ひとちゃん
「兄ちゃん、死んでんの?」
弟は俺が死にたがりなことを頻繁に弄ってくる。好奇心や嗜虐心からかとばかり思っていたが、そのこと自体を冗談にして笑ってしまいたい、と彼も彼自身で現実逃避していたんだと最近になって感じた。不幸というのは伝染病と同じらしい。俺が不幸だと家族も不幸になってしまうらしい。だから、俺は幸福を演じなければならない。笑顔を繕わなければならない。この小さな箱の外では。そんなのは当たり前だ。みんなやってる普通なことだ。仮面を付けて、その場をしのいでいたい。相変わらず理もなく部屋に入ってきた弟に、何気なく就職できたことを伝えた。
「良かったじゃん」
「死ぬかもしれない」
「はは、良かったじゃん」
そっけない態度を取られた。時に自分でも自分の死を冗談にしている節がある。冗談に包んで本音を吐き出しているだけだけど、これが何だか楽しいんだ。弟の前でしか披露できないけれど、これを許してくれる弟は優しい。俺は弟のことを「ひとちゃん」って呼んでるんだ。けれど、全然人間味がないんだ。小さい頃は勿論、喜怒哀楽があった。普通の子供と同じだった。俺の中では特段と他の子よりも可愛かったけれど。でも、大人になるにつれて、怒哀が欠落して、喜楽だけになった。とても良い子になってしまった。だから、俺としてはとても不安なんだ。何かを頼んでも嫌な顔一つせずに、二つ返事で受け入れてくれる。母が俺に構ってくれている分、弟には窮屈な思いをさせている気がしてならない。杞憂で終わればいいんだが。
「じゃあ、そのベッド汚してもいい?」
「はあ?」
「嘘々、こんな汚い部屋じゃ連れ込めねえか」
はあ、きっと俺の杞憂だ。高らかに笑うアイツには、俺以外の誰かがいるんだろう。怒哀を見せる誰かが。俺には恋だの愛だのはまったく縁がない。そもそも人間にそんな感情を抱くことができない上に、考えるだけで気持ち悪くなった。俺って、かなり人間やめてんだな。気持ち悪ぃ。父は俺のことなんか見えていないようなフリをする。見えていたとしても、部屋に入り込んだゴキブリと同じような扱いだろう。ここ数年間は、特に会話をしなかった。俺が就職したって聞いても、「あっそ」と笑って酒で流し、飲み込む程度だ。その態度が母との喧嘩の着火剤なんだけど。お互いにもう顔を合わせなくて済むというのは、清々しいなあ。ああ、何とも。俺も祝い酒と称して、ただ酒を浴びたい。プシュという缶を開けた音を聞くだけで、胸が高鳴って飲む前から血色が良くなりそうだ。喉を突き刺すような強炭酸が、俺の穢れを洗いざらいに蓋をしてくれる。洗ってくれるわけではない。なんなら、その泡が消えたあとに、そこに残っている穢れを見せられた瞬間が一番泣ける。コントラストも相まって、いつもより不潔に見えるもんだからタチが悪い。もうどうでもいい、何でもいい。そのまま寝ちゃって脳が作り出した夢は現実よりも優しい悪夢で、悪夢なのは現実というのが最悪だ。誰か俺の頬をつねって、この現実から目を覚まさせてくれよ。




