☆17 カレンデュラ
「ごきげんよう、公爵様」
今日はそこそこにポーカーで勝った。その銀貨を見せた馴染みの娼婦が蠱惑的な笑みで囁く。
「今日はゆっくりされていかないの?」
「残念ながら、それほど相手にできない」
ベッドの上で、二人で会話をした。
私は狂いかけた精神で夢中になって話す。自分のやけになった思いつきを、それらしく嘘で着飾った。
「あら、つまらない」
私の腕に指を滑らせていた娼婦は、あっさりとそれを離した。
彼女たちはこの夜の世界のカウンセラーだ。あらゆる事情に通じ、ちらつかせた金次第でそれらをひそやかに教えてくれる。
「……私は、リリーのために浮気をするぞ」
「そんな宣言をする時点で、それは浮気とは違うわよ」
ベッドの上で娼婦は、煙管に火をつける。独特の甘い香りが鼻をついた。
「恋ってのはね、気がついたら成っているものなの。そんな計算づくでヤるものじゃあないわ」
「アンタに言われると、腹が立つな」
キャッキャと笑われた。さぞかし愉快そうに笑うので、足でヒールを蹴とばしてやった。
扇のように、染められた髪がシーツの上で広がる。
その煽情的な唇に口づけた。
「……私が恋の何を知らないと思ってか」
「なにも知らないじゃない。正しく愛する喜びも、愛される歓喜も知らないくせに」
「アンタは経験があるっていうのか」
「この歳になると、いろんな過去があるのよ」
ふっと憂い気に煙を吐かれた。
「そうね、どうせなら、とんでもないクズな女とすればいいんじゃないかしら」
「どうして?」
「そうすれば、何故こんな女に夢中になるような男を愛していたのか、ご令嬢の側で軽蔑してくれるでしょ……」
娼婦は、顔を歪めて囁く。
「やめときなよ。ジークシオン様。貴方の心が持たないわ」
「忍耐はできる方だと思うんだが」
「そうね、それはなんとなく分かってるけど」
呆れ半分、同情半分で眺められる。
むせてしまうほどの香水の匂い。部屋中に充満した煙管の煙。頭の中がごったまぜにされる。
その甘い声が胸の内で反響した。
「意外と、貴方の気持ちは純愛なのよ」
――最初から知っている。
公爵家から取り寄せた見合いの写真をパラパラめくっても、心の琴線が触れる女はいなかった。
一般に女性と呼ばれる人間を観察しても成果はなかった。なんとなく抵抗感が先にあった。
踏み出すのが怖かった、今度こそ。なにかとんでもない過ちを犯してしまうような気がした。
思考が鈍くなっていった。とにかく、身体が重だるくなっていた。
前世に何が起こったのか。今では何故か思いだすことができない。リリュカの存在がただ眩しくて。彼女が人助けをして生きていく姿を遠くから眺めていた。
小さな花の声も。ネズミの囁きまで彼女は聞いていた。その度に嬉しそうにかんばせが綻ぶ。その光景がたまらなく好きだった。
君がこの世界を好きだというのなら、私は、どこまで落ちても構わない。
そんな心境で、穏やかに日々がすぎた。
ある日、彼女が小鳥の声を聴いて。驚いたようにこちらへ振り返った。その瞳に自分が映るのが怖くて、日陰に逃げていった。
動物たちから何を聴いたのか、恐ろしかった。
そうだ。リリーには異能があった。その力によって、余計な事情が明るみになっては全てがひっくり返ってしまう。
ほぞを嚙みながら廊下を歩いていると、誰かと肩が不意にぶつかった。
転倒しかけた少女を慌てて助ける。よろり、と傾いた女学生の顔が、美しい髪の間からのぞいた。
何かに鷲掴みにされたように心が囚われた。
こんなに綺麗な美少女は初めて見た。今まで何を見て生きてきたのだろう。まるでなにもかもが褪せたようだ。
奥底で、悲鳴のように頭が軋む。
ぼんやりとした意識。どうして。私は、なにを。
鼻孔に不思議な香りがした。そうだ。私は過去にもこの匂いを嗅いだ。
これは運命だ。
運命が二人を引き合わせた。
そうに違いない。
好きだ。愛している。先ほどまで何を考えていたのか分からない。忘却をしてしまった昔などどうでもいい。
……リリュカ。助けてくれ。
微かな意識が、遠くに消えていく。
私を捕らえた女学生が、薄く微笑んだ。天使のように、哂った。
「……ああ、なんて素敵な方だろう。愛おしい人。あなたはどなたですか?」
自我を失った私が夢中で訊ねると、彼女は告げた。
「カレンデュラ・スミス」
希代の悪女が囁いた。
「わたしの名前は、カレンデュラ。あなたの運命の相手」