4 もしかして、異世界転生……?
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ナナギ少年のざっくりとした身の上話を聞いた。
ナナギの住んでいた海沿いの村は『厄族』なるいかにもゲームや漫画世界にでもいそうな邪悪な存在によって滅ぼされていて、いまはもうなくなったようだ。
正しく、他人事だ。
それでどういった訳か、海から遠く離れているこの村付近にひとり倒れていたのを、アスコット兄弟に発見・保護され、今に至っている。
助けられた時にとっても大事な秘密の共有と約束をかわしたようなのだが……一切思い出せない。
当然だ、自分は柳凪という成人した男性で、異世界で生まれた少年ナナギではないのだから。
秘密と約束は教えてはくれないらしい。
「ちゃんと思い出さないとダメだからな!」
凪に向かってファクトはぷくっと頬を膨らませた。
「あの時のことは覚えていないのなら、忘れてしまったほうがいいことかもしれないね。でも、それ以外のことは思い出してくれると嬉しいな」
その出来事は三ヶ月ほど前のことで、ナナギは本当の家族のようにアスコット家で仲良く暮らしているとのこと。
今日は兄弟とともに『スライム叩き』という子供たちにとって常識的な小遣い稼ぎをしていたそうだ。
そこでナナギはスライムの強襲にあった。勢いよく飛び跳ねたスライムが、まともに頭にぶつかったのだ。
「盾を構えるタイミングが遅かったんだよ……あ、盾! 剣! 持ってきたかいファクト?」
「ああ、そうだ! ナナギが倒れたからそれに気が取られて……剣を取りに言ってくるぞ!」
盾とか剣とかいかにもな単語が当然のように飛び交う。
それによって、凪の中にあった平常心を保つための限界の許容範囲がついに超えた。
慌てた様子で外に出て行く二人を追いかけることもせず、小さな子供たちの背を疲れた顔で黙って見送る。
(ファンタジー世界だあ……異世界転生とか、そういうジャンルのアニメは友達に勧められてちょっとは見ていたけど、いや、これは夢だろ……夢であってくれ)
今までの自分ではない何かになりたい、とか今から逃げ出したい、なんて強く願ったことのない凪は、この状況がとてつもなく居心地が悪く、また羞恥も湧いてくる。
いい大人が「これは異世界転生!」なんて言葉を頭の中で構築するのは非常に恥ずかしい。
現実離れした状況は、安っぽい三流ファンタジーの物語のようだ。
これが夢だとしたら、自分はこんなふうに違う世界飛び立ちたいなどという子供っぽい願いを、知らぬうちに秘めていたのだろうかと己に落胆する。
凪は現実から剥離した『今』に険しくなる眉間を揉んだ。
(はは、あのアニメの主人公みたいに、ステータス! とか鑑定! とか頭の中で念じたら見えたりして……)
現実逃避のようにそんなたわ言を心中でぶつぶつと呟いていたら、
『木製の洗礼札:加工しやすいサガの木で作られた木製の洗礼札。平民用』
テーブルに置かれた洗礼札の前に、透明なウィンドウのようなものが現れて、そんな説明文が出てきた。
「う、わ!」
びっくりして体が跳ねる。
テーブルを蹴ってしまった。
(夢だ。これが現実なわけがないな。こんな非常識でチープなことが現実で起こりうるはずがない。俺は夢の中にいる! 明晰夢ってやつだ! 異世界転生とやらは死んだ自覚があったけど、俺は自分が死んだ自覚なんてないしな。記憶にだって、ないだろ、ないはず)
凪の中にある最新の現実の記憶は、会社の仲のいいメンバーと飲みにいき、酔ったギャル系女子に相変わらずナギナギ呼ばわりされてしなだれかかられた記憶だ。
ひゅーひゅーとわざとらしく囃されて、これからホテル〜? と下品に煽られた。
「ホテルよりも私の家に来なよ!」なんて酔っ払った女の子が返すものだから、冗談ではすまない本気の雰囲気に、周りが驚きでどよめいたものだ。
凪はありがたくお持ち帰りした。彼とて健全な男であり、また酔っていた。
恋人もいなかったし、腕に押し付けられた胸の感触に正直悪い気はしなかった。男の本能は素直だった。
多少、顔の出来が悪いのは、底抜けの明るさと人当たりのよさや、ギャル系なばっちり化粧の見た目を裏切る仕事に対して真面目な性格で相殺できるものだ。
彼女のスタイル抜群でなくても、むっちりとふくよかな体つきは正直凪好みだった。きゅっとくびれたウエストよりも、下着にちょっと食い込んで盛り上がる肉の質感が好きだったりする。
酒のせいでおぼろげな記憶をゆっくりと辿っていく。
二次会には参加せず、二人だけで抜けた。このまま付き合っちゃう? なんて笑いながら腕を組んでべったりして歩いた。
酒がやや抜けてきていて、このままだと酒の勢いでは済ませられないよなあ、と心の中のふんどしを締めなおして気合を入れ直す。
せっかくだから部屋についたらちゃんと口説きなおそう、そんな前向きな気分で歩いていると、名前を呼ばれた。
「柳さん、清水ちゃん」
振り返ると、飲み会にもいた、ちょっと地味目な女の子がいた。
凪の平坦な人生の中でお目にかかったことのない、尋常ではない怒りを向けてきていて、二人で挙動不審にたじろぐ。
反射的にギャル女清水きよを背中に庇い、「どうしたの、何かあった」と地味女田中聖子に時間稼ぎに問うてみた。
「ずるい……」
うつむきがちに、彼女はピンクのバックを漁った。何かをごそごそと探している。
「ずるいよ、私のほうが先に好きだったのに……!」
悪い予感が当たり、彼女が取り出したのは包丁だった。
震える両手で包丁を握り、むき出しの刃をこちらに向けてくる。
ギャル女清水の悲鳴が背後であがった。
「田中さん!」
「逃げて! 清水さん!」
振り返って、清水を逃げるように促したのがまずかったのかもしれない。
視線を外した隙に田中が突進してきていた。
「私のほうが清水ちゃんのこと、好きだもん!」
そっちかよ!? と状況も忘れてびっくりして心の中で突っ込んだのを優先してしまったのも悪かった。
凪は田中の動きに一切反応できなかった。
(え……ええええ!?)
そこから先の記憶はない。
死んだ記憶も自覚もないが、凪が無事ですんだのか自信もない。
「ははは」
目眩がして、テーブルによろりと体を預けるように倒れ込み項垂れた。
(集中治療中に見てる、夢なのかも。俺はきっと、現実世界では病院で眠ってるんだ。これは……)
凪の中にある常識に則った現状の理由を推察する。
しかし、どれだけ夢だと思い込みたくても、悪い予感が凪に囁く。
もしかしてこれは、異世界転生というものなのだろうか。