-03- ミツイの弱点とその検証法について
―――三衣氏の弱点とその検証法について
ある日の夜。三衣氏の目の前にはアサヒのスーパードライがキンキンに冷えた状態で置かれていた。丹精込めて作っただし巻き卵とおつまみに柿の種とスルメも供にである。
しかし、三衣氏の視線はその隣に置かれているキッチンタイマーに注がれていた。神妙な顔でタイマーに手を伸ばし、2時間という時間をセットする。
楽しく飲むべき酒を目の前にして氏は一体何をしようというのだろうか。
氏は検証をしようとしていたのである。これより少し先日、三衣氏は友と道頓堀で酒を飲み、帰りの電車内で立ちくらみを起こした挙句、色々あって終電を逃した。
元凶ともいえる立ちくらみ(後で調べたところによると脳貧血と呼ぶらしい)に、氏は納得していなかった。あれがそもそもアルコールの所為であったのか、それとも何か他の要因に依るものだったのか。
いくら考えても結論は出ないのである。ならば、様々な要素を検証するしかない。そう、三衣氏は考えた。
阿呆である。手軽に病院に行っておけばいいものを、氏は「俺の体の事を他人に任せられるものか」と分厚い家庭の医学とネットで得た知識、それから爪の先ほどの判断力で自らの体の事を判断するのである。
三衣氏の医者嫌い、薬嫌いは筋金入りであるので、今更筆者があれこれ言ったところで直るものではない。「三衣の魂、死ぬまでだ」などと訳の分からない台詞をも吐いているのだ。
氏は姿勢を正して座り、背筋をぴんと伸ばした。
未知の事象を自らに取り込むには、きっちり考察した上で、かっちりと実験して結果と考察を比較し結論へと繋げていかねばならぬ。そうとも、自分はこれから新たなる自分への扉を開けようとしているのだ。しっかと自己を見据えてわが道を歩む自分にこそ、ビールの加護は降りるはずである。
そう訳の分からぬ理由で自らを鼓舞し、先日の行動をおさらいした。
①生中飲んだ。
②即座に電車で帰宅。
③車内で脳貧血。
アルコールの仕業でないと良いなあと希望的観測の混じった息を吐き、氏はスーパードライのタブを起こした。ぷしゅうと気味の良い音が鳴るが、氏の胸中は全く弾んでいなかった。
ここまで美味そうに見えぬ晩酌も珍しいと唸りながら、それでも男には後には引けぬときがあると玉子を一口頬張り、おもむろに立ち上がって缶を高々と掲げた。
「いざ、俺の内なる世界の命運をかけて飲まん!」
「いただきますッ」誰も聞いていない氏の六畳間に、決意の声だけが響いた。
いくら美味そうに見えぬスーパードライであっても、冷えたそれが喉を潤せば臓腑は酒で満たされ、それと共に氏の酒への愛もまた並々と満ち溢れるのである。
「ごちそうさまで、したッ」
げふんと一つ息を吐き出し、氏は飲み終えたスーパードライを音高く机に置いた。かたぁんと高い音が響く。Gipsy Kings の Volare が氏の頭の中で鳴り響き、氏はまるで賛美歌を謡うようにそれを口ずさんだ。
これが俺のビールへの愛だとでも言わんばかりの行動であったが、Volare はかつて、麒麟淡麗〈生〉のCMソングであった。けしてアサヒのスーパードライではない。氏の愛は、所詮その程度なのである。
そんな阿呆振りに気付くことなく、氏はセットしておいたタイマーを作動させた。もしもアルコールが原因ならば、ここから数時間以内に前回と同じ症状が氏の体を襲うはずである。氏は座ってのんびり玉子を食べ、柿の種とスルメを頬張った。
しばらく時間を空けて再度立ち上がって待機する。あの日も電車内で立っていたのだから、出来うる限り条件は揃えなければならない。そうでなければ対照実験とは呼べぬからだ。
先人は言った。“寝言は寝て言え、戯言は立って言え”と。
「勝つ!勝ってこの戦いを終わらせるッ!」
決意がむなしく響く六畳間。ゆっくり、しかし確実に過ぎる時間。部屋の中をうろうろしながら、持て余した時間と仲良くやっている内に、氏は冷静な思考を取り戻しつつあった。
自分はいったい何をやっているのだろう。誰と戦っているのだろう。そしてこの戦いに勝ったところで自分は何処へ向かうというのだろう。今更何者にもなれぬ俺が、一体何を目指しているというのだろう。
自問を繰り返せば繰り返すほど、切なさと虚しさと心の弱さが氏の胸中で湧き上がる。あやまちを恐れずに進むミツイを肩組み指差して笑っていやがるのである。
三衣氏は部屋の隅でふふふと笑った。笑いたければ笑うがいい。さあ、笑覧あれ、はいどうぞ!やりかけの青春も経験もそのままにしすぎて部屋の隅でぐずぐずと誰もが顔を背けたくなる芳醇な香りを放ってはいるが、どっこい俺だけはしっかとそれを見つめ続けてみせる。人生を孤高に進軍することに俺は何のサミシサも感じない。見事に孤独街道を走り抜けてやろうではないか!
氏はやけっぱちになって腕組みし、ふん、と一つ鼻をならしてそう考えた。
然る後に下を向いて「しかしこれは傍らに寄り添う者の存在を拒否するものではない」と呟いた。
不安定な情緒を鎮めるため、氏は一計を案じた。
少し腰を落とし、右足首を左膝に乗せる。
左手を優しく、慈愛に満ち満ちた顔で広げ。
そして右手を天を貫かんばかりに掲げる。
「……長崎」
いやもう本当に氏は何をやっているのか。誰も見ていない空間で物真似など愚かの極みではないか。
そんな氏をを罰するかのように暗くなる眼前。流れる冷や汗。氏は無理をせず即座に座椅子に着席し、こたつへと潜り込んだ。
見事に敗北を喫した。脳貧血である。残った玉子と柿の種を頬張る。つまみが無くなったので、空になった皿を見つめながらのそりと頭をこたつの天板に乗せた。これは氏が不貞腐れる際にとる姿勢である。
もぐもぐやっていたスルメを飲み込み、「だがしてこれではいかん」と目を見開いた。
敗戦に肩を落とすのが敗者の役割ではない。勝つべき時に勝つのが男ではないか。今は負けても次を見据えて動かねば人としての歩みを止めてしまうことに他ならないではないか。
敗戦のショックから立ち直り、三衣氏は結果と考察を並べ立ててみることにした。以下はそのメモである。
①どうやら、少量のアルコールで貧血を起こすらしい。
②いつからこんな体になったのかは不明。
少なくとも道頓堀で飲んだ日から。
③飲んで電車に乗るか、平和記念像の物真似で脳貧血発動。
まだまだ分からぬことだらけである。むしろ、今回分かったことといえば氏が一番懸念していたアルコールが原因という点ただ一つである。
氏は心の底から願った。少量で酔ってもいいから、せめて倒れるのは回避したい、と。
そして溜息を一つしてから、家庭の医学やネットでの知識で仮説は立てたものの、認めたくなかった事実を呟いた。
「真面目に考えると肝機能低下なんやろうなあ」
真面目に考えなくてもそうである。寄る年波には誰も勝てないのである。いつまでも学生気分で酒と付き合っていては酒の深淵にいつまでもたどり着けるはずがない。酒の楽しみは千差万別。量を飲めば良いというものでもないのである。
しかし、三衣氏は酒のもたらす快楽を非常に好んでいるので、出来れば思う様飲み明かしたいとも考えているのだ。
そうは言っても問屋が、体がそれを許さぬことは今回の一件でよく分かったので、しぶしぶ三衣氏は己の肝臓をいたわる事に決めたのである。非常に不服そうに
「糖分…減らすか」と唸った。
一日一箱のアーモンドチョコレートを三日で一箱にする事。脳の栄養補給と称してのイチゴ・オ・レの一気飲みを止める事。自らへの褒美と称してのケーキも週一から月一にすること。
そして何より、一番の好物であるあんまんを買う事を極力我慢する事。氏にはこれが一番憂鬱であった。秋口から冬にかけて、氏は立ち寄ったコンビニで必ずと言っていいほどあんまんを購入する。氏は大の甘党であり、中でもあんまんへの執着は他に類を見ないものであった。
これを語る三衣氏の姿は真剣そのものであり、録画して音声だけ消して人に見せようものならば「この御方はたいそう難解な事について述べておられるに違いない」と万人にいわしめるだけの自信があると三衣氏は語っている。
もちろん、そんな事をしても「浮気がバレて必死に言い訳をしているのだな」と見られるのが関の山であるが、氏はこれを否定している。
甘味類を減らす事を心に決めたは良いものの、鬱々とした雰囲気になってしまった三衣氏は、頭を振って「こんな事ではシアワセが逃げてしまう」と空元気を振り絞った。空元気も元気の内だと氏は常々考えている。
しかし、なにぶん原因が原因である。あんまん一つで左右される氏の精神状態はひどく滑稽である。三衣氏が阿呆であることは先刻ご承知の事実であるが、氏は自ら進んで阿呆の道を究めんとしている節がある。
行く先の見えぬ不毛な行軍の行き着く先はどこであろうか。誰もそれを知ることは無い。
前回の更新の時に、余所で使ってたペンネームを使ってあった箇所があって驚いた三衣です。
あんなに見直したのに……
今回は無い…よね?何かありましたら颯爽とご指摘くださいませ。