2 神様
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柳凪はとりたてて特徴もない、どこにでもいる男だった。
名前に関してはなんでこんな韻を踏んだのかと何度か両親を責めたくなったときはあったが、宇宙神とかいてフリーザと読むとんでもないキラキラネームの同級生に比べればはるかにましだな、と文句を飲み込んで生きてきた。
「ナギナギー」などと職場のギャル系女子に変なあだ名をつけられても、聞き流してことを構えることなく、社会人として真面目に働いてきた。
大学に行かせてもらい資格を取れたのが幸いし、会社でもそれなりに成果をあげて生きてきた。
仲のいい友人とていた。誰かに強く恨まれるようなことをした記憶もない。
誰に恥じることも責められることもない、真っ当な生き方をしていたはずだ。
こんな非現実的な目にあうようないわれはない。
「ナナギ、もしかしてさっきの衝撃でまた記憶喪失になってしまったの?」
(また? 俺は以前も似たようなことを言ったのか?)
呆然とした面持ちで吐き出した凪の言葉に、少年は大きく目を見張った。
薄紅色の睫毛で縁取られた青灰色の瞳が、動揺で揺れている。
「俺たちのこと忘れちゃったのかよ」
男の子が悲しそうに上目遣いに見上げてきた。
凪とてよくわからない現象に巻き込まれた被害者の心地なのだが、そんな風に見つめられるとこちらが悪いわけでもないのに罪悪感が湧き上がる。
「すみません。俺にとって、二人のことも初めて会った子にしか見えないんです」
少年は凪に痛ましい目を向ける。
男の子は傷ついた様相で唇をへの字に曲げ、うつむいてしまった。
「ここで話していたら、スライムが出て危ないからね。移動しようか」
少年が凪と男の子を促す。
(スライムが出る? 野生動物みたいに言うのな。もしかしてスライムってどろっとした玩具のスライムじゃなくて、ゲームに出てくるような生き物のスライム?)
察してしまった言葉の違和感の正体に、凪の心臓は早くなる。魔法という言葉だとか、服装だとか、そのうえ今までの自分の常識で計れない全く別の場所に、他人の体で放り出されてしまったことに意識が遠くなる。
「君にこうやって挨拶をするのはすごく違和感があるけれど、ええと、ナナギは僕たちの名前も忘れてしまったんだもんね。僕はネイヴァン、この子は弟のファクト。君にとっては初めまして、になるのかな?」
「初めまして、ですね。でも、なんでだろう。本当にほんの少しだけ、お二人のことを知っている気がします」
ネイヴァンと名乗った少年はぱちりと目を大きく開くと、すぐに破顔した。
「スライムがぶつかった衝撃で、少しの間だけ記憶が飛んでいるだけかもしれない。きっと、すぐに記憶を思い出せるよ」
「ちゃんと思い出すんだぞ、ナナギ。俺たちはいっぱい遊んだし、いっぱい約束もしてるんだからな!」
ファクトは目尻に涙をためて訴えた。
「確約は出来ませんが……ええと、善処します」
畑が広がる農耕地帯とおぼしき倒れていた場所から、建物がある居住地域にやってきた。
建物同士が密集していることはなく、柵で区切られたそれぞれの敷地は余裕を持った距離がある。
ほとんどが庭付きの一戸建てだった。二階建は凪が見る限り一番大きな建物以外見当たらない。
庭は花壇にしたり、小さな畑があったり、手作り感満載の子供の遊具があったりと、家によって様々だ。
中には石像が敷地中に敷き詰められている家もあったりする。
日本のお地蔵様のような大きさをした荒い作りの石像で、宗教的な何かなのだろうかと凪は思った。不思議そうな顔をしているとネイヴァン少年は笑った。
「初めてあれを見た時も、ナナギはそんな顔をしていたね。
あそこはスーリャ爺さんのお家なんだ。スーリャ爺さんは信仰熱心だからね。ああやって神の像を自分で造って祀ってるんだ。
花で作った王冠をかぶった一番大きな像が、この地方を守るウルティアマの神々の主神、統一の神ポポルの像なんだって。分かりにくいだろう?」
石像は乱立しているが、生花で作られた花冠をかぶった大きな像は目立った。その像を中心にしてたくさんの小さな石像が並んでいた。
その石像たちのひとかたまりの反対側にはポポルとかいう像よりもやや小さめな像が十体ある。
その十体のうちのひとつの像だけ、それを囲むようにさらにちいさい七体の石像が並んでいた。
「統一神ポポル?」
ギリシャ神話とかケルト神話とかでは聞いたことのない馴染みのない名前だ。
でも、なんとなくその名前を口にすると、さきほどネイヴァンに対して抱いた感情と似たようなものを抱く。
敬虔な意識とでも言うのか、それは敬うべき者であるという畏れが頭の中に詰まった凪の記憶ではなく、ナナギと呼ばれているこの体に染み付いている気がする。
「前の記憶喪失のときは統一の神や死の神のことは覚えていたみたいだけど、もしかして今のナナギは神様の名前も忘れてしまったかな?」
「覚えてないです……でも、その統一の神という神様のことは、きっと信仰していたんだな、っていう感覚が残ってます。俺はその神様にお祈りをしていたんですか?」
ネイヴァンとファクトは鳩が豆鉄砲を食ったような様子で首を振る。
「ナナギは西海地域を加護する死の神を信仰していたよ。君は海沿いの村に生まれて育ったんだ。西海沿いに生まれる人は、生まれた地域の神ではなくて、生活の基盤となる海に関わる死の神様を信仰するひと多いらしいよ。ナナギの洗礼札も死の神の神殿が発行していたから間違いないよ。だから、うちで住むようになってからも、ナナギは死の神を信仰していたんだ」
「この辺りには死の神の神殿がないから、たまにスーリャ爺さんのところにある石像に花を供えていたんだぞ。あれだ」
ファクトは指し示したのは、多分コップのようなものを抱えている像だった。
顎の辺りがその像だけやたらと尖っているので、もしかしたらあれは髭を表現しているのかもしれない。
その像の足元には、その辺の野原で摘んできたような花が置いてあった。
「ええ~。俺の勘違いですか。なんだか恥ずかしいな」
自分の中に湧き上がった感覚とは全然違う事実に、凪は愕然とした。
宗教にうるさくない日本に育ち無神論者だった凪の中にある、この『主に従うことこそ幸』という気持ちは一体なんだというのだろう。凪には全く馴染みのない意識だから、これはきっとナナギと呼ばれる者の抱いていた感情の名残だと思ったのだが。
「死の神の名前も覚えていないの? 以前のナナギは自分自身のことは忘れていても、それ以外のことは覚えていたけれど」
「覚えていないですね。ちなみに死の神様はなんて言うんですか?」
この世界で暮らした記憶など一切ないのだから、凪が覚えているものなど何ひとつない。
「死の神メイビス。エゲリータの神々を統べる神だよ」
「死の神メイビス……エゲリータの神々?」
ゲームの登場人物の名前でも口にするような無感動で、馴染みのない名称。
それらは凪にとって、乾いた風が通り過ぎていくようにとても遠いものだった。
「統一の神様みたいに湧き上がってくるものがない、です」
「まあ、ナナギは死の神に対して特に信仰熱心なわけではなかったみたいだし……本当は改宗したかったのかなあ。言ってくれれば、改宗のための準備だってお父さんとお母さんはしてくれたと思うけれど、きっと遠慮してたんだろうね」
「ナナギもウルマティアの神々を信仰するのか? 俺たちと洗礼札がおんなじになるな!」
ファクトが明るく言った。
凪にとっては何がどういうことなのかさっぱりわからない状況で、ネイヴァンとファクトだけが訳知り顔で頷いている。
「ええ、と。改宗がどうのとか、なんだとかついていけないことがいろいろあるんですが、先ほどからたまに出てくる洗礼札というのは一体なんなのでしょうか?」
兄弟はびっくりした表情で顔を見合わせる。
「そんなことも忘れてしまったの!?」
「そんなことも忘れちゃったのかよ!?」