日常と常識と1
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アスコット家の両親にも記憶喪失になってしまったことを話し、驚いた顔をしつつもその子供たちでと変わらぬ暖かな様子で受け入れてもらってから、二ヶ月。
凪はこの新しい生活に大分慣れていた。
「記憶を失ってても、ナナギはナナギだね」
ネイヴァンに嬉しそうに笑われてしまうくらいに、行動や言動はあまり変わらないらしい。
ただ、料理を手伝うと凪が言ったときは、とても驚かれた。
料理に関する仕事に就くことも考えていると告げると納得されたが、
「料理は女性の大事な仕事なのよ。女の仕事を取る男は嫌われるから、結婚したらお嫁さんにそんなことを言ってはダメだからね」
アスコット家の女主のアーシアには口を酸っぱくして忠告された。
手伝いを申し出て喜んでもらえるどころか叱られて、凪はびっくりしたものだ。
アーシアは凪からしてみるとかなり小柄な成人女性だ。十三歳ていどの少年(?)のネイヴァンよりも、10センチくらい背が高いくらいしかない。でも、この地域の女性からしてみると、十分平均値。似たような身長の女性は村に多くいた。
ファクトの髪質はきっと母親譲りなのだろうと思わせる、癖のあるダークブラウンの長い髪を後頭部でひとつにまとめている。瞳はファクトと同じく藍色で、やわらかい女性らしい顔立ちの持ち主だ。
手に職を持って一家を支えるてきぱきとした職人肌の女性で、毎日の料理がとても美味しい。凪は日々の食事が楽しみだった。
ウルティアマ地域の常識として、料理のできない女は結婚できないという仕来りがある。
豊かな気候は、その地域に住むほとんどの者を食うに困らない生活を与えてくれる。朝起きてから夜まで働くような、過酷な生活とは無縁で、基本的に民には生活に余裕がある。
その時間の余裕はウルティアマ地域に豊かな食文化を生み、家庭の食を預かる女たちの食への追求へと誘った。
日本にもあったソースやマヨネーズなどの調味料類を作る知識が当たり前のように普及していて、奥様方は空き時間があれば台所にこもっては丁寧に時間がかかる食事を作って家族に提供する。
料理は女の仕事、料理は女の誇り、料理ができない女は妻になれず、という不文律がいつしかまかり通り、法律として記されているわけでもないのに、一定以上の出来の料理ができない女性は自身の母親から結婚が許されなくなった。たとえ母親の目を盗んで思い合う相手ができても相手の母親に一切許してもらえず、周囲の目も非常に厳しいものとなる。
この地域ほほとんどの場所で、各集落ごとに半年に一度、料理試験が開催され将来の花嫁になる資格があるかどうか試される。
一度落ちても再試験は可能で、十歳から十二歳くらいになると試験を受け始める。ちなみに、この村で今なお合格できずに居残っているのは最年長は二十一歳。手に職持っている女性は二十五ぐらいまで嫁に行かないこともあるので、行き遅れているわけではないが、本人も両親も焦っているとのことだ。
王侯貴族であろうと女性には料理試験があるというのだから驚きだ。上流階級の場合は料理試験で不合格となっても結婚できないわけではないが、社交界で相当バカにされるらしい。
ちなみに上流階級の料理試験のチャンスは一回のみ、だとか。
体調が悪かった、だとか身内が倒れて気もそぞろになってしまっただとか、理由があったなら再挑戦も可能なようだが、それでも料理技能の落第の烙印がひとつつくことは不貞を疑わられる以上に不名誉なことだとか。
料理をまともに作れない令嬢を育てたことをその家は論われるし、そんな娘をもらいたくもないので貰い手は減る。幼少の頃から婚約していたとしても、一方的な婚約破棄も当然のごとくまかりとってしまうとか。
料理試験に落ちる女は貴族であれど、貴族にあらず。そんな風潮があって試験に合格できなかった令嬢はプライバシーなどなく、下々の元まで情報が晒される。
本来であれば平民が貴族に対して雑言など向けてはならないのだが、料理試験に落ちるような女が悪いとばかりに、憲兵の前だろうが平然と嘲笑われて話のタネにされる。そういったことが許されている社会なのだ。
しかしながら、女は家庭に入って料理だけ作っていればいい、という前時代的な頭の固い考えがあるわけではない。
この村で家事以外の仕事をする女性は多いわけではないが、けっこういる。
これが大きい街になると、結婚して子供を設けてからも働く女性は更に多くなるらしい。
アスコット家のアーシアも、村随一の織物職人として家計を支える素晴らしい作品を作り、時折その技を他者に教えるべく教育している。
手間暇かけて作られる美味しい料理と、日頃の家事と、子育てと、一家を支える稼ぎと……
手が足りないように思えるが、この世界には『スキル』というものが存在する。
アーシアは織物スキルにより、地球であれば月単位の長い時間がかかりそうな大きな敷物が二日ほどで完成してしまう。
そして、丁寧な作業をにかかる時間をありえぬ速度で解決してしまう料理スキルというものが存在してしまっているのだ。
アーシアが包丁を持った瞬間料理漫画もかくやと言うべき早業で全ての素材を切り終えたとき、凪はつい「師匠……すげえっす……」と錯乱してわけのわからないこと漏らしていた。
下ごしらえの速さも目が追いつかない。
「え? え?」
嘆息しか漏れず、初めて台所に共に立った覚醒初日、凪は手伝うどころか邪魔にしかならない足手まといだった。
つい、鑑定能力の閲覧範囲を限定して覗き見てしまったアーシアの料理スキルは彼女の持つ料理の才能の限界まで上げられた8。
異世界を舞台にした料理漫画にでも迷い込んでしまったのかと呆然とするほど、調理は圧倒的な光景で出来上がった料理は劇的に美味かった。
凪は最大で15まで上げられるが、もしも最大まで上がったらどうなるのだろうかと考える。背後に龍でも背負ってしまうのだろうか。
ほとんどの家に女の人がいて料理をつくってくれる小さな村では料理人の需要は少ないが、街に行けばそれなりに働き口はあるらしい。
若さにかまけて夢を追い、冒険者ギルドに所属して一攫千金を狙うことより、よっぽど現実的で安全だとアスコット家の両親からは凪の将来の希望を応援されている。
ナナギであった頃は、冒険者になって金を稼ぐと豪語していたらしい。
「ちぇー、冒険者になったナナギと兄ちゃんの英雄譚期待してたのになー」
「すみません」
「何を言っているんだ、ファクト。そう簡単に英雄になんかなれないんだからね。危険に足を踏み入れずにすむのなら、そのほうがいいんだから」
ファクトの絵空事のような希望を嗜めるネイヴァンだが、彼は冒険者になるという。
両親が村に農地を持っているのならば農民にでもなれたのだろうが、彼らは流れ者だ。この村で借り受けているのは住居部分だけだ。先祖代々受け継いだ農地なんて持たない。
父親がなんらかの技術を持つ職人であればそれを継いだのだろうが、ネイヴァンの父は芸術家。あとを継げるようなものではない。
ネイヴァンの中にある才能を考えると芸術家は向いている職業なのだが、好きこそ物の上手なれという言葉がある通り、芸術方面に進みたいと思っていない彼は、それらのスキルが伸びていない。
特に自分のやりたいことや、向いている仕事も思いつかないので、職に就けない成人が手っ取り早く所属できる組織『冒険者ギルド』に所属するつもりだと言う。
成人した子供がすぐに就けるような仕事がなかった場合、冒険者ギルドに所属することはこの世界では特に珍しくもない流れなのだ。
『魔物を狩って金を稼ぐ』というその日暮らしの生活費を稼ぐ目的もあるが、『冒険者ギルドで街中中心の依頼を受けて、いろんなところに顔を売って気に入られて、就職』のを大目標にして依頼をこなしてせっせと稼ぐものも多い。
魔物を狩って金を稼ぎ、稼いだ金で装備を揃えてダンジョンに入り一攫千金を掴むことを夢とする冒険者も多々いるが、ネイヴァンはリアリストなのかそういった夢はないらしかった。
将来に関して漠然とした展望しかもっていない兄のネイヴァンとは違い、ファクトにはしっかりとした目標がある。
学校の受験が可能になる十歳になるまでにしっかりと学力を身につけて、町の学校に合格し、卒業後は神殿に就職したいのだという。
「図書館のおじさんみたいに、俺も神殿で働くんだ! 図書館で毎日本が読めるぞ」
幼い少年らしい、実に下心満載の就職動機だ。
ケーキが毎日食べたいからケーキ屋さんになりたい、というのと似たような、じつに可愛らしいものである。
「図書館の司書や資料室の職員なら、神官にならなくても神殿で働けるからね」
ネイヴァンは勉強を頑張るファクトの頭を撫でた。
兄として、弟の頑張りを応援しているのだ。趣味半分、勉強半分のための読書の金策のスライム叩きに、まだ小さいファクトを連れて行ってあげているのは、その夢への協力のひとつ。
「神官になるための神学校は学費が高いんですよね」
町の学校は日本と同じく公立で、学費はかからない。遠方から入学する生徒のために寄宿舎がある。その使用も、国が負担する。
だが、神学校は入学金や学費がかかる。庶民では手の届かないかなりの額が必要だと聞いたことがある。
ナナギは聞き齧った知識を口にした。
「学費もそうだけど、神殿に対する寄付金もかかるんだ。神学校はお金持ちのための学校みたいなものだから。町の学校とは違って、学力が達していても、寄附金の額で入学の可否が決まるんだって」
寄附金、私立の学校のようなものだろうとナナギは予想した。
「はあ、神様に仕える神官を育てるための学校でも、いろいろ世知辛いんですか」
異世界でも現実でも、学業には金がかかる。
なかなか厳しい。