ミジンコよりもない体力
「採用だ。その代わり、死ぬ気で働かんかったら、給料やんねえからなあ」
意地悪く笑ったそのおっさんは、この日から俺の社長になった。嫌な顔すんじゃねえ、とからかわれた。晴れて、俺は八木 勝己率いる八木組に土木作業員の一員として就職した。しかし、その帰り道は暗かった。職が決まったにも関わらず、まだ未来の俺が見えてこないからだ。それに、母にこのことを告げるのが次の最難関の問題であった。行き先も言わずにふらっと出てきてしまったからだ。ついに自殺すると思われただろうか。ただ伝えなくても大差ないと思っただけなんだけど。土木作業員なんて俺のミジンコよりもない体力でできるはずがないからだ。絶対に落とされるだろうという謎の自信すら持ち合わせていた。だが、結果はどうだ?受かってしまった。これが悪夢だったら、どれほど良かっただろう。別に落ちたかったわけではない。落ちる可能性がエベレストよりも高いって、そう思い込んでいただけだ。あんなことまで喋ってしまって、今日の俺は本当に俺じゃないみたいだ。
「母さん、職が決まりました」
俺が無事に生きて帰ってきたことに安堵の表情を見せる母に、追い打ちをかけるように俺の真人間への第一歩を報告した。厳かに伝えようと敬語を選択したものの、何も悪いことをしていないはずなのに何故か怒られているような気分になった。サラッとテレビに流れるコマーシャルのように聞き流してくれれば良かったのに。どういうこと?と包丁をまな板に置いて、わざわざキッチンから出てきて、説明を求めるように、一の腕まで掴まれた。とりあえず、二の腕を掴まれなくて良かった。掴まれたら痛いから。また目を逸らしてしまう。嘘を付きたいからではない。自分に向けられる注目が怖いんだ。その裏返しに自分がこの世界に存在しているから、嫌になってしまうんだ。触れられるのも声をかけられるのも、全部かなり苦手だ。
「土木作業員として、働くことになりました」
敬語がまだ抜けない。赤の他人に怒られている気分だ。でも母もきっと内心では怒っているんだろう。許しを問わずに身勝手に決めてしまったから。ああでも、俺って大人だよな?十八歳から成人と言われるけれど、俺はいつまでも子供だった。二十四にもなってもだ。親の脛をかじるのもいい加減にしろと殴られてもいい年齢だ。しかし、今日この日、夢みたいで頭ん中が狂っちまいそうなこんな日に、俺はちょっとだけ大人になりました。母にはあまり頼らないでそれなりに生きて死にたいと思えるようになりました。俺の第二の成人式では、そんな耳障りなスピーチをしたい。
「……え、土木作業員?」
嘘でしょ、という気持ちが丸見えな顔だ。事実確認、咀嚼のような復唱だ。噛みきれない安いステーキ。噛んでいる内に味がなくなったガムと同じで、食べ物ではなくなったそれを飲み込むのに一苦労する。そんな感じだ。
「あと、俺一人暮らしするからさ。今までお世話になりました」
軽く会釈のようなお辞儀をして、決まりが悪くてはにかんだ。本心としては、今まで迷惑ばっかかけてごめんなさい、と言いたかったけれど、それでは母が俺を掴んで離してくれなさそうなので、謝罪の言葉よりお礼の言葉をかけた。情報処理ができなくて、放心状態の動作が重い母は、俺に対して何の言葉もなかった。ただ晩御飯を作り始めた。泣きたいんだろう。嬉し泣きか悲し泣きかは分からないけど、現実が飲み込めたところで始めて泣くんだろう。自屋に戻ると、一日の疲れに飲み込まれた。二段ベッドの下のベッドにいそいそと入り込んで、幸せを感じる。この小さい箱の中はシェルターのようで、外敵から俺を守ってくれて、癒してくれる。自由でいられる。安心する。弟の仁とは相部屋なので、容赦なく部屋には入ってくるが、俺のベッドは俺だけのものだ。




