-02- ミツイと不調の馴れ初めについて
―――三衣氏と不調との馴れ初めについて
三衣氏が始めて不調と邂逅したのは、いつかの秋が深くなる頃合いの、飲み屋からの帰り道であった。大阪在住の友人と道頓堀で楽しく酒を飲み、そして紆余曲折の果てに終電を逃した。そんな出来事である。
三衣氏は言う。「俺ほどドラマチックに終電を逃した男はいない」と。
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大阪食文化のメッカ、道頓堀。その日は終電までのリミットがあったとは言え、食べることに幸せを見いだす三衣氏がそんな場所でテンションが上がらない訳がないのである。
あちらこちらの店に目移りしたものの、結局落ち着いたのはチェーン経営の居酒屋であった。「雰囲気だけでも充分楽しんだ。いやもう充分、これ以上は次回の楽しみにとっておくべし」と語っていたが、単に懐事情が芳しくなかっただけである。
それを知っていた友人は何も言わずに「ま、飲め」と生中をごとりと氏の前に置いた。氏は茄子の浅漬けを一欠けら口に放りこんでから、その黄金色の液体を一気に飲み干した。やはりビールはジョッキに限る。三衣氏は強くそう感じたという。
氏はほろ酔いになりながらも、終電の時刻を忘れてはいなかった。そこまで正体を見失う阿呆ではないと豪語していたが、この後の事を考えると滑稽でならない。
終電の一つ前の電車に乗り、三衣氏は住処である奈良へと進路を取った。紅白柄の妙に縁起が良いツートンカラーの列車に揺られ、氏はのんびりと窓の外を眺めていた。
氏が終電一つ前の電車に乗るのは珍しいことではない。氏が大阪から自らの最寄り駅に帰りつくためには、乗換えが必要なのである。そこでの列車連絡にもしもの事があってはいかんと、氏は常に大阪から帰るときには遅くとも終電1本前の車両に乗るのだ。
ご存知の方もいるだろうが、三衣氏は石橋を叩いて渡るタイプの人間である。そうして作った心の余裕と、友人と酒を飲んだふわふわした気持ちで頬を赤らめ、氏は自らの慧眼に惜しみない賞賛を送るのである。
なぜなら、誰も氏を賞賛などしてはくれないからだ。
乗り込んでいる奈良行きの快速急行は終電近いこともあってかなかなかの混み具合であった。三衣氏は変わらず吊革に捕まってゆらゆら窓の景色を眺めたりしていたが、ふと後ろのカップルの会話が耳に入った。揃いの手袋を明日買うらしい。「やめておきたまえよ。揃いのモノなど碌なことが無いから」と先人たる態度で口を挟みたくなったというが、考えてみれば何一つ自らに益のない行動であると気付き、何も聞かなかったことにしておいたが、心の中で、周りの半数は同じ事を考えいるに違いないと根拠のない思索に耽るのだった。
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そんな三衣氏を、布施という駅を過ぎた辺りで襲う怪異の影があった。急に周りの声が遠くなり、目の前は暗転していく。それと共に流れ落ちるひやりと冷たい汗。窓に映るのは血の気が引いた自分の顔。先ほどまでのほわほわと紅潮した顔は見る影もなく、そこにはまるで製作途中で廃棄された蝋人形のような青白い顔が映るだけであった。
久しく味わっていなかった血の気が引く感覚。随分と唐突にやってきた不調の尖兵に、三衣氏はただ耐えるしかなかった。
体からは力が抜け、吊革をちゃんと持っているのかどうかすら怪しく思えた。三衣氏は僅かに残る意思の力を振り絞り、毅然とした態度を保とうとしていた。「落ち着け。落ち着いて素数を数えるんだ」とどこかの漫画のキャラの真似をしようとしてもみたが、「余計に気分が悪くなるではないか」と即刻中断した。
氏は耐えた。快速急行に乗っていたことが災いし、次の停車駅までしばらく間があったので氏は耐える選択肢しか選ぶことが出来なかったのだ。
一回降りて休みたい。座りたい。流れ落ちる汗を拭いたいと念じていると耳鳴りの中で聞こえてきたのは
「生駒」という駅に着くとのアナウンス。もちろん氏の最寄り駅ではないが、この際知った事ではなかった。
よし、降りよう。
迅速に降りよう。
とにかく降りよう。
駆け込み乗車ならばいざ知らず、駆け出し降車ならばご遠慮しなくてイイだろうと倒れ込むようにホームのベンチに着席し、寒空に一つ大きく深く息を吐いた。
冒頭でも述べたが、季節は秋、それも終電目前の夜中である。それなりに周りの気温は低く、着ていたダウンをはだけた氏からはショートした機械のようにしゅうしゅうと湯気が立っていた。
上気する体とぐんぐん下がる体温に、氏はタオルを所持していなかったことを後悔した。
「誰か飲み物買うてきて!」と不特定多数に向けて祈りの言葉をテレパスしてみるも、当然ながら誰からの応答もなし。当然である。ドラマのように「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる所から始まる見目麗しい女性との桃色に染まるアレコレなど期待できようはずもない。
氏は一抹の寂しさを隠しながら、気力を振り絞り自販機まで歩いていき、暖かい紅茶を購入した。
数分もすれば体調は整い、それと共に三衣氏の不遜な態度も戻ってきた。
終電の一つ前に乗っていた自分をこれでもかと褒めちぎったのである。人生、何が起こるか分からん。また何があってもおかしくはない。自分のように、不測の事態に泰然と対処できてこそ人生を楽しむ余裕も生まれるというものだ。と誰も聞いてもいないのに高説を打つのだった。
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しばらくしてやってきた終電に乗車し、まだ少し重い体を引きずって一路、乗り換えの駅である大和西大寺へ向かう三衣氏。そこで乗り換え、数駅進んで氏はやっと自らの住処へとたどり着くことが出来る。
しかしながら、これから何が起こるか私達はすでに知っている。そう、三衣氏は終電を逃すのだ。
目的の最終連絡便が目の前で悠々と構えている所に颯爽と乗り込もうとしたその瞬間。
何かが氏の背後でどさり大きな音を立てた。
見るとホームに散らばる何かの書類と慌ててそれを拾い集めるスーツ姿の男性の姿。おやおやまあまあ、と構えていた三衣の頭に不意に響く「誰か……」の声。他人事一転、これは不特定多数に向けられた声にならないテレパスではないか!受けたからにはそりゃあ助けなければなりますまい。俺のテレパスは誰にも届かなかったのだから!
───大丈夫!君の声は私に届いているよ!!
颯爽と遠くにある書類数枚を集めて男性に渡す三衣氏。なんと堂に入った格好のいい姿であろうか。そして背後で無慈悲に閉まる最終電車。
「……あ」思わず間の抜けた声が三衣氏から漏れる。
ゆっくりと動き出す我が家への希望の架け橋。「終電さーん。戻っておいでー」と寂しそうに氏は心の中で呟いた。
氏が呆然とする中、丁重に礼を述べて去っていく男性。これが見目麗しい女性であったならば、二人の新しいドラマが始まっていたに違いない。男性相手に始めるわけにはいかぬし、断じて始めたくはない。断じて。と後に氏は力強く述べている。
去り際、「今の電車、よかったんですか?」と問われた際に、「大丈夫です。問題ありません。ええ、まったく」と変に取り繕うのが氏の悪い癖である。仕方無しにのんびり数駅分を歩くことになった。
タクシー代くらいいただいてもよかったろうかと氏は自問するが、見返りを要求せんが為に動いた訳ではない。と即座に否定する。そもそも、氏は男性を助ける為に動いた訳でもない。
生駒の駅で誰にも届かなかった自分の声を憐れんだだけなのである。慈愛ではなく自愛の念で動いたのだ。氏はどうにも理解し難い男である。
巡り廻って自分を助けたことにして、寒空夜空を眺めながら歩きつつ氏は事の発端となった立ちくらみについての考察を試みる事にした。家までの数駅分は時間にして2時間と少し。考え事をしながら歩くには良い距離である。
三衣氏は生中を1杯しか飲んでいなかった。それであの有様だとは信じたくないというのが本音であった。氏は酒が好きである。好きなものを遠ざけねばならぬような事態は極力避けたいのが人情というものだ。
しかし、何も情報が無い状態であるのに考察もへったくれもない。三衣氏は一つ「むう」と唸り、自らの肝臓に喝を入れた。
「情けないぞ。君も俺の一部ならば、辛いときには辛いとなぜ言えないのだ」
沈黙の臓器である肝臓に向かって自己主張をせよとは無理強いにも程がある。しっかりと三衣氏が体調の管理をすればいいだけの話である。
次からは終電の2本前に乗ろうと決意した三衣氏であったが、根本的な解決を試みようとしていない辺り、やはり氏は阿呆のようである。




