☆8 悪女と新しい住人
しばらく馬車を走らせて、ようやく俺たちは市街へと出た。
「ジークシオン様! 僕たちはどこに向かっているんですか?」
「ついて来れば分かる」
俺が向かったのは、馴染みの店だった。
どことなく古風な外観の高級店。父に連れられて、何度も出入りしたことがあった。
「洋品店……?」
呆気にとられ、リリーは口を開けている。
「いくぞ」
さっさと中に入ると、ドアベルが軽やかに鳴った。
店内には、色とりどりのドレスやワンピース、衣装が飾られている。その中で、しずじすとかしこまった店員に促され、俺たちはその空間へと足を踏み入れた。
「まあ、ノクターン家のお坊ちゃま。それと、なんてお美しいお嬢様なのでしょう!」
馴染みの店員の声に、リリーはびくっと身を竦めた。
「ぼ、僕のことが女だって分かるのですか?」
「ええ! こんなに麗しいお方を間違えなどするものですか」
困り顔の彼女は俺の後ろへと後ずさり、店員の前から隠れようとする。密やかな声で俺に対し抗議の言葉を紡いだ。
「ジークシオン様、一体どのような酔狂なお考えで僕をこの店に連れてきたんですか? 僕がこういうドレスの類に興味がないことはご存じのことでしょう」
「そうか? 俺にはそうとは思えないが」
「え?」
俺はリリーの肩を掴み、にっこりと笑った。
「思うに、お前は何事にも諦めばかりだ」
「……僕が?」
「婚約においても、いつも勝手に世を儚んで遠いところへと逃げようとする。試しもせずに、似合いそうもないと決めつけて、お前が女らしい装いをすることを諦めてしまうのは些か勿体ないと思うのだ」
「僕が意気地なしとでもいうのですか!」
「そうだな、そういう表現をしてもいいかもしれぬ」
俺の挑発に、リリーは明らかなふくれっ面となった。わなわなと身体を震わせ、何がしかの決意を秘めた目で店員に宣言をする。
「分かりました、これでも着なれない女性服への抵抗があることは事実ですが、僕も男らしく着せ替え人形などをやってやろうではないですか!」
「それではこちらへお越しくださいませ!」
睨みつけてくる少女へ、俺は笑顔で返す。すると、ツンと明後日を向かれた。こういう態度をとられるのもそれはそれで愛らしい。
俺は、手持ち無沙汰になりながらも椅子に腰かけて彼女の着替えを待った。ライトの中で揺らめく蝋燭を眺めながら、置いてあった新聞などを手に取ってみる。
先代の聖女はとっくに崩御し、教会の権威は落ちていくばかりだ。発明された水蒸気機関や機械は様々な奇跡を忘れさせ、神への信仰を信じない者も少しずつ増えている。
俺だって実際に経験しなければ機械文明によって平民の力がこれほどまでに強くなっていくとは思わなかったろう。貴族という青い血の立場もまた、変革されようとしているのだろうか……。
そのようなことを考えていると、試着室から裕福な町娘らしいワンピースを身にまとったリリーが現れた。何の気なしにそれを視界に入れ、その素晴らしさに俺は言葉を失う。
普段使いに良さそうな白と青色の軽やかなワンピース。見るものが見れば判る贅沢にあしらわれた繊細な手編みのレースは清純な彼女の魅力をかきたて、晴れた空色の生地は滑らかな肌によく映えた。鍛えられた手足や腰は折れそうなほどに細く、スカートは花のように膨らんでいる。
まるで朝露の妖精が具現したかのようだ。言葉もなく、俺が彼女の美しさに呑まれているとリリーは恥ずかしそうに試着室のカーテンへ逃げようとする。
「待て、どうしてここで逃げるんだ」
「いいのです、私なんか似合わないって分かっているのですから」
「誰もそんなことは……云ってないだろう」
「だってジークシオン様も絶句していたではありませんか!」
「自己評価が低すぎるぞ!」
涙目でリリーがこちらを向く。
そんな彼女の姿に俺の心臓が脈拍を早くする。思わず赤くなりそうになった顔を取り繕いながら、俺は絞り出すように云った。
「悪く……ない。正直、お前の姿恰好など誰もそこまで興味を持っていない。自分の着たい服を着ればいい」
「酷い!」
本当は、誰よりも可愛らしいと伝える予定だった。忌々しい呪いがまるで俺を人でなしのように演出してくれる。
「ということだ、この服は貰っていこうと思う。一緒に何枚かドレスをオーダーさせてくれ」
「かしこまりました」
俺と店員の会話に、リリーがぎょっとした表情になる。
「そんな、高価なドレスなんて一度に買えません……」
リリーの審美眼は間違っていない。
ここの店は王都で修行してきた屈指の針子のいる名店だ。よほどの家の令嬢でなければ気軽に来て散財することはできまい。
だが、それは普通だったらの話だ。これぐらいの買い物で揺らぐようなノクターン公爵家ではない。
「お前は俺をなんだと思っているんだ。この程度の贈り物もできないような男だと?」
「だ、だって……」
「今日のデートの記念だ」
さらりと返すとリリーが驚きに目を見張った。
……ん?
今、何か妙な言葉を自分が吐いたような。
お針子のいる洋品店の次は、髪結い師の下へ。着飾ったリリーを連れて、街中の雑貨店をぐるりと回った。
幼い弟への誕生日のプレゼントには、ふかふかのテディベア。
町娘に人気の喫茶店で甘いケーキ。マティルダの土産もついでに買って、ここだけで終われば最高の一日だった。
「ジークシオン様、本当に、僕なんかでいいんですか?」
女の子らしい町娘姿のリリーの気弱な言葉に、俺は応えた。
「逆に聞くが、お前は俺でいいのか?」
恐ろしいことを聞いたものだと思う。
だが、この問いかけに紅茶を飲んでいた少女はそっと俯く。ああ、この姿だけで分かった。自分は彼女に好かれていないという事実。
いくら贈り物をしようと、素敵なデートを提案しようと、罪深きこの身が今更許されることはない。
だからこそ、答えのない無言が痛いほどに胸に刺さった。
だが、会話はこれ以上続かなかった。外に出ようと席を立った時のことだ。路上から、リリーに向かって話しかけてきた女性がいた。
貴族のような身なりをしておきながら、少し薄汚れた風情もある女だった。
「まあ、あなたリリュカなの?」
リリーは息を呑んだ。
隣を見ると、青ざめた顔色の婚約者。俺はこの遭遇が歓迎されたものではないことを知る。
「隣に居るのは……」
「ジークシオン・ノクターンだ」
「ノクターンって、あの有名な公爵家の?」
女は、舌なめずりをするようにこちらを眺める。あまり愉快な視線ではなかった。
「そう、そう……リリュカ、あなたこんなお金持ちの貴族を捕まえたのね。似合わない女の格好をしてまで……」
「…………ちが、」
「そうだわ、貴女のお父様に、伝えてちょうだい。最近、生活が苦しくてお金がすっかり足りなくって……。まとめて借金を払わなくちゃいけないのよ。必要な分のお金を貸して貰えるのならそこのノクターン家の子どもでもいいわ」
「違う! ジークシオン様は僕には関係ない!」
リリュカの台詞は、予想外にこちらに痛みをもたらしてくる。
すっかり蒼白になった少女の危機を察知し、俺はリリーを庇う為二人の間へと割り込んだ。
「失礼、貴殿はリリュカ嬢とどのような繋がりですか?」
「私のこと? あら、リリュカったら貴方に教えていないの……」
かけた声に、にたりと笑った女は甘い声を出した。
「そうね、私はローズレッド家の関係者よ」
……関係者?
「……わないで」
「そうね、言わないわ。私達、とっても仲がいいのだから」
震えるリリュカの手を握り、女はくすくす笑う。
薄汚いネズミのような人間だ。心の綺麗なリリュカにはとても似合わない人種のこいつが、一体どのような関係だというのだろう。
「金銭的にお困りだということですが、どの程度ご入用で?」
「だ、ダメだジークシオン様!」
「俺は正直、これ以上リリュカの前に現れないと約束してもらえるのだったら、少しばかりの金額を渡すことぐらい造作もない」
こちらの声に、女は濁った眼差しを見せる。
狂気を波乱だ、怪物のようだった。俺はこんな瞳を既に知っていた。抑えきれない、欲に取りつかれた者の目だ。前世の妻が似た眼差しで自分のことを眺めていたことを思い出し、不愉快な思いとなる。
そして、女は赤い紅を塗った唇で、こんな言葉を吐いた。
「リリュカ、あなた、この男の子に随分愛されているのね」
「そんなこと……!」
「ええ、ええ、よろしくてよ。今助けていただけるのであれば、私はお約束いたしますわ」
「ダメだ、この女にジークシオン様がそこまですることなんかない……っ」
金には困っていないが俺は少し判断に迷った。
だが、この場で金銭的な援助を申し出ない限り、この女が何をするか分からないという不定形の不安があったのだ。
断言するが、俺には人を見る目はない。
だが、ここでもし俺が金を支払えば、リリュカへの付きまといはノクターン家へのものへと変わるだろう。そうなれば彼女を守ることへも繋がるのではないか? そんな期待があったのは否めない。
適当な額をうんざりしながら俺は小切手を書く。そうして一枚破り、女の目の前へと放り投げてやった。
女は目の色を変えて磨かれた床に飛びつきそれを拾った。
俺はリリュカの手をとり、急いで紅茶と菓子の支払いを済ませるとその場から連れ去った。彼女は走りながら怒気を露にする。
「なんてことをしたんだ、君って人は……!」
「公爵家にとってははした金だ、大したことはない」
「そういう問題じゃない、あの女が約束を本当に守る人間だとでも思うのか!?」
「正直、思わないな」
けれど。
「これで俺も晴れて関係者だ」
清々しいほどの開き直りでのたまうと、リリーは呆気にとられ、その後に少しふくれっ面で笑った。
彼女からローズレッド家に纏わる詳しい事情を聴きだすことはしなかった。
誰にだって言いたくないことはある。必要なのは、リリーが救いを求めた時に頼れる自分であること、そうだって心に決めた。
早く大人になりたい。そうすれば、もっと彼女の為に生きることができる。
子どもの身体の自分はどこまでも足りないばかりで、もしもローズレッド家が彼女にとって居心地の悪い場所であるのなら、一日でもすぐにそこから攫ってやりたかった。
息を切るぐらいに急いで。早く、早く、遠いところまで行こう。
近頃のリリーは、恥ずかしそうにドレスを着る機会も増えた。ダンスパーティーで彼女の為にあつらえた特製のドレス姿を見たカーズの顔ときたら、写真に撮って残しておきたいくらいの呆け面だった。
かといって彼女は男装を辞めた訳でもない。今でもリリーの普段の装いはスボンの日の方が多い。そのバランスはまるで揺れ動く少女の心の天秤を示しているかのようで、俺はゆっくり見守ることにしている。
秋が過ぎて、冬がやって来て。
また次の春が訪れる。
「ジークシオン、お前の新しい従者だ」
久しぶりの呼び出し。そう言った父が連れてきた少年を見て、俺は驚きに息を呑んだ。
灰色の冷めた瞳に、錆色の髪をした執事服を着こんだ男子だ。どことなく気まぐれな猫のような雰囲気を放っている。
「この子の名前は、アラン・エドワーズ。今日からお前に仕えてもらうことになる。神殿で見つけた逸材でな! 頭もよさそうだし機転もきくから我が家で雇うことにしたのだ」
「……まさか、素性も知らない人間を拾ってきたのですか」
「いきなりマティルダを連れてきたお前がそれを云うのか」
父の台詞に、俺は言葉を詰まらせる。
動揺に胸がざわめく。
何故かと云えば、俺はこの少年の存在を何一つ知らなかったから。
その瞳も、髪の色も、雰囲気も、生い立ちも、仕草も、過去も、未来の姿も、態度も、性格も、雰囲気も、言葉遣いも、悪態も、こいつを構成する要素の全てを俺は知らない。
動揺してしまう。
――アラン・エドワーズ。
これから俺の側付きとなる少年。
全てが、謎でしかない。
まさか、俺は何か大事なことを忘れていたのか? いいや、違う。俺の記憶に損なわれている部分があるとは思えない。
知らず知らずのうちに沈没船に乗ってしまったような気持ちになっている俺を見て、アランはくすりと微笑ましそうに笑った。
その大人びた笑みに気が付き、俺は何か癪に障る。
「父上、残念ですが、俺にこんな従者は必要ありません」
「な、ジークシオン!」
「メイドならともかく、次期ノクターン家を継ぐ者の側近にするには素性の知れたものを雇うべきです」
「……お前は、この父に逆らうのか?」
俺はそう問いかけられ、歯ぎしりをした。
「たとえ父上でも、その通りです」
そう言い放つと、気まずい沈黙が室内を満たした。
すると、落ち着き払った声が聞こえる。
「発言をお許しください、公爵様」
「良い、許すぞ。アラン」
「確かに、ジークシオン様のおっしゃることは的を射ておられます。私には、ノクターン家で務められるほどの後ろ盾は何もございません。ですが、だからこそできることもあるのではないかと思うのです」
「なるほど、続けよ」
「私は少なくともこのお方が数奇な運命へ巻き込まれるであろうことを知っております。平民の事情に詳しい私という異分子が加わることによって、得られるものもあるのではないでしょうか」
「数奇な運命、確かにそうだ。ノクターン家の後継はありきたりの人生ではない」
俺はアランの言葉にぞっとする。
この少年は、一体どこまで事情を知っているのだ?
「……さて、どうだ? ジークシオン」
「……分かりました」
ここでアラン・エドワーズを追い出すことは悪手だ。
もしノクターン家から排除をしてしまえば、これから先のこの少年の行方が一切分からなくなってしまう。そうしてしまうのは余りに怖い。獅子身中の虫になるかもしれないが、それは俺次第だ。
「よろしくお願いします、高貴なお方」
全く、とんだ孤児だ。貴族への相手に慣れている。
「ああ、よろしく頼むよ」
自分の手のひらは嫌な汗をかいていた。