リリとアンディ②
額に感じた冷たい感触に、私は目を覚ました。
目の前にはリリがいて、目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれている。
「よかった。あんでぃが、めを、さました。よかった、ほんとに」
後は言葉にならない。ぽろぽろと泣き続けるリリ。
「…すまない。心配を、掛けてしまったね」
「うん、すっごく、しんぱいした。あんでぃがこのまましんじゃう、かも、って」
「そんなことはないよ。少し疲れて、倒れただけだと思うよ」
「でも、もしかしたら」
「昨日は色々目まぐるしかったから、自分でも気付かないうちに疲れが溜まっていたんだろうね」
「わたし、が、しんぱい、させたから」
「それは違うよ」
「でも」
「そんなことはない。私も人の子だからね、新しい環境に慣れていなかったんだと思うよ」
「でも」
「リリ、何でもかんでも自分のせいだと思うのは良くないな」
「でも」
「ああもう」
手を伸ばし、リリを胸元へ抱き寄せる。
「そんなに悪いと思うんだったら、しばらくこうしてて」
「…うん」
リリの背に腕をまわし、ゆっくりと抱きしめる。ああ、この感触は久しぶりだ。リリの熱がじんわりと体を伝い、涙で、ゆっくりとシャツが濡れていく。あの夜以来リリを抱きしめる機会はなかったから、8年ぶりになるのか。彼女の体の柔らかさが、私の緊張や疲れをゆっくりと溶かしていくような錯覚に陥る。このままずっとこうしていたい。
「お二人で良い感じの所悪いがね」
ん?
「目が覚めたんなら私に一言くらい声を掛けて貰いたいもんだ」
腕を組み、仏頂面でそう言ったのはレティシア教授だった。
…私の診察を終え、問診する教授。
「気分はどうだね」
「快調、とまではいきませんが、今は特に問題ないようです」
「頭痛やめまいは?」
「ありません」
「これまで同じような症状になったことは」
「ありません。ですから、自分でも少々驚いています」
「最後に食事をとったのは?」
「一昨日の夕食が、最後でしょうか」
昨日の朝はリリを迎えに行くべきか悩んで、朝食をとりそびれていた。
「阿呆か、君は」
「は?」
「丸一日、何も食べないで動き回れば、そりゃあ気分も悪くなるだろう」
「はあ」
「一応、君の病歴も確認したが、特に既往症等もない」
「では」
「腹が減ってぶっ倒れただけだこの馬鹿たれ!」
すぱああああああああん!!
「わーー!!アンディーーーーー!!!」
ごめんリリ、今、ちょっと、声が、出ない。
「なななななんでぶつんですかせんせーー!!!」
「君も君だ!」
すぱぱあああああああん!!
「いたーーーーー!!むっちゃいたーーーー!!」
「旦那が大事なら飯ぐらいちゃんと食わせとけ!!」
「ご、ごめんなさーーーーい」
謝るリリに頷いてこちらを見る。ぎく。
「君は!?」
「申し訳、ありませんでした」
ふう、と教授が溜息をつく。
「ホントにさあ、自覚が足りないんじゃないか?自分の体調管理くらいできないと、私達庶民が迷惑するんだからちゃんとしてくれよ?王子様」
「以後、気を付けます」
「よし、じゃあ今日は一日ここで寝てろ。君とその子の分の食事は持って来させるから、きちんと食べるんだぞ。いいな!」
「「はい」」
うんうんと頷く私達を見て満足したのか、
「では、私は席を外すから、続きをゆっくりやれ。ただし、避妊はちゃんとしろ」
「ななななななな何言ってるんですかーーーーー!!!」
うーーん。色々ととんでもない人だ。
「ああ、そう言えば教授」
「先生、と言え。君たちが私をそう呼ぶのは百年早い」
「…先生。先生は医者の資格もお持ちなのですか?」
「ああ。ここは学問のごった煮みたいな所だからな。何でもできないと研究に支障が出る」
「そうなのですか?」
「他人にいちいち頼んでられるほど暇じゃないんだよ。ならば自分でやった方が早い」
「そういうものですか。いや、それは良いのですが」
「なんだね、まだ他に?」
「いえ」
ベッドからで申し訳ないが、
「先生。どうもありがとうございました」
リリも慌ててぺこり、と頭を下げる。
「ありがとうございました」
「…生徒を助けるのは、先生の仕事さ。気にするな」
そう言って、先生は部屋を後にした。二人に戻った部屋で、リリがベッド脇の椅子に腰掛ける。
「でも、大事にならなくて良かったよ」
「心配を掛けたね」
「ほんと。あの時はびっくりしたよ!急にアンディの顔が真っ青になって、汗がぼたぼた落ちて、目の焦点が合わなくなってたもん。本当に、し、死んじゃうんじゃないかって」
「いや、僕にも初めての経験だったから、自分がどうなってたかは分からないんだよ」
「ほんと怖かったんだから。最後はばたーって倒れちゃうし」
「僕、その時に何か言ってたかい?」
「うん」
!!
「『ごめんな、リリ』って、まさか倒れる時まで私に気を遣うなんて、アンディらしいといえばアンディらしいけど」
そうか。君には「リリ」と聞こえたのか。
「え?どうしたの?なんか私またおかしいこと言った?」
「いや。さっきも言ったけど、その時のことは覚えてないんだよ」
嘘だ。
「そうなの?」
「ああ、あんな状況で、自分が何を言ってるかなんて分からないからね」
嘘だ。
「まあ、あんな状況だったからね」
「そうだね」
嘘だ。
「あ。そういえばアンディ、喉乾いてない?私、替えのタオルと飲み物取ってくるよ」
「そうかい。じゃあ、頼もうかな」
「うん、じゃ、ちょっと待っててね」
リリはそう言って部屋を出て行こうとする。
「ねえリリ」
「ん?なにアンディ」
「…できれば、軽くつまめるものが欲しいな」
「あ、うん!分かったよ!すぐ取ってくる!!」
扉が、閉じた。
言えなかった。彼女に。
僕は、昨日のことを全部覚えている、と。
子供の頃から抱えていた違和感が解け、じわりと馴染むような。
それでいて、根本的な部分で全く交わらないような、水と油のような感覚。
僕の中には、僕以外の誰かがいる。
それは、私で、僕で、おれだ。
誰かがいる、それは間違いない。だが、それが誰だか分からない。
そいつが彼女を「るり」と呼んだ。リリアンヌではなく、「るり」と。
そして、それは多分間違ってない。
彼女はリリアンヌであり「るり」だと、僕の中のなにかが言っている。
だが、それを口にしてどうなる。彼女がもし「るり」だとしてそれが何だと言うんだ。
今、彼女はリリアンヌとしてここにいる。そうではない彼女がいたとして、それを彼女にどう説明したら良い?僕の中のこれをどう説明したら良い?
彼女が「来年話そうとしていた」何かは、これに関係しているのか?
…分からない。自分のことが、まるで分からなくなってしまった。
…幸い、彼女は僕の異変に気付いてはいない。なら、今はまだ何も話すべきではないだろう。せめて、自分の内にある何かが分かるまで、彼女には何も言うまい。ただ一つ言えるのは、僕が何者だろうが、
僕は、リリを、愛している。




