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『ミツイのトリセツ』  作者: 三衣 千月
後編 26才のミツイ
22/23

-21- ミツイのトリセツ

 ―――三衣氏の取扱説明書



 三衣氏が部屋に入ると、すでに客人はこたつに入ってくつろいでいた。彼はこの一年で少しばかり体を悪くしたらしいが、「どっこい生きている」と本棚から好きな本を引っ張り出して読んでいた。手にしているのは森見登美彦の小説、「ペンギン・ハイウェイ」だった。ちなみにこの小説は、数年前の奈良県立高校入試の設問に取り上げられたことがあり、氏はその時我が事のようにそれを喜んだものである。

 彼の名は前年氏。この一年を三衣氏として過ごしてきた、いわば過去の三衣氏である。彼は言った。


「来年のヤツはまだ来ないのか?」


「そのうち来るやろ。彼が来たら始めることにしよか」三衣氏が答える。


「分かった。ならばお前もごろごろするがいい」


 来月にはお役御免となる前年氏は非常にお気楽である。


「もうちょい気ぃ張ってもええんちゃうの?」


 現在の三衣氏はそう言うが、過去の出来事が変わることはありえない。お気楽な前年氏は、決して変わることなくお気楽なのである。


 しばらくすると、眼鏡をかけた三衣氏が部屋に来た。

 次の一年を過ごす予定の三衣氏、その名も来年氏である。彼はどこか気だるい雰囲気を漂わせていた。


「辛気臭い顔をしているぞ、来年。大丈夫か」前年氏が言う。


「君はは随分と気楽そうじゃないか。前年」


「俺の仕事は終わったもの。あとの仕事は君らに託す」


「託す?単に問題を先送りしただけでは?」


「失礼だな君は。

 俺はいわば未来の自分に生き甲斐を与えたのだよ。

 生き甲斐のない人生など詰まらぬだろう。

 どうだい、感謝してくれたまえよ」


「相変わらず屁理屈ばかり述べるね」


「うむ、それが生き甲斐だもの」


 前年氏と来年氏がこたつで向かい合わせになった所で、現在の三衣氏が紅茶を出して場を整え、議事録をコタツの上に置いてこう宣言した。「ほな諸君、今年度の三三弁論会を開催しよう」




   ○   ○   ○




 左隣には今年一年を過ごしてきた三衣氏、右隣にはこれからの一年を過ごすであろう三衣氏が座り、翌月に誕生日を控えた現在の三衣氏を交えて三人で話し合うのである。

 桜の新芽が出ずる時期に行われるこの話し合いの場を、三人の三衣の、三人の三衣による、三人の三衣のための弁論会、略して「三三弁論会」と言う。文字にしてみて初めて気づいたことであるが、筆者の中ではこの時点で「三」という字ががゲシュタルト崩壊を起こしている。ゆえに、以降は単に弁論会とだけ呼称することにする。

 

 また、この弁論会の登場人物はすべて三衣氏である。

 年を経る毎に三衣氏の考え方や物の感じ方は変わるので、同じ三衣氏といえども多少は人となりが変わってくるのだ。


 この数年、三衣氏の体調が芳しくないことは読者諸賢もご存知の事だろう。現れ出た不調との折り合いをつけることが、ここ数年の三衣氏の主な活動である。戦っていると言っても良い。

 氏の不調との戦い方は至極単純である。不調などなかったかのように振る舞い、何事もなかったかのようにそれを扱うのである。同窓の友と青春めいたものを謳歌し、似非京都人になり観光案内をし、敗色濃厚な恋路に手を伸ばして大方の予想通りに返り討ちに遭う生活を送ったのだ。


 しかしながら、当然のように不調は消えることなく氏の体に居座り続けている。この頃になると、己の不調と最早腐れ縁のような関係になってきた気さえしており、「とっとと出ていけば良いものを」と喚く傍ら、いなくなればそれはそれでさみしいかも知れぬと考えている。

 つまり、何事もなかったように不調を無視することなど出来はしなかったのだ。不調との戦いに敗北を喫したのだ。三衣氏の人生、至る所が負け戦である。


 昨年は三衣氏の体調の変化の議論で持ちきりであった。健康に良いとされるものの食品群が昨年の議事録にはずらりと並んでいる。並んでいるだけで、それらを効率的に食して改善を図った形跡は微塵も見られないが。


 今年もまずは体の調子から話し合いが行われた。


「どうだい。通院生活にはもう慣れたかい?」来年氏が三衣氏に問う。


「それがどうにも。来年君には不便をかけるけど、よろしく頼むわ」


「かまわないさ。その辺り、一番苦労したのは前年だろうけれどね」


「そうだぞ。もっと俺を敬いたまえよキミ達」


 前年氏はこの一年、京都、大阪、神戸を巡って通院し、月に一度は道に迷っていた。通院するだけで迷うのはおかしな話であるが、前年氏が調子に乗って「♪知ーらない街をー歩いてみーたーいー」と唄いながら道を外れるのが悪いのである。来年氏も上辺は真面目であるが、所詮、根っこの部分は同じ三衣氏であるので油断はできない。普段は歩かない街並みに浮かれてふらりと散策するかも知れない。釘を刺しておく必要があるだろう。




   ○   ○   ○




 前年と来年。

 大きな区切りがあるように見えてその実、一日の区切りと変わらない連続した時間の小さな区切りに過ぎない。区切りだと思えば区切りになり、いつも通りだと思えばいつも通りなのである。前年氏と来年氏に挟まれている現在の三衣氏はムツカシイ顔をして過去と未来の二人の三衣氏の話を聞いていた。

 次の一年はなにか面白いことが起こるだろうか。この一年は非常に面白可笑しく過ごすことが出来た。しかし、次の一年はそうではないかも知れない。氏は言う。


「面白くない人生も、それはそれで面白い」

 

 三衣氏は頑ななまでにポジティブである。

 そして体の心配をしたところで、アンチ薬派の三衣氏達には美味いものを食って生活を正すくらいにしか対策がないので、体についての議論は早々に終わった。


「前年よ。何か後悔はあるかい?」来年氏が問う。


「桜吹雪が見れんかった!」


 その年の桜は雨でほとんど流れ落ちたので、それだけが心残りだと前年氏は言った。はらはら舞い落ちる花の下で遠い昔の青い春を思い出し、伝わらなかった恋に思いを馳せる。毎年、この季節になるとそんな思い出が秒速5センチメートルの速さで脳裏に浮かんでは消えていくのだと前年氏は述べたが、それは間違いだ。

 三衣氏の歴史、いわゆる三衣史を紐解けば、そこに伝わらなかった恋など皆無である。伝えた上で返り討ちにあった恋路が累々と積み重なっているだけだ。三衣氏の妄想劇場はついに自らの過去を改竄するまでに至ったようだ。嘆かわしいことである。




 次に、来年氏の抱負は何だと前年氏が訪ねたが、来年氏は頑なに答えようとはしなかった。


「なんだなんだ。言って減るものでもなし、水くさい。

 俺たちは同じミツイ仲間ではないか」


「まてまて前年。減るのだよ。いいかい、証明しよう」


 そう前置きして、来年氏は紅茶を一口飲んだ。そしてコタツの上に置いてある議事録から白紙のページを一枚とって、そこに何やら書き始めた。

 いくつか書かれた単語を指差しながら、来年氏が弁を振るう。


 来年氏曰く。

 言葉とは、力である。言葉を発する際、その言葉にはエネルギーが存在する。己の意思を言葉に載せて発する。これが言葉である。

 すなわち、言葉にすれば己の内的エネルギーが消費される。当然だ。エネルギーは無限に湧き出てくるものではない。

 この事実とエネルギー保存の法則を照らし合わせる。中学理科で習う法則であるので、馴染みもあるだろうと来年氏は言った。

 結論、言葉にしてしまうことで抱負の持つ内的エネルギーが消費されることが分かるのだ。

 

 そう前年氏と三衣氏に言いながら、ページのメモをひらひらとさせた。


「この通りだよ。簡単な理論だろう。

 誰かに話せば、その分抱負が小さくなっていく」


「小さくなったらまた膨らませれば良いではないか」前年氏が抗議する。


「風船じゃあるまいし。それでは中身が詰まっていないよ。

 せっかく世を謳歌するのだから、中身のある抱負が良いね」


「ええい、屁理屈ばかり!まるで三衣のようなヤツだな!」


「そりゃあ、三衣だからな。俺も、君も」


「それもそうだな」


 この弁論会の参加者は、当然のことながら全員が三衣氏だ。うっかりそれを忘れていた前年氏はおちゃめさんである。


 数杯の紅茶を飲み、茶菓子をあらかた平らげた辺りで、そろそろ今年の弁論会もお開きである。前年氏が大きく伸びをして来年氏に告げた。


「そうだ、覇気の無いお前に良い言葉を送ろう。光栄に思いたまえ」


「随分と恩着せがましいな」


「分厚い恩だぞ。着込んでくれよ」


「で、どんな言葉なんだい?」


 前年氏が来年氏を指差す。


「Be Mitsui. この言葉を君に送ろう」


「ミツイであれ、とでも訳せばいいのかな?」


「そうだとも。忘れぬことだ」


 前年氏が言うには、自らを“ミツイ”と定義付ける為の、ミツイらしい行動を忘れるな、ということらしい。

 阿呆であれ、ともとれる。阿呆でなければ三衣氏ではない。阿呆でなくなる時、三衣氏は三衣氏でなくなるのだから。


 そしてこうも続けた。


 ――自分を見失いそうだからと言って、くれぐれも自分探しの旅になぞ出るものではないぞ。探さなければ見つからないようなものは大したものではない。探して見つかるのは、美味いラーメン屋、行方知れずだった靴下の片割れ。せいぜいそんなところだと相場が決まっている。


 京都駅で京都タワーを探すだろうか。浜大津で琵琶湖を探すだろうか。その必要はない。探すまでも無く悠然と変わりなくそこにあるではないか。そちらを向けば自ずと分かる。ゆえに「自分」というものも、字面の如くおそらくはそんなものだ。そこにあるものを見つけるだけで良い。




   ○   ○   ○




 前年氏と来年氏が帰った六畳間で、三衣氏は議事録を見直しながら思う。なんだ、結局いつも通りではないか。相変わらず、思いついたことをのんべんだらりと話すだけの、阿呆らしい集まりであったものだと。


「俺はどうやらどこまでいっても阿呆の道から抜け出せんらしい。

 周りに散々言われて分かってはいたことではあるが、

 ようやく自分の中で合点がいった。やはり俺は阿呆だ。

 だがしてそれの何が悪い。矜持ある阿呆とそれなき賢人では

 どう考えても前者が魅力的だ。そうだろう。」


 六畳間で誰にでもなく演説を打つ三衣氏であったが、拝聴者はゼロであった。

 そして矜持ある賢人がいっとう魅力的に思えるのは筆者だけだろうか。


 これからも氏は京都を歩く。琵琶湖を眺めて過ごす。そんなゆるい幸せをだらっと続けていくことだろう。傍らには見目麗しい女性などではなく、悪友のような不調がニヤリと意地悪く笑いながら着いて回るに違いない。

 氏は不調の存在を「まあ、そんなもんかな」と受け入れたので、あとは仕事に精を出せば、まずまず面白く過ごすことが出来るはずである。


 ――それで充分である。




 先人は言った。

 人を知るには、相手を見よと。そして、人を動かしたくば、相手の周りを見よと。

 ゆえに、ここに筆者が記してきたのは、三衣氏の過ぎ去った青春であり、忘れたい過去であり、また忘れる事の出来ない過去であった。


 これを読んだ大方の人間は「触らぬミツイに祟りなし」とそっと傍観を決め込むだろう。「あんまんの一つや二つ投げつけてやろうかしらん」と企む者もあるかも知れない。「たまになら、お前の無益に付き合ってやるゼ」などという稀有な御方もいるかも知れない。


 それらは、すべて正しい。

 三衣氏の取扱説明書には、ただ一言こう記されているだけなのだから。


『この男、阿呆につき注意されたし。』




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