序章
――ああ、俺はあと少しで死ぬ。
朦朧としている走馬灯。幼少期から大人になるまで。そこにはいつだって彼女の姿があった。
死の間際で今更、実は君のことが好きだったことに気が付いたと云ったら、この運命を支配している神には呆れられてしまうだろうか。
彼女と出会ったのは幼少のみぎり。齢十で両家は婚約を結んだ。
少年だった自分は、君にとって褒められた婚約者ではなかった。望んでもいない結びつきを厭い、嫌々会っては無関心を装った。
淡々とした日々。うんざりしながらも、貴女はそんな俺の隣に居続けた。
高等部。学生だったあの日、婚約者だった彼女を断罪し、俺は自分の意志で生粋の悪女のカレンを選んだ。その行いを後からどれだけ悔やんだところで最早取り返しなんかつかない。
傍観する生徒の真ん中で泣いていた君との婚約を解消して、絶望の深い谷に突き落としたことへの後味の悪さ。それを人生の終わりに近づいた今――ようやく当時の自分の罪深さを自覚している。
俺と彼女は婚約者といったってお互い指先すらも触れたことない仲で、その綺麗な亜麻色の髪はいくつもの季節をを通り過ぎていくだけで。
いつだって彼女はお綺麗なことしか言わなかった。貴族としての責任。力を持つ者への在り方。治めることになる民への愛。
その一欠片でいいから、自分の中に残っていれば良かった。
そうであったなら、こうして積もり積もった俺への恨みを買った民衆によって……みすぼらしく殺されることもなかったはずだ。
……清廉な後ろ姿。
記憶にある君は、いつだって背筋をまっすぐに伸ばしていた。凛とした眼差しを皆に向けていた。
俺との婚約を解消した後、カレンを虐げたといわれのない罪を問われた君は、遠い北の大地に追放された。おかしな話だ。たかが庶民出の学生を苛めた程度で貴族の子女がそんな重い罪を着せられるだなんて普通はあり得ない。
あの頃の学院は誰もが彼女の敵になった。正義を体現しているはずの彼女こそが黒の魔女だと糾弾の声が多くあった。それだけのことをしたのだろうと、俺は君の言葉に耳を貸さず容易く見捨てた。
どうして彼女の味方をしなかったのだろう。何故俺は、あんな悪女に心を許したのだろう。
後悔が募っても、もう遅い。
何もかもが……。
追放先の修道院に入ってしばらくして、君は原因不明の死を遂げた。
皆は彼女が自ら命を絶ったのだと囁いた。
悪事とはどこまでも離れた純白の百合の花のようであった君を、俺の短慮が自殺に追いやった。
カレンを選んでからの俺は、どこまでも愚かな男で。カレンデュラに求められるままに民を虐げ、意見する者の声を聞かず、自分勝手な振る舞いを続けた。
一緒になったカレンデュラとの生活は楽しいものではなかった。あの女の興味のあるものは、侍らせた男の持つ富と権力だけだった。
やっと正気に返ったのが死ぬ間際だなんて、どれほど己は救いがたい馬鹿だったのだろう。
妻として選んだカレンはとっくに殺されている。そのことに対しての感情も、今は希薄だ。夫である俺は革命派の民衆によって致命傷を負わされ、あと余命幾ばくもない状態だ。
……ただ、願わくばもう一度君に会いたい。
どんな形でもいい。贅沢なんて言わない。君に愛されたいとまでは願わない。
「……リリー」
ジークシオン・ノクターンは虚ろになった瞳を閉じる。
一筋の涙が溢れる。
やがて、虚無の暗闇が世界を包んだ。