヘンリエッテを抱きしめていた。


 「そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ」


 ヘンリエッテは今自分がどんな顔をしているのか分からなかった。今にも泣き出しそうな顔に見えたのだろうか。ヘンリエッテの背中に震えたギルベルトの左手が触れる。自分自身も震えていることに気づいた。


 「最初は、酷いことだが君の言う通りに思っていた。だけど今は違う。もう傷ついてほしくないんだ。私はこれ以上君が自分を傷つけ続ける姿を見たくないんだ」


 自分を傷つける? 意味がわからなかった。ヘンリエッテはただギルベルトの命令を忠実にこなしていただけだ。言いたくない言葉も媚びるような表情も、ギルベルトの命令だからこそ耐えられた。それに、この籠絡の作戦はギルベルトが王位に着くのには重要なことなのだ。最初は盗人に全てを任せる作戦ということであまり期待はしていなかっただろうが、今は重要な作戦になっている。


 ギルベルトが王になるためなら、ヘンリエッテはなんでもする気でいた。それこそあの監獄で行われた凄惨な暴行をもう一度受けることになろうとも耐えられた。それが命を救われた者の恩返しだと思っていた。


 ヘンリエッテはギルベルトに命の恩人以上の感情を抱きつつあることに気づいていた。しかしそれは胸の内にしまう。もし自覚してしまえば、どんな気持ちで報告すればいいか分からなかったから。今日はジークフリートと船遊びをしただとか、どんなことを言ったか、口付をしたか否か。全て報告しなければならなかった。

 気づいてしまったならば耐えられない。他の男に媚びていることなど知られたくない。


 「私からのお願いだ。ジークフリートなんかに君はもったいなさすぎる」


 「…わかりました。引き伸ばせるだけ引き伸ばしてみます」


 そうヘンリエッテが答えるとギルベルトは笑顔になり「そうしてくれ」と機嫌が良くなった。



 長期的なジークフリートとの疑似恋愛は、最終局面まで来ていた。ジークフリートは完全に心を開き切ってヘンリエッテを信頼し切っている。


 穏やかな庭園のガゼボに座り、ジークフリートはヘンリエッテに膝枕をしてもらい完全に身を預けている。激しい炎に燃える憎しみはいつのまにかヘンリエッテの中で小さくなっていった。


 ジークフリートのギルベルトとお揃いの金髪を手櫛で梳かすように撫で撫でながら口を開いた。


 「ジークフリート様、宮殿に来られるよう特権を与えてくださりありがとうございます。こうして、好きな時にジークフリート様に会えるようになりましたわ」


 優しく微笑んで見せる。ジークフリートは母性的な愛に飢えているようだったから甘えさせるとすぐに懐いてくれた。彼にとって一人の女にこれほど長く執着するのは初めてのことだっただろう。


 ヘンリエッテは完全にジークフリートの秘密の恋人のような立ち位置になっていた。新興貴族故に宮廷とあまり繋がりを持てなかったキーゼル家にも養女にしてもらった恩を返せたような気がする。


 キーゼル家もジークフリートの恋人の実家ということで第二王子派閥に深く入り込むことができていた。


 「ゆっくり二人で過ごす時間が欲しかったんだ」


 ジークフリートは木漏れ日を受けながら、ヘンリエッテの膝の上でうとうとしている。穏やかな時間だった。ヘンリエッテがジークフリートを騙しているとは思えないくらいに。


 ヘンリエッテはジークフリートを寂しい人だと思った。ギルベルトの周りには彼を慕う部下たちがいるが、ジークフリートの周りには彼に甘言を吹き込む輩しかいない。彼は愛を求めているから、自分に優しくしてくれる人に寛容になってしまう。


 自分なんかに騙されて、哀れだとヘンリエッテは思った。元々女遊びだってエレオノーラを嫉妬させたいがために始めたのに、彼女は諌める言葉もかけなかった。それが彼の中からエレオノーラへの期待をすっかりと無くしてしまう原因だった。


 少しでも何か違えば。愛とまではいかずとも、少しでもエレオノーラがジークフリートに情を持っていたら。きっとこんなことにはならなかっただろう。


 (可哀想なジークフリート。でもギルベルト様にとっては好都合だわ)


 猫の毛みたいに柔らかいジークフリートの髪を弄びながらヘンリエッテは心の中で呟く。ジークフリートは徐々に貴族内からその評価を落としていた。エレオノーラを放っておいてヘンリエッテに夢中な様子が知れ渡っているからだ。


 ギルベルトからもエーデルシュタイン家をこちら側に引き込めそうだと報告を受けていた。エーデルシュタイン家は娘を、そして家をないがしろにされている状況に黙ってはいないようだ。今では第二王子派閥にべったりだったのが徐々に第一王子派閥に傾いてきている。


 「ヘンリエッテ、君は春の木漏れ日のような人だ。ずっと君に会いたかったのかもしれない」


 「まぁ、ジークフリート様ったら。……でもエレオノーラ様に悪いです。私がジークフリート様を独占してしまって」


 そこでジークフリートは顔を顰めた。その女の名前は出すなというように。


 「あの女のことなど気にするな。冷たい女だ。あんな女どう結婚するのだと考えると恐ろしい。ヘンリエッテ、君と結婚できればよかったのに」


 「私も…ジークフリート様と結婚できればよかったですわ」


 胸が痛んだ。何故こんなに痛むのだろう。ヘンリエッテの中にギルベルトの顔が浮かんだ。あの優しく抱きしめてくれた温もりを思い出した。きっとこんな苦い気持ちになるのはジークフリートがギルベルトに似ているからだ。

 

 瞳の色こそ違うものの、髪の色は同じなのだ。そして顔立ちも異母兄弟だというのに少し雰囲気を変えただけで似ている。


 「ヘンリエッテ、私の部屋に来ないか。君が好きそうな茶葉を用意してある」


 それが誘い文句だとヘンリエッテはすぐにわかった。ジークフリートが哀れだと感じる。彼はヘンリエッテの心に触れられたと感じているのに、それは全くの偽りなのだから。ヘンリエッテの心はいつもギルベルトにある。


 「ジークフリート様。私、()()()()()()()はお養父(とう)様に結婚してからだときつく言いつけられております」


 残念ですけど…とヘンリエッテはジークフリートの髪から手を離す。ヘンリエッテはギルベルトの顔が浮かんでいた。彼が言うから、少しは自分を大事にしていいのかもしれない。乙女の心を取り戻してもいいのかもしれない。そんな気がしていた。


 「……なら、君と結婚できるようにする。母上にだって文句は言わせない。私は君と結婚したい」


 ジークフリートは懇願するようにヘンリエッテの頰を撫でた。ヘンリエッテはほくそ笑むのを必死に隠す。


 「でも、エレオノーラ様は…」


 「王妃とは慈愛の心を持つものだ。なのにあの女、周りに関心がなく冷たいじゃないか。私の伴侶としても、国母としても相応しくない。君を我が生涯の伴侶としたい」


 ヘンリエッテはやっとここまできたと達成感に満ち溢れていた。ジークフリートは坂道を転がり落ちるようにヘンリエッテの元に落ちてきた。


 「なら、やり方はわかりますね? ジークフリート様」


 甘く誘惑する。こっちだよ、と手をこまねく。ジークフリートの瞳は酩酊しているかのようにぼんやりと熱に浮かされていた。




******




 「まあ、私もこんなバカ王子なんて要らないんですけどね」


 やっと溜めいてた本音が出てしまった。ヘンリエッテはエレオノーラに微笑んでみせる。


 「ヘンリエッテ…?」


 ヘンリエッテの豹変ぶりに驚いたようにジークフリートが名前を呼んだ。その声は迷子のような弱々しい響きだった。


 「突然ですけどジークフリート様。冬の北部に行ったことはありますか? 特にシュタール監獄です。とても厳しい土地なんです。なのに碌に食事も与えられず薄い毛布一枚ですから、弱って死んでしまうことなんてよくありました」


 「ヘンリエッテ…急に何を言ってるんだ」


 「なら、ここ首都の街を見られたことは? 貧民街の地区です。そのあたりに餓死した人の姿が見られます」


 ヘンリエッテはジークフリートの問いには答えず、責めるようにジークフリートを詰問する。


 「あなたは王になろうとした方。当然、ご存知ですよね。知らなかった? それは許されません。民なくしては王は存在できません。民のいない王なんて滑稽だわ。

 あなたはある意味で可哀想な方。誰も教えてくれなかった。でも、あなたも知ろうとはしなかった。民に寄り添わない方が本当に王に相応しいでしょうか」


 ジークフリートは裏切られたような顔をしていた。顔を青く染め、「嘘だと言ってくれ、ヘンリエッテ」と呟いている。ヘンリエッテはジークフリートの近くにいた。近くから彼を見ていた。そして本当の彼を知った。


 彼は愛されたがりの、目隠しをされた子供だと。可哀想ではあるが、彼は王族としての責任を果たさなかった。これが結末だ。


 「皆、聞いてくれ」


 その時、広間にギルベルトの声が響く。「あれは、第一王子!」「病で表に出られぬのではなかったか?」と会場中がざわめきの渦に巻き込まれる。


 「衆人の前で、婚約を破棄するなど王としての資質に欠けるとは思わないだろうか」


 ここで周りにジークフリートに対して不信感を煽る。長い時間をかけて植えていた芽がようやく芽吹く。植え付けられた不信感は簡単には拭えない。


 「そして、これが王妃と第二王子派閥の者たちの不正の証拠である」


 そう言ってギルベルトは書類の束を掲げた。不正に動いた金の動き、そして民の窮状を放置したこと、王室予算では足りず国家予算の横領とその散財、王妃たちを失墜させるには十分な証拠だ。


 「王妃殿下、これはどういうことか」


 玉座に座る王妃に貴族たちが詰め寄る。王妃は扇子で顔を隠し、「わらわにもわからぬ」「嵌められたのじゃ」と呟いている。


 会場が混乱に包まれる中、ヘンリエッテは静かに姿を消した。




******



 そのあとのことはあっという間だったように感じる。王妃はその位を剥奪され、離宮に生涯幽閉されることになった。ジークフリートも王子の位を剥奪され、流刑地に行くことになった。男であるジークフリートは王家の血を継ぐものとして、よからぬことを企む者たちに担ぎ上げられるという不安要素もあったが、ギルベルトが最大限に慈悲を与えた結果だ。


 「こんなところにいたのか、ヘンリエッテ」


 宮殿のバルコニーで夜風に当たっていたヘンリエッテをギルベルトは素早く見つけた。


 「ギルベルト様。こんなところにいてよろしいのですか? 数ヶ月後には即位式ですよ。片付けなければならない仕事が山ほどあると仰っていたではありませんか」


 ヘンリエッテは風に揺れる己の髪を煩わしそうに搔き上げると、ギルベルトの深い翠の瞳を見つめる。


 「その前に片付けなければならないことがあってな」


 「何ですか?」


 ギルベルトはその言葉を口にする時、躊躇ったように見えた。


 「籠絡の仕事の最後の給金を貰ったら、それからどうする」


 「監獄を出た母と共に静かに暮らそうと思います。ギルベルト様が良い国にしてくださるのでしょう? それを一国民の立場で感じていたい」


 ヘンリエッテは胸の辺りをぎゅっと掴んだ。何故、こうも胸が苦しいのだろう。嘘は言っていないはずなのに。


 「それより、ギルベルト様はエレオノーラ様とうまくいってるんですか? エーデルシュタイン家と協力関係を良好に続けるにはエレオノーラ様との仲が重要ですから」


 エレオノーラは衆人の前で婚約破棄されるという恥をかかされたあと、ギルベルトは優しくエレオノーラを慰めた。それはエーデルシュタイン家と良好な関係を築こうという思惑があり、簡単に言えばエレオノーラが惚れてでもくれたらよかったのだ。こちらも籠絡の計画と言える。


 「そのことだが、婚約の話はエレオノーラに断られた。私の嘘が見抜かれてしまったんだ」


 それにはヘンリエッテは驚きを隠せなかった。エーデルシュタイン家という重要な貴族の協力が得られないとなると、ギルベルトの権力は盤石なものとは言い難くなる。


 「そんなっ…」


 ヘンリエッテは顔が青くなる。まさかここで躓くとは思ってもみなかったのだ。エレオノーラは最大の侮辱とも言える公然の場で婚約破棄をされたのだ。その心の傷は深いものだろう。そんな時に懸命に支え、慰めてくれる存在は大きなものになる。その存在にギルベルトが成り代わろうとしていた。


 『傷心につけ込むなんて卑怯ですわ。それに、私もう恋愛には懲り懲りですの。しばらくは一人で気楽にいかせてもらいますわ。しばらくして傷も癒えた頃には父が新しい縁談を持ってきてくださるでしょうから。だって、あなた様の派閥にいるんですもの。重臣の一人娘を未婚のまま放置なさらないでしょう?』


 エレオノーラはそんなことを言っていたとギルベルトは教えてくれた。賢いエレオノーラには全てお見通しだったらしい。


 「それに、こんなことを言われたよ」


 『そして、ここが一番重要ですわ。私、他の方に懸想している殿方の妻になるほど虚しいことはしたくありませんわ。それは、今までで十分』


 生涯最大の恋だったのだろう。エレオノーラは幼少期、厳しい教育の中で気まぐれにジークフリートが褒めてくれたことを宝石のように大事に仕舞い込んでいた。その想いだけでここまできたのだと語った。


 「ギルベルト様、他の方ってもしかして…」


 ヘンリエッテは淡い期待をしていいのかと頰を染めた。冷たい夜風に吹かれながらも頰だけは燃えるように熱い。


 「君だ。君のことが好きだ。君を利用して悪女に仕立て上げてしまったのに都合が良すぎるだろうか」


 ギルベルトが眉を下げる。ヘンリエッテは今すぐにでも返事をしたかった。「私も」と言いたかった。ジークフリートに対しては簡単に言えた嘘の言葉だが、本当の言葉を紡ごうとした途端に舌が絡まってしまう。


 「私、罪人の娘です。綺麗な体でもありません。貴族は初婚では純潔かどうか酷く気にするものでしょう」


 「君は綺麗だ。それに、私は君の心が大事だ。体なんて気にしない。君は私の麻痺が残る手を美しいと言ってくれた。君の悲惨な境遇に耐えた体も勲章だとは思わないか?」


 ヘンリエッテは涙を堪えきれなくなってギルベルトに抱きついた。ギルベルトは震えた左手で優しく抱き留めてくれる。

 

 「でも、私の出自はどうしようもない。キーゼル伯爵家の養女になったとはいえ母との縁は切れません。だから、何処からかこのことがばれる日が来ます。ギルベルト様の欠点になりたくないんです」


 「そのことなんだが、シュタール監獄をもう一度調査したところ複数の冤罪で囚われているものが見つかった。君の母上も冤罪の一人だった」


 「そんなこと、母は一言も…。冤罪だと叫ぶことすらしなかった」


 「獄中で妊娠して、看守の気まぐれの暴力で子供を殺されたくなかったから口を噤んだのだろう」


 ヘンリエッテの涙がバルコニーに一粒、また一粒と落ちる。


 「母を不幸にしたのは私のせいかもしれない。私が、お腹に宿らなければ」


 その時、ヘンリエッテの体をギルベルトは強く抱きしめた。


 「そんなことはない。もし君を疎んでいたのなら守ろうとはしなかっただろう。それを言うなら私だって、母は国王から無理矢理お手付きにされ私を産んだからこそ、王妃に毒殺されてしまった。母に死をもたらしたのは私だ。だが、一体私達をどう裁くのだろう。生まれたことが罪にはならない」


 ヘンリエッテは元から惹かれ合うことが定められていたような気がした。王子と盗人、隔たれた身分で出会って似たような古傷を抱え合う。傷を舐め合うだけの関係だと罵られるかもしれない。恩人としての好きと恋愛としての好きを混同しているだけと諭されるかもしれない。


 しかしヘンリエッテには叫びたいことがあった。


 「私、あなたを愛してます」


 監獄から出て、これが王子による恩赦だと知った時からギルベルトはヘンリエッテの希望の光だった。盗みに入った時も、ヘンリエッテの罪を裁くのではなく、そうさせてしまった社会に憤り自分を責めた。


 この人の側で支えていきたい。それがこの籠絡計画を得てヘンリエッテが強く感じたことだった。一人だとこの人は自分を責めてしまう。だからこそ、麻痺が残る手を摩り口付けをしてやって「そんなことはない」と言う人が必要なはずだ。それは私がいいとヘンリエッテは思う。


 「もう、離してやれないな」


 ギルベルトはヘンリエッテを強く抱きしめたままそっと髪に口付けを落とす。


 ジークフリートを籠絡するつもりだったのに、ギルベルトまで籠絡してしまった。否、意外と自分もギルベルトに籠絡されているんじゃないかとヘンリエッテは思った。それも悪くない。お互いがお互いを愛で溺れさそうと画策していることは何となく感じ取っていた。


 二人の問題はまだ何も解決はしていない。ヘンリエッテは王妃としては不十分だ。しかし、エレオノーラが王妃教育の教鞭をとってくれるらしい。


 未来は思いの外、暗くないとヘンリエッテは愛しい人の温もりの中で静かに目を閉じた。

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