そういう時代だろ?
朝、着替えると、右耳が裂けた。リュウくんとお揃いのピアスが落ちた。滴り落ちる血液なんかに目もくれず、左耳にすぐさま付け直した。ほっとした、お守りのようだ。右耳には適当に絆創膏を貼り付けた。
「テン、ミュージック」
と後部座席に座るヒロさんに強請られる。最近はクラシックを聴きながら、優雅な朝の時間を過ごすのが、この車内では流行っていた。
ジャジャジャジャーン!
目が覚める、叩き起されるかのような激しい音。ベートーヴェンの運命だ。後ろから笑い声が聞こえる。思っていたのとは違うと。慌てて次の曲へと変えようとするとスマホを助手席へと落とした。
「すいません、チトセさん。スマホ、拾ってもらえませんか?」
「変えるのか?」
「ああ、はい」
「好きなんだがな」
とスマホを渡される。
「……すいません、このままでいいですか?」
「何なーん、俺ら文句言ってねえじゃんよお」
そうやって笑いながら文句を垂れるアキさんに、運転席の後ろからバンバン叩かれた。その振動が脳内に響く。チトセさんが満足げに窓の外を見つめていた。
「死にゆく運命を前にして、人は抗えはするけれど、避けられはしない。だが、抗わなければ、歓喜はできない」
その独り言のような格言に、引き込まれるように深く考えさせられた。この曲の解釈なんだろうが、彼が言うと、その人生の歴史までもが滲み出ていて、説得力が俺の心を押した。
「クラシック音楽に詳しいんですか?」
ウィンカーのカチカチとした音を鳴らして、信号待ちをする。貧乏ゆすりをしてしまいそうで、暇を持て余す前に潰した。
「いいや」
そっけなく、俯いたまま、興味がないというよりかは、説明をしたくないというように、答えられた。
「そうですか」
「ググッた。そういう時代だろ?」
と助手席のチトセさんに、何でもないようにスマホを見せられた。思わず、「は?」と間抜けな口を開けて、言ってしまうところだった。唾を飲み込んでから、カチカチと規則正しく点滅するライトのように、目を白黒させて、感情を無にした。
「はは、そうですね」
俺が感銘を受けた、彼の経験則に基づいていると思われた、あの言葉の深みや味わいは、スマホに書かれている誰かのサイトの言葉で、それを知ってしまうと、今まで輝いて見えていたものが、瞬時にくすんでしまったような喪失感に襲われる。
「ん?年寄りっぽくないか?」
と不自然な笑顔を訝しげに見られる。俺は、自らのヘラヘラとした薄っぺらい態度を恥じて、顔から出火して、燃え尽きてしまえばいいのに、なんて考えていた。
「チトセさんってば、アキさんよりもスマホとか機械とか使いこなせるっすもんね。脳年齢、若いっすよ」
後部座席からヒロさんがナイスフォローをするように、チトセさんに話しかけた。横から茶々を入れられながらだが。叩かれてる。それに懲りずにヒロさんは、この前も、とゲームした時の話を、アキさんをいじりながら、原始人なんて囃し立てて、嬉々として話している。
「そのゲーム、随分と楽しそうだな」
「チトセさんもやりますか?」
「やってみたい」
「テン、いいよな?」
「ああ、はい」
同調圧力に負けて、肯定せざるを得なかった。まあ、何もないし、別にいいけど。
「アキさんは?」
「俺はパス。読みたい新刊があるし」
とまだ理由があるように語尾を濁した。




