-18- ミツイと極上の甘味について
―――三衣氏と極上の甘味について。
時は二月。寒さ吹き荒ぶ時期であり、豆を撒いたりして厄を払う時期である。
このところ、三衣氏はなにやらコソコソとしている。日常をつぶさに観察されることが気に食わないらしいのだが、取扱説明書を記す筆者の側からしてみればネタを投下しない氏など氏ではない。
少し前に「これでもネタにしたらどうだ」とばかりに真っ黒無地の1000ピースパズル『暗黒地獄』を買ってきてちまちまと作っているが、遅々として進んでいない。「こんな黒いものは見てられん!裏返しにして作ってくれる!」と訳の分からない行動に出たが、何のことは無い。ピースの裏には救済措置として目印がついているからだった。四種類のマークが入っており、大雑把にどの辺りにどのピースが来るのかが分かるようになっていた。
目印のことは伏せておいて、さも自分の忍耐力と直感のみを駆使して作り上げたように思わせる腹だったのだろうが、そうはいかない。猫に小判、ミツイに賞賛である。分不相応なものは望んではいけない。与えてもいけない。
さて、情報インフラが整備された現代において、よほど上手く隠さなければ情報はたちどころに漏れる。つまり、三衣氏の日常など、本人がいくらコソコソとやっていたとしても、すぐに白日の下に晒されるのだ。
以下にその内容を記しておく。
○ ○ ○
先日、三衣氏はモンブランを食べた。奈良・吉野にあるLa pecheというパティスリーである。店名には「桃」の意味があるそうだ。
三衣氏は大の甘党であり、甘味がなければ生きていけないという事実はすでに述べた。氏が甘味を絶てば、たちどころに思考能力は低下し、甘味を求めて夜な夜な部屋を這いずり回る妖怪と化す。
甘味のためとあらば、多少の苦難は無いも同然なのである。それ故に、「吉野でモンブラン?わざわざ?」などと言うものがあれば引きずってでも連れて行くか、その者とは決別するかの二択のどちらかの行動を三衣氏はとることだろう。
この日、三衣氏は引きずられるようにその店へ連れて行かれ、モンブランを食べて感動のあまり過去の自分ときれいさっぱりオサラバするほどの意識改革を受けた。極上のスイーツによるこの意識改革を、氏は「パラダイス・シフト」と名付けている。今ならばそれをテーマに論文が書けるとも豪語していたが、おそらく書かないだろう。
モンブランを食べ、引きずられてきて正解だったと氏は思った。実の所、あまり期待していなかったので、それもパラダイス・シフトを引き起こす要因の一つであったかも知れない。
生まれて初めてモンブランで感動していると、目の前の女性が氏に話しかけた。
「で、君をここへ連れてきてあげたのは誰だったっけ?」
「そりゃあもちろん、麗しの藤井さんであらせられますよ」
氏の対面に座って満足そうにうんうんと頷いた女性は言った。
「私の勝ちだね。おいしい?」
「世界が輝いて見えます。モンブラン色に」
「あはは、なんだソレ」
三衣氏の向かいで同じく至上のモンブランを食べていたのは、氏よりも二つ年上の藤井女史である。三衣氏のことを『いーちゃん』と不思議な愛称で呼ぶことに何の躊躇も無い不思議な人で、「モンブラン食べに行こう」と氏をかっさらって吉野まで車を走らせた人でもある。
三衣氏は藤井女史とある勝負をしていた。スイーツが氏のお気に召さなければ女史の負け、気に入れば氏の負け、という至極どうでもよい勝負事であった。しかしながらこの勝負は三衣氏の大敗である。見事に胃袋をつかまれた氏は素直に負けを認めた。
藤井女史と三衣氏はさほど長い付き合いでもない。しかし馴れ初めを記そうとするにあたって「語るほどのものでもない」と明確な説明を避けるところを見ると、三衣氏はどうにも卑怯な男であると言える。
○ ○ ○
二人は帰りに橿原の大きなショッピングモールに立ち寄った。藤井女史が服を見ていくと言ったからであるが、残念ながら女史は一つ大きな間違いを犯した。三衣氏の服のセンスは着こなし、選定ともに一般のそれを下回るからである。
センスは磨くものであると世は言うが、磨く努力と共に、おそらく指の爪先程の才能というものが必要なのではないかと三衣氏は考えている。ゼロに何を掛けてもゼロなのだから、これはもうしょうがないと言う。負け惜しみである。自分がファッションについての努力を怠っていることを認めたくないだけである。
「どっちがいいかな?」二つの服を並べ、藤井女史が問う。
「ラインが入ってるかどうかしか違わないですよね」
「うん。どっちが似合う?」
「……ラインの無い方で」しばらく悩んだ後、三衣氏は片方を指差した。
「でも、ライン有りの方がカワイイよね」
ならば何故聞いたのですかと氏は問い詰めたかったと言うが、残念ながら三衣氏は知らないのだ。女性と共に行く買い物には、すでに解答が用意されている問いかけが存在することを。
三衣氏にとって、いや、世の男性の大半にとって、買い物とは何かしら買うものありきで売場に向かうものである。故に、何も買う予定も無く店を回ったところで気疲れしてしまうだけなのだが、流石にそれを口に出すのは躊躇われた。
「藤井さん。さっきも通りませんでした?この通路」
「いーちゃんは買い物の仕方が分かってないねー」女史が氏の背中をぽむぽむと叩く。
ウインドウショッピングにも作法はあるらしい。それは、一度通った通路であろうが、既に入った店であろうが構わないという心構えである。それと共に、まるで宝探しのように品物を見て回り、それらを見てワクワクしながら買い物を楽しむ。感情優先で心のままに動くのがウインドウショッピングの正しい作法であるそうだ。
ただし、並んでいる品物を「商品」ではなく「宝物」だと思えるスキルと、悩むことそのものに楽しみを感じるスキルが必要である。女性の多くはこれらを標準装備しているのではないだろうか。
既に御察しの方もいるだろう。残念系男子と形容される三衣氏は両スキルを装備していない。故にひどく疲れたのである。越え難きは買い物意識の壁。「ちょっと休みましょ。奢りますから」そう言ってカフェへ藤井女史を誘導するのに何の躊躇いもなかったと言う。
カフェで男女の買い物についての違いについてひとしきり意見交換を交わしてみたものの、三衣氏はいつもと同じことを考えざるを得なかった。「理解はできるが納得はできん!」
氏がウインドウショッピングを楽しめるようになるには、まだしばらく時間がかかるようである。いや、時間をかけたところでスキルを習得できる保証はない。これはもう、しょうがない。
しょうがないついでに、氏は黒無地の1000ピースパズルこ購入した。冒頭で述べた例のものである。なんとなく作ってみたくなったのだと言う。
○ ○ ○
帰りの車中で不意に藤井女史は言った。
「いーちゃん、勝負しようか」
信号の無い京奈和道をのんびり走りながら女史は続ける。
「先に恋人作ったほうが勝ち。どう?」
前を向きながらゆっくりと女史は言葉を紡いだ。
急に何を言い出すのかと思えば、随分とユニークな勝負である。
「ふうん」氏は少し沈黙してから言った。
「藤井さん、お付き合いしてください」
その言葉と同時に車体が少し揺れる。女史がハンドルワークを乱したらしかった。
「こら。そうやって年上をからかうもんじゃないの」
「やー、引き分け狙いですよ。年上のお姉さまは好みど真ん中なもので」
「私は年下ダメだ―」
「ええ、存じ上げてますとも」三衣氏はからから笑った。
「……性格悪いってよく言われない?」
「お互い様です。告白の返事、保留してるの知ってますよ」
藤井女史は先日、会社勤めのとある男性にお付き合いを申し込まれていたらしかった。情報とは、かくも簡単に漏洩するものである。三衣氏はこの話を藤井女史の友人から聞いた。努々、大事な情報は人に話さぬことである。
「知ってたのか。勝てる勝負だと思ったのにな」
「……ってことはOKの返事出すんですね」
「私だって人並みに恋愛したいんだ。許せ。いーちゃん」
「クリスマスに“恋人なんぞいらん”と叫んでたのは誰でしたっけね」
「あれは去年の私。今年の私は恋に生きるのだよ」
なんとも都合の良い話である。こうはなるまい、自分はしっかりと自分の考えを貫くのだ。孤独街道でも何でも走り抜けてやろうではないか。と三衣氏は固く胸に誓ったという。
そうは言いつつも三衣氏のことなので、あわよくば孤独街道を抜け出してやろうというような思惑もあったかもしれない。当然のように氏はこれを否定しているが、状況がそれを認めぬことは氏も気づいていることだろう。胃袋を掴まれると氏は弱いのである。
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自らの住処の一室、六畳間に座り込み、「ちょっとばかり勝ち組に近づこうと欲を出した結果がこれだ」と氏は好物のあんまん片手に呟いた。
長らく人生の勝ち星を挙げていない氏はどうやら勝ち方を忘れてしまったようである。雀の涙、ミツイの勝算。分不相応なものは望んではいけない。与えてもいけない。努々忘れぬことである。
氏は頭をごつんとこたつの上に乗せて、少しだけ昔のことを思い出しながら考えた。自分が勝ち組だったのはいつのことだっただろうか、と。
過去を振り返ることを良しとしない三衣氏にとって、これは珍しいことである。
一年前、二年前。指折り思い出しながら年数を数える。しばらく考えてから、氏は一つの事実に行き当たる。
―――両手の指ごときでは足りんなあ。
本当に、ずいぶんと昔のことになってしまった。やめたやめた。これ以上考えると過去からの刺客に精神をやられてしまう。
そう考えた三衣氏は、すべてを無かったことにせんと雑貨屋で買ってきた黒一色の1000ピースパズル『暗黒地獄』に没頭するのだった。
自ら進んで暗闇へと足を向けるその姿はまさに三衣氏と評することができる行動に他ならない。
氏は今日も変わらず阿呆である。読者諸君にはどうぞご安心いただきたい所である。