1 柳凪
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目を覚ますと子供が二人、こちらを心配そうに覗き込んでいた。
(知らない子供?)
二人の向こう側には雲ひとつない蒼天が見えた。
現状を確認する。
どうやら、自分は真昼間の屋外に倒れているようだ。
意識が覚醒した途端に、釘を打ちつけられているかのようにずきずきと頭が痛むのを自覚する。
状況から察するに、頭を強く打つなどして気絶していたのだろう。
頭をぶつけたのならば、急に動くのは危険だ。
動かせる範囲でゆっくりと首を動かして、周囲を確認する。
現在、自身に見覚えなど一切ない、あぜ道に倒れている。
道沿いには豆科の植物とおぼしきものが植えられた畑があり、すこし視線を奥にやると鬱蒼とした森が見えた。
森の反対側の遠く、なだらかな平地部には煉瓦造りの家が立ち並んでいる。
橙色の華やかな屋根が目立つ大きい造りの建物など、ヨーロッパにでもありそうなどこかの観光施設のようだった。
並び立つ家々のさらに遠くには丘があり、ギリシャ神話の絵画で見るような威容を誇る神殿がそびえ建っていた。
住み慣れた場所とは程遠い馴染みがない光景。
ここは一体どこなのだろう。
街灯ひとつ見当たらないような田舎を訪れた記憶はない。
(頭をぶつけたせいで短期の記憶喪失でもおきたのか? 俺は海外に観光旅行中だった?)
考えていると、自分を見下ろしていた見慣れない外国人の子供のひとりが、ほっとした様子で口を開く。
「よかった。目が覚めたんだね、ナナギ。跳ねたスライムが思い切りナナギの頭にぶつかったんだ。覚えてるかい?」
癖のない薄紅色の髪をうなじのあたりでボブカットにしたタレ目の十歳くらいの……たぶん、男の子だ。
このくらいの子供は中性的な綺麗な顔立ちをしていると性別があやふやだが、ズボンをはいているから、きっと少年のはず。
穏やかそうとか、優しそうとかよりも左目の下にある泣き黒子と肉が厚めの桜色の唇により、幼いながら色っぽい容姿に見える。
(ナナギ? もしかして、俺のことか? 俺の名前は柳凪。似た音が重なってて外国人には発音しずらいとかか? 俺のことを知ってるのか。しかし流暢に日本語話せるな、この子。それとスライムって、あれか。おもちゃのスライム。固めたやつがスーパーボールみたいに思い切りぶつかったのか? そりゃ、痛いな)
こちらを知っているかのように話しかけてきた子供に対して気になったのは、なんというか古めかしい格好だ。
化学繊維を一切使ってないような天然繊維の生成りのTシャツっぽい上着と薄っぺらいズボン。
隣のちいさな男の子に至っては、ファンタジーゲームでモブ村人がよく着ているような貫頭衣をまとっている。
(海外の映画村にでも来てたのかなあ?)
「覚えてない、です」
二十五歳の凪がその半分も生きていないような初対面の子供に対して丁寧に返したのは、なんとなくそれが舌に馴染んだから。
それと、この少年に対して自然と頭が下がるような、逆らえないような、奇妙な感覚を覚える。
従うのが当然で、命令が下されないかと犬のように待ち焦がれる、今までの自分にはなかった陶酔に似た期待感。
意識を取り戻すまでの自分とは致命的に違うものになってしまったような訳のわからない状態に、凪は戸惑う。
それに、声が違う。
自分で話した自分の言葉なのに、喉の奥からでてきた声が全く聞き覚えのないものだった。
「大丈夫か、ナナギ? 神殿に行ったほうがいいか」
凪の困惑を怪我のせいだと感じったとおぼしき五歳くらいの男の子は、今にも泣きそうになっていて、ぎゅっと凪の服の裾を握ってくる。
こちらは確実に男の子だと凪は判断した。
癖のあるダークブラウンの髪はかなり短い。
もしも女の子だったら、こんなベリーショートの髪型にはしないだろう。
涙の幕を張った、藍色の瞳の三白眼が、横になる凪を健気に見つめてくる。
幼い子供に心配をかけてしまっている申し訳なさが募るが、同時に男の子の言葉に疑問を抱く。
(なんでこんなときに神殿なんて言葉が出てくる……? ふつう、病院じゃなくて?)
男の子たちの言葉と凪の中にある常識が噛み合わず、齟齬が出ていまいち会話の内容がつかめない。どう返すべきなのかと、凪は困ってしまう。
もしかしたら、訪れた記憶すらないこの地では怪我をした場合は病院ではなく神殿に行くのがふつうなのかもしれないが。
(怪我をしているのに宗教系施設って、なんか胡散臭いな)
日本人としてはそういった不安が先にくる。
民間療法のような怪しげな治療でもされそうだと、凪は胸中に忌避感を抱いた。
「ああー、ええと。神殿にいかなくても大丈夫です」
言葉を濁すように断ると、年嵩の少年が眉尻をさげた。
「ナナギ、無理はしてないよね? 頭が痛いなら、神殿に連れていくから」
「体は、大事にしないとだめなんだぞ」
「いやいや、大丈夫です。ご心配なく」
立ち上がろうとすると、ひときわ鋭い痛みが脳内に走る。
吐き気をともなう頭痛に、凪はちいさくうめいた。
「ナナギ! だから言っただろ! 無理しちゃ駄目なんだからな」
小さい男の子が必死な様子で声を張り上げた。
その瞬間、服の裾を掴んだ男の子のちいさな手から、一瞬だけ光が泡のようにたちのぼり弾ける様をとらえた。
不意に、頭の痛みと体の芯にずっしりと残っていた倦怠感がなくなる。
ぱちぱちと凪は瞬きをした。
今のは一体なんだったのだろう。
即効性の痛み止めの薬を飲んだみたいだった。
ーーラムサスの、光の気配。いいな、欲しいなあーー
目の前にいる男の子たちとは違う声。
そして、記憶にある自分とも違う声。
馴染みのない今の自分の声でもない。
少年の恍惚とした物欲しげな声が、自分の中で響いた。
「今の、なんだろう。聞こえましたか?」
「え、何? 何も聞こえなかったけど」
年嵩の少年が不思議そうな顔をし、幼い男の子が「何もきこえなかったぞ」とこくこくとうなずき少年に同意した。
「何が聞こえたんだ?」
男の子がたずねてくる。
「ラムサスの光。それが欲しいとかなんとか、ですね。知らない少年の声で……なんだったんだろう」
「ラムサスの光、ラムサスといえば光の神のことをさすけれど、それが欲しい? うーん。頭を変に打ったから幻聴が聞こえてるのかな」
「治癒魔法は光の神が司る魔法だし、治癒魔法が必要ということかもしれないぞ」
男の子がいう。
それに少年は困ったように首を振った。
「頭を強くぶったなら安全のために治癒魔法をかけてもらいたいけれど、うちにはそんなお金ないよ。大事を取れるのが一番いいんだけど。ごめんね、ナナギ」
(魔法? 治癒魔法? 光の神とか、なんとか。すごくゲーム的な言葉が。ええと、さっきの会話から察するにやはり神殿とやらが病院みたいな医療機関を担っていて、でも医療費がないから診てもらえない、ってところなのかな)
「あ、いえ。大丈夫です。その、痛みも完全に取れて不調なところは一切ないです」
証明するように一気に立ち上がってみせた。
自分でもびっくりするくらいに敏捷な動きだ。
なにせ、手を使わずに腹筋と足腰の筋肉で猫のように素早くさっと身体を起き上がらせた。
「あ、ナナギ。頭をぶつけたんだよ、急に動くと危ないんだから!」
年長の少年に怒られる。
「心配をかけてすみません。でも、本当にもう大丈夫ですから」
随分と下の位置まで降ろさなくてはない視線の先にいる少年に、凪は頭を下げた。
さきほどまでの頭痛が嘘のように後遺症が残っていない。
(あ、れ。俺、なんで)
視線を落とすと、自分の手が目に入る。
その手は、声と同じく記憶にまったくないもの。
純粋な日本人だった凪の肌の色とは全く違う、褐色。
だらりと腰の脇にあった手を目の前に持ってくる。
握る、開くを繰り返す。
まるで見知らぬ誰かの手なのに、思う通りに動く。
それがぞっとするほど不気味だ。
(これ、俺の手じゃない)
「どうした? やっぱり体が痛むのかよ、ナナギ? 大丈夫か?」
「大丈夫かい? やっぱり神殿に行ったほうがいいのかな」
自失するほど動揺する凪の耳には、少年たちが必死に問いかける声も届かなかった。
「俺は……」
見慣れぬ手をゆっくりとおろし、混乱にそまった眼差しで二人の子供に凪は尋ねる。
「俺は一体誰なんですか?」