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『ミツイのトリセツ』  作者: 三衣 千月
中編 25才のミツイ
18/23

-17- ミツイと読書について

―――三衣氏と読書について


 三衣氏は怒っていた。

 それはもうぷりぷりと怒っていた。


 三衣氏は先日、かつての仕事仲間である本読み氏から一冊の文庫本を渡され、感想を聞かせてほしいと依頼された。その感想というものが、上記の反応である。

 氏が読んだのは、「こたつ」と言う短編小説だ。面白かったのだと言う。面白くて怒るのは訳が分からないと読者諸賢は言うだろう。確かに筆者もそう思う。しかし、三衣氏の心の動きは複雑怪奇であり、我々にはとても理解が及ばないようなアレコレ様々な想いが胸中を渦巻いていたのだ。




   ○   ○   ○




 ここで、「こたつ」という短編の内容について触れておかなければならない。しかしあくまで短編のあらすじではなく、氏の感想を伝えるにあたっての内容である。

 この小説の起と結だけを言ってしまえば、名家のお嬢さんと結婚するため、それに相応しい人間になるべく努力し、晴れて結ばれると言う分かりやすいストーリーである。言い換えれば凡とした平坦なものだった。


 それを肉付けるのが、表題でもあるコタツである。あのぬくぬくとしたコタツなのである。作中のお嬢さんは、日本に古くから伝わる伝統芸道の跡取り娘であったのだ。

 華道や茶道、そして書道。日本に伝統芸道は数あれど、彼女が究めていたのは「こたつ道」という芸道であった。その歴史は古く、室町時代から続く由緒あるものであり、かの太閤秀吉もたしなんでいたと作中の文献には残っている。

 ここまで見れば、「なんじゃそりゃあ」と思われるかも知れない。少なくとも氏は思った。そして然る後にこうも思った「面白いじゃあないか」と。


 もちろん現実にこたつ道は存在しない。それを分かっていても、「あっても不思議ではない」と思わせる詳細な設定が見事だったのだ。微に入り細を穿つ綿密な設定があるにもかかわらず、その説明がくどいとは感じられない。

 歴史ある芸道ならば確かにあり得るであろう分家との争いや格言めいた言い伝えなど、あたかもこたつ道が室町から連綿と続く芸道として存在しているかのように錯覚してしまう。


 それでいて、「こたつのある部屋に入る前に、衣服を全て脱ぎ去り世の寒さ、厳しさを全身で感じてから再び着衣して部屋に入る」だとか、「こたつに入る前に座礼し、布団の端をちらと持ち上げて素早くこたつの中を確認、自らの足の置き場を瞬時に判断せよ」だとか、やっていることは非常に馬鹿馬鹿しくてそのギャップがまた面白かったのである。


 以前、三衣氏はコタツについて妄想した。自らのコタツ愛を出任せ出鱈目の嘘に乗せて語った。炬燵神は氏の中にだけ顕現する神である。まんじゅうのような妖怪・炬燵噛みも、氏のコタツにだけは生息しているかも知れない。氏は嘘吐きであるので、これはしょうがない。


 物語という物は嘘吐きが辿りつく終点の一つであると氏は考えている。


 もちろん、語る人すべてが嘘吐きだと言うつもりはない。物語を作る方法の一つに、嘘という道具がある。それだけの話である。そしてここでの嘘とは「事実ではないもの」を指す。妄想といってもいいかも知れない。そして、三衣氏はよく妄想を膨らませる。所構わず妄想する。部屋で、風呂で、布団で、コタツで。

 三衣氏が沈思黙考している時は七割が妄想世界を広げている時であり、残り三割は何も考えずに放心している時である。


 「こたつ」を読んで氏がぷりぷりと怒ったのは、その妄想に原因がある。平たく言ってしまえば、「ここまで整合性のとれたデタラメをつくれるのが羨ましい」ということであり、自らの嘘吐きとしての器の矮小さを嘆いていたのである。

 ひとえに、氏がコタツに対して深い愛情を持っていたが故のことである。自信のある分野で負けること程、悔しいものはない。




   ○   ○   ○





 三衣氏の読書歴は、氏が書についてあれこれ語っていることから想像できるより長くはない。読んだ本の総数は片手の指に100を掛けるだけでゆうに足りるだろう。

 氏が学生であった頃、特に義務教育を受けていた時代の話であるが、当時はちょうど“ライトノベル”という言葉が出来た時代であった。

 様々なレーベルが個性的な作品を多く排出し、それまでの小説業界にはなかったような、メディアミックスや映像化を前提にした作品が席巻しはじめた時代である。


 当時の三衣氏がそのような社会分析をしながら本を読んでいたか。否。確かに少量の本は読んでいたが、その頃の氏は任天堂のゲーム機に己のほとんど全てを捧げていた。コントローラーの左に十字キー、右に4つのボタン、上に2つのボタンがついた灰色の機械である。おかげで灰色の青春を送ることとなるのだが、氏はひたすら目の前の電子世界に没頭することを優先していた。


 そして義務教育も終わり、氏が灰色の機械から卒業するかに見せかけて、SONY製の灰色のゲーム機に浮気していた頃。ここでもまだ氏は書を進んで読もうとはしていなかった。

 灰色のゲーム機のおかげで灰色の学生生活を送っていた事に変わりはないが、ご存知だろうか。SONYの灰色のゲーム機はロゴの部分だけ赤、黄、青、緑とカラフルなのだ。

 三衣氏の高校生活も、大部分が灰色を占める中、同じようにほんの少しだけ、ロゴの占める面積分くらいの鮮やかな日々を送ったこともあった。

 この時代に読んでいたものと言えば、いくらかの文学小説とゲームのデータが羅列されたような、おおよそ本とは呼べぬようなものばかりであった。


 京都時代からである。氏が灰色のゲーム機からついに卒業し、同じくSONY製の黒いゲーム機に熱を上げていたのは。

 これまでの氏を振り返っても分かるように、氏の青春はゲーム機と連動している。つまり、この時は黒い青春を送ったのである。

 さすがの氏も灰色の青春は許せても、黒い青春は看過できなかったようで、桃色、薔薇色のキャンパスライフ目指してあれこれと下手な策を打ちまくった。京都市街の碁盤の目のような道路をくまなく巡るように遊びまわり、道の端に夢のキャンパスライフが落ちてはいまいかと常に目を光らせていた。結論、落ちていなかったが。

 ここで初めて、氏は書を手に取る。動機はいたって不純なもので、「なんとなく、読めたら格好良いではないか」という理由で古本屋で一冊、外見を重視していかにも重厚そうな筑摩書房の日本文学全集を買った。値段にして300円。その巻は太宰治を集めた巻であった、これが氏と太宰の文との出会いである。

 三衣史においてのこの出来事を“最も価値のある3枚ミツイ・ミーツ・ダザイ”と呼ぶ。


 厳密には中学の国語で「走れメロス」と出会っているが、文学として相対するのはこれが初めてだった。

 

 それからの氏は、冬はコタツにもぐって、夏はパンツ一丁で扇風機の前で。京都に構えた6畳の部屋で延々と書を読んだ。

 しかし書との出会いが遅かったためか、読むのはさほど速くない。むしろ遅い。一冊の文庫本を読み終えるのに2、3日かかることは今でもざらにある。

 

 世の中には、速読のスキルを持つ人もあるが、氏はあえてその技能を使わずに書を読む。確かに速読すれば多くの書に触れることが出来る。良書に出会える機会も多くなるだろう。

 

 ―――しかし、速読では文の意味は分かっても、文を楽しむことが出来ぬ。言葉の繋がりや文の抑揚、台詞や句点読点に至るまで楽しみ尽くしてこその書ではないか。

 意味だけを取って文学を読んだ気になっているのは愚の骨頂。例えるならば、すき焼きにおいて肉だけ食う嫌なヤツだ。ラーメンを頼んでスープだけ飲み干すような行為に他ならぬ!


 速読が苦手な三衣氏はそう負け惜しみを述べる。

 文において、意味を伝えることは一番大切なことであるが、氏はそれだけではいかんと言う。こだわりぬいた言葉、選びぬかれた句、鮮やかに組まれた文。これらを見つけ出し、読む楽しみは他には無い。

 三衣氏が自らのことを『文士』と言うのは、これらの事を常に気に掛けねばならぬと思っているが故のことである。

 その辺り、『物書き』や『作家』、『小説家』では弱いような気がしているのだ。文を読み、また自らも文を書く。文を扱う者としてのその矜持だけは譲れんと氏は言う。それゆえ、三衣氏は文士であるのだ。

 ただし、三流の。





   ○   ○   ○

 




 さて、本読み氏は三衣氏の五倍は本を読む。読んだ本の数は両手両足の指に100を掛けても足りない程の本の虫である。ブックワームである。そんなに文字を読み漁ってどうするつもりであるのか。いつか本読み氏が文字の海で溺れてしまうのではないかと心配でならない。いや、彼のことだから望んで溺れに行くかも知れない。

 そんな本読み氏であるので、「きっとこの本を寄越したのは俺に歯がゆい思いをさせるために違いない。もっと嘘の幅を広げろというメッセージなのではないか」と、三衣氏は手渡された文庫本を読み終えて考えた。


 それを本読み氏に伝えた所、「いや、ミツイ君はコタツ好きだから面白いんじゃないかなって」とあっけなく否定され、三衣氏は自らの目論見通り歯がゆい思いをした。


 人の好みをしっかりと把握してくるとは流石の一言である。「そのマメさで嫁さんをつかまえたのだな、このMr,マメ知識め!」と賛辞の言葉を並べた後、氏は「腹立たしいほど面白かった」と述べた。


 コタツでぬくぬくとしながら、三衣氏は考える。本読み氏にしてやられたのだから、何かしら仕返しをせねばならぬと。

 目には目を。歯にも目を。結局のところ、三衣氏に出来る事といえば文を書くことだけであるので、選択肢は他に無い。これはもう、しょうがないことである。

 本読み氏をうならせるためだけに、三衣氏はコタツでいそいそと妄想を膨らませて文を書いた。そうして出来上がったのが、件の「こたつ」に多分に影響を受けた短編、「鍋部、はじめました」である。


 これは、鍋を究めんとする部活、“鍋部”に入った主人公が鍋の深淵に触れ、仲間と共に鍋の素晴らしさについて語りながら、合法的に学び舎で鍋を食う物語である。

 それぞれの役職を持った諸先輩方との語らいの中で、主人公は鍋について理解を深めていく。部内では部長を鍋奉行、副部長を灰汁(あく)代官、火加減の調整役を火付改(ひつけあらため)と呼ぶ。卒業したOBの役職名は鍋年寄(なべどしより)である。

 主人公は雑用と食材の調達を一手に担う野菜方(やさいかた)として入部し、部の会計を任されている勘定方(かんじょうかた)の先輩ヒロインと調達する材料の予算攻防を繰り広げ対立もするが、最終的には和解し、親交を深める。


 と言う、鍋のダシに定番を突っ込んだだけの、ありきたりな青春小説であった。おおよそ5万字程度の短いものであったが、それを読んだ本読み氏はくすりと笑って「実にミツイ君らしい阿呆な作品だ」との評価を下した。

 

 氏はこの短編を書き上げるのに、おおよそ一月をかけた。主に、地方の面白い鍋を調べるのに時間を使っていたが、実際に話の中に登場したのは数百文字程度であった。


 さして時間が余っている訳でもないのに一体何をやっているのか。現代社会の効率化の波に真っ向から立ち向かう阿呆の所業であるが、三衣氏はずっと以前から阿呆であるので今更何も言う余地はない。

 

 三衣氏は変わらずじっくりと時間をかけて文を読み、妄想を膨らませてはいそいそと文を書くのである。



第二部、これにて終了です。

残すは第三部。少し間が空きますが、近いうちにまとめて更新したいと思います。


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