707:旅籠屋三階内湯にて、森の主あらわる
「波浪雲!? とうとう現にまで、姿を現しやがったな!?」
まさかの森の主は、おれが前に想像したのと、大差ない姿形をしていた。
大渦を描いた着流しのような服のまま、湯に浸かるのは――
額から小枝を生やした、優しげで珍妙な女。
「用があるのは私ではありません、樹界虫です。この森の命運を、担って下さい」
微かに目を、つり上げると――
ふらふらと揺れていた小枝が・・・ピタリと止まった。
「うむ。お前さまの言うことは矢張り、何一つ、わからん」
何の話なんだぜ?
「龍脈を体に宿すもの。それは樹界虫です」
龍脈まわりの話ならぁ、せめて星神にでも言えやぁ。
§
「そもそも、お前さまが、村から出られなくしたんじゃねぇか」
くぴり。ふぅぅぃ――久々の澄み酒わぁ、染みるな。
「樹界虫を逃がしてしまっては、元も子もないので……森域結界を張るのは、当然のことゆえ」
その結界とやらには、五百乃大角とお猫さまが――
女神像を介して、穴を空けちまったがなぁ。
とくとくとくん――辛みのある澄んだ酒を、猪口へ注ぐ。
リオレイニアの居ぬ間に、なんとやらだぜ。
働きづめのおれが、おれの酒瓶を持ち出したからといって――
咎められる、道理はねぇ。
例によって森の主の言うことは、まるで要領を得なかった。
それでも腹を割って話すならぁ、やはり般若湯だろ――ウカカカッ♪
「お前さまも、一献どうでい?」
湯に浮かべた盆に、酒を注いだ猪口を乗せてやる。
まえに瞼の裏で話をしたときわぁ、そこそこ飲み食いしたからな。
「これは、酒ですか?」
ちびり。ウカカッ――いける口だな。
一緒に、飲み食いが出来りゃ――大抵のことは、何とかなるもんだ。
「ふー。あてに、甘い物を頂きたく」
そうだった。此奴さまは甘いもんに、目が無かったんだったぜ。
「甘い物なぁ」
ガムラン饅頭で良――
「(ちょっと、いま甘い物って言っったぁ!?)」
てちりと、おれの頭上に降臨する御神体さま。
ィィィィィィンッ――――殺気っ!?
微かに湯が、揺れた気がするぜっ?
「やい、念話は止めとけやぃ。湯船に穴を空けられたら、折角の風流な酒がぁ台無しだろぅがっ!」
狐耳族の近くで、根菜や棒が念話を使うと、殺気が飛んでくる。
しかも其奴は場合によっては、細く鋭い狐火・仙花を伴い――
壁床天井に、大穴を空けるのだ。
「ところでシガミー。こちらの方わぁ、どなたぁ?」
「なんという、小さき者……樹界虫では、ないようですが?」
見つめ合う、美の女神と森の主。
「聞いて驚け、森の主さまだ。失礼の無いように、気をつけろやぁ――」
ふぉん♪
『イオノ>>ファロコちゃんの、お母さんわのねん?』
そういうことだな。
「――そして主さまよ、こいつぁこうみえて人の世の神……主みたいなもんだ。敬う必要はねぇが、仲良くしてやってくれや」
二人とも、平穏無事に頼むぜ。
また念話で、がなられても敵わんからな。
「(てなわけで迅雷、星神を連れてこい)」
ちなみに生身のおれが、念話を使っても――
狐耳の連中の癇に、障ることはない。
ふぉん♪
『>>茅野姫なら、厨房に居ます』
ふぉん♪
『ホシガミー>>はい。あとからお出しする分の料理の、下ごしらえをしておりますわ?』
森の主との話が済んだら、おれも厨房に入るが――
おれは耳栓を、ぎゅっと押し込んだ。
おれが付ける耳栓から突き出た、小さな機械腕。
その先端から、迸る赤光。
湿気の多い風呂場では、一行表示の文字が少し滲むが――
読めない程ではない。
ふぉん♪
『シガミー>>どうも森の主が言うには、おれぁ〝樹界虫〟とか言う虫らしくてな』
全身が龍脈と言われても、おれにはまるでわからん。
けど、こと龍脈に関してなら、専門家がいる。
他ならぬ茅野姫、その人だ。
「というわけで、忙しいところ悪ぃがぁ――」
――何か甘い、酒の肴を頼むぜ。
女神像近くなら視線が通らなくても、こうして念話が通じる。
細かいことは全部、迅雷や女神像任せだが、使えるのだから問題ない。
ふぉん♪
『シガミー>>三階南側の客間まで、持ってきてくれや』
ふぉん♪
『ホシガミー>>では冷たい物と温かい物、どちらに致しましょうか、くすくす?』
「冷たい物と温かい物なら、どっちが良いんだぜ?」
おれは小枝を生やした珍妙な森の主に、聞いてやる。
「はい、はぁい♪ お風呂で食べる甘い物って言ったらぁ――冷たいのに決まってるでしょっ♪」
神さんには、聞いてないんだが――
「では、私もそれで」
まぁ森の主も、そう言うなら良いだろう。
じゃぁ冷たい物を、頼むぜ。
ふぉん♪
『ホシガミー>>くすくす、承りましたわ♪』
「よいしょぉ!」
トタンと、盆に飛び乗る女神御神体。
「ぅわぷっ! 酒が零れるだろぅがぁ」
芋茸さまが隣に浸かる、森の主を見上げた。




