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「上がっていけよ。話がしたい」
隣人の高橋 涼はアイを自分の部屋に通してくれた。
仏頂面だがちゃんと飲み物を出してくれる様子が、懐かしいジョシュアとかぶる。
(ジョシュア様はどうしているかしら? もうイザベラと結婚しているのかな?)
想像するだけで胸がつかえるような気持ちになる。余計な考えを追い出すようにブンブンと頭を振った。
「どうした……? 頭が痛いのか?」
涼の瞳が心配そうに瞬く。
(いい人だな。私のことなんて迷惑でしかないだろうに……)
「それで……記憶喪失と言ったが、そんな単純なものじゃないだろう。あんたは絶対にアイじゃない。何者なんだ?」
確信を持った言い方が意外だった。もう何年もアイとは口をきいていないと言っていたはずなのに。
仕方なく、これまでの状況を正直に説明した。
***
信じられない、という顔で涼は腕を組んで考え込んだ。
「そうか、君の体はアイだが、中身はアイじゃないってことだな。それで……アイの怪我は大丈夫なのか? 入院するほどの怪我だったんだろう?」
「はい。肋骨が何本か折れて歯も何本か失いましたが、幸い後遺症になるような怪我はなく……」
体中にまだ濃い痣が沢山残っていたが、それは口に出さなかった。
「くそっ! いくら強いと言ったって女一人相手に……」
悔しそうな涼の顔を見て、こんな風にアイのために怒ってくれる人がいることが嬉しかった。
「アイさんを心配してくださって、ありがとうございます。アイさんは強い方だったんですか?」
涼の瞳が懐かしそうに優しく弧を描く。
「ああ、俺とアイは子供の頃同じ空手道場に通っていたんだ。あいつは全国大会に出るくらい強くてさ。俺よりずっと強かったよ。特に親父さんが亡くなってから母さんを守るのは自分の役目だって、熱心に稽古していた」
「そうだったんですね。だからマナミさんが再婚された時にもう自分は必要ないと思って、悲しかったのかもしれませんね」
アイはアリシアの父親が再婚した時の気持ちを思い出してそう口に出したのだが、それを聞いた涼の顔が強張った。
「……そうか。そんな風には思わなかった。それであんな風に変わってしまったのかな」
涼はぽつりと独り言ちた。
「あの、アイさんのことをもっと教えて頂けますか?」
「俺は子供の頃のアイしか知らないけど」
そう前置きしながらも、涼は嬉しそうに思い出話を始めた。
懐かしそうに語る穏やかな顔つきを見ているだけで、彼がアイに対して優しい感情を持っていたことが伝わってくる。
「涼さんとアイさんは仲が良かったのですね」
最初にマナミのことを『マナミ様』と呼んだ時に、この世界では『さん』づけで良いのだと教わった。
しかし、涼は苦笑いをした。
「涼でいいよ。呼び捨てにして。幼馴染で『さん』づけは不自然だ」
「そうなんですか?」
それならこの世界の常識に従おうとアリシアは素直に頷いた。
「それで……アリシア、だっけ? 君の話を聞かせてよ。どんな世界でどんな生活を送っていたの?」
生い立ちの話を繰り返すと、不思議と辛い経験から重苦しさが無くなっていくような気がする。口から出す度に軽くなるのだろうか。
しかし、話を聞く涼の顔はどんどんしかめっ面になっていった。
しばらく沈黙した後、涼は眉を顰めて呟いた。
「君はシンデレラだったんだな」
(またシンデレラ……そんなにこの世界では名の知れた有名人なのね)
アイはコクリと頷いた。
涼は頭をボリボリ掻きながらはぁーっと大きな溜息をついた。
「俺、いつも思ってたんだけどさ。正直、シンデレラって、王子様に助けてもらわなくても、自力で何とかできたんじゃね?」
涼の言葉の意味が分からず、アイは目をパチクリさせた。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情が面白かったのか、涼はぷっと噴き出した。
「だからさ、継母の苛めってスゲー理不尽じゃんか? 理不尽なことされたらさ、何かアクションを取った方がいいと思うんだ。逃げたり、戦ったり、助けを求めたり。そうじゃなくて、結局王子様頼りって他力本願すぎね?」
アイの目を真っ直ぐに見つめて涼は続ける。
「理不尽なことをされているのに、ただそれを我慢して飲み込むのは一番健全じゃないと思うんだよね。相手にだってそれが理不尽なことだって伝わらないじゃん?」
「そう……いうものでしょうか? この世界では皆さんそのようにお考えなのですか?」
「うーん。この世界では、みんな違う考え方があっていい、っていう考え方なんだ。みんなちがってみんないい、みたいな。金子みすゞって人の有名な詩なんだけど。だから、それは俺の考え方」
「私は、辛いことがあっても全部飲み込んで耐えるのが美徳だと、ずっとそう思ってきました」
「うん。それは立派なことだよ。でも、それでアリシアは幸せだった?」
「……幸せ?」
涼は肩をすくめた。
「君がそれで幸せだったんなら、別にそれでいいと思うよ。でも、君がそんな逆境で我慢するのは幸せじゃないって思ったって、悪いことじゃない。我慢する必要はないって思う」
「我慢する必要がない……?」
「ああ、自分の心を押し殺してまで我慢する必要はないと思う。嫌なことは嫌だって言ったっていいんだ」
(そんなこと、初めて言われた。そっか、嫌なことは嫌って言っていいんだ)
気がついたら頬が濡れていて、涼が焦り始めた。
「わ、わるい、何も知らないのにエラそうなこと言って……」
「ううん、ありがとう。嬉しかった。すごく、勉強になります、ありがとう……」
アイは首を振りながらポロポロと零れ落ちる涙を拭った。
「俺もできるだけフォローするからさ。困ったことがあったら何でも言ってこいよ」
涼は優しくアイの頭を撫でた。




