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『ミツイのトリセツ』  作者: 三衣 千月
中編 25才のミツイ
12/23

-11- ミツイと一人遊びについて

ミツイのトリセツ、中編のはじまりです。

50000字を目処にとか言ってましたけど、軽く越えそうです。


いっそ100000字越えを目処に組み立てればよかったかも知れないと今更ながらに思う三衣です。


ともあれ、お楽しみいただければ幸いです。

―――三衣氏と一人遊びについて


 さて、季節は秋である。前回の話は確か冬の前頃の話であったので、おおよそ一年ほど空いている計算になる。

 これは、筆者が怠惰を働いたわけでは決して無く、特筆すべきことがなかったからに他ならない。


 冬から春、そして夏にかけて、三衣氏は真面目に仕事をする。氏は「真面目に働く俺の勇姿を御覧じろ!」と声高に叫んでいたが、真面目に働く社会人のドキュメンタリーめいた物を記した所で誰が得をするのであろうか。

 三衣氏は阿呆でなければならないのである。これは、世の真理であり、ゆえに対偶もまた真である。阿呆で無いのならば、それは三衣氏ではないのだ。


 氏が真面目に働く時、氏の阿呆の血は鳴りを潜める。そうやって抑圧された阿呆の血が、例年夏の終わりから秋にかけてざわざわと沸き立ってきて、氏が無理無茶無謀を押し通す原動力となる。ふと思い立って遠くにまで出かけてみたり、友人たちと無計画に琵琶湖一週したりするのである。

 そうやって阿呆を堪能しつつ、氏はお気に入りの小説の一文を呟く。「これも、阿呆の血のしからしむる所だ」と。




   ○   ○   ○




 三衣氏は机に向かって真剣に考え事をしていた。暇潰しに何をしようか、と悩んでいたのである。氏は暇な時によく独り遊びをする。暇で無くとも、気分転換にと遊び出す。

 開け放った部屋の窓から秋の格調高い風が吹き込んでくるが、氏はどこからどうみても格調高さとは無縁の人間である。色気より食い気を地で行く三衣氏のことであるので、風に乗って運ばれてきた焼き芋の香りに腹を鳴らす方がらしいのである。


 こたつ布団の出されていない机の前で胡坐を掻き、氏はふと昔やっていた遊びを思い出してこっそり遊んでみた。

 学生時代の退屈な授業中や、客の来ない牛丼屋のバイト中にやっていた遊びである。それのことを、氏はことわざミキサーと呼んでいる。

 きっと誰もが一度はやった遊びである。ことわざや格言、故事などの二つの言葉を好きに混ぜて新しい言葉を作りだす遊びである。


 例えばこうだ。


・カラスの行水+豚に真珠→カラスに真珠


興味を他へと意図的に向けさせること。


用例

「ここは俺に任せて先に行きなッ!組織のカラス共に真珠をくれてやるぜ!」


「でも、それじゃお前が!」


「いいから行け!このままじゃ二人とも無駄死にだ!」


「だからって…ッ!」


「お前に貸した20ドル、まだ返してもらってないだろうが。

 きっちり利子つけて返してもらうぜ。ピザ奢れよな」


「……なんでも好きにトッピングしていいから、死ぬんじゃないぞ」


「安い利子だぜ。コークもつけてくれ」


「ああ。分かった。だから……」


「早く行きやがれ!奴ら、そこまで来てる!」


「……済まない」


 と、ここまで考えるのが一括りの流れである。氏の妄想劇場はこうやって幼少の頃から誰に披露する訳でもなく繰り広げられてきたのだ。ベタを好む氏であるので、どこかの映画で見たシチュエーションがそのまま出てくることもままある。




   ○   ○   ○


 


 特に氏が好んでミキサーにかけるのは次のことわざである。


・弘法も筆の誤り


 これは思いのほか汎用性が高く、なかなか良い素材であると氏は述べている。昔から困った時の弘法頼りとでも言わんばかりにネタに困った時は弘法大師をミキサーにかけては一人妄想を繰り返していたのである。


 聡明な読者諸賢にとっては先刻御承知の事であろうとは思うが、簡単に弘法についての説明を差し挟む事にする。

 弘法とは弘法大師の事であり、真言宗の開祖である空海と同一人物である。唐に渡って教えを持ち帰った、それはそれは偉い方である。書道の大家でもあったとされる空海であるので、上に記したようなことわざが作られたのにはそういった背景もあるのではないかと考えられている。


 もちろん、そんな事を幼少の三衣坊やが知るはずも無く、ただ「何となく有名なお坊さん」くらいの認識であったようだ。今でも三衣氏の認識は「有名なお坊さん」程度にとどまっている。弘法に対して失礼極まりない男である。

  

 幼い頃より綴られた「弘法合わせメモ」に書かれた内容が以下にある。走り書きされたメモの内容は決して事実ではなく、三衣氏の妄想の産物であることを念頭に置いて読み進めていただきたい所存である。




・弘法もおだてりゃ木に登る


 説法が上手いと誉められた大師がとった行動。木に登った大師は「真言密教!真言密教!」と叫んだと言う。この出来事より、立場が上の者は一段上に登って話をする、ということが習慣となった。




・弘法を叩いて渡る


 ある橋で大師が説法をしていた所、酔った通行人が大師の右頬を叩いて橋を渡った。

 大師が何も言わなかったので、他の見物人達もそれが大陸流儀の教えなのだと勘違いして次々に大師の頬を叩いて橋を渡った。

 大師はその度に、うずくまるように深く礼をしたと言う。しかし痛みでうずくまっていただけだと言う人もある。




・火のない所に弘法は立たぬ


 冬場、寒さの苦手な大師は焚き火のある所でしか説法を行わなかった。教えを乞う間は火を絶やさずにいなければならず、火番なる役職も出来るほどであった。

 大師の説法は始まると非常に長く、焚き火に集中していた火番の人間は説法が終わると疲れから倒れ込むように寝てしまうものが多くいた。

 このことから、火番の後は休む。転じて、長時間の勤務後の休みを非番と呼ぶようになったのである。




・弘法からぼたもち


 甘味類に目がなかった大師は常にぼたもちを所有しており、飢えたものがあれば「私の餅をお食べ」と懐から取り出してこれを与えたと言う。

 寺にはお抱えの餅職人もおり「大師!新しい餅よ!」と餅を届けていたことが弟子によって明らかにされている。

 



   ○   ○   ○




 他にも様々なメモがあるが、荒唐無稽とも言えるようなものをいくつかこうして書き出して見ると、三衣氏がいかに無益な事に血道を上げているか、ということが分かっていただけるのではないだろうか。機会があれば、氏の部屋にある本棚の一番下段、その左奥を調べてみると良い。似たように何の益にもならぬ事を綴ったノートが数冊、発見できる。

 間違えても、下段右奥、日本文学全集の裏だけは調べてはいけない。そこには氏を氏たらしめた、ある一通の便箋がひっそりとしまいこまれているからである。うっかり触れてしまえば三衣氏の阿呆が伝染する。

 その便箋は世界保健機関(WHO)の定めるバイオセーフティ―レベル4にも匹敵すると、とある三衣研究学の権威である学者は言う。そして三衣氏は頑ななまでに便箋の開示を拒否している。


 さて、ここまで好き勝手に妄想されて、弘法大師もいい迷惑であろう。流石に非礼が過ぎるかも知れぬと三衣氏も思っている。そう思うのならばやめればいいのに、「弘法には不思議な魅力がある。やめられない止まらない」とせっせと妄想を繰り返す。

 懲りずにあれこれ組み合わせては一人遊んでいるのである。その妄想範囲は故事、ことわざに留まらず、他のものにまで及ぶ。

 名言、名台詞との相性も抜群であるぞ!と三衣氏は言う。そう言って机に向かってあれこれ思いつくままに述べたものを見て、筆者の感想を括弧内に追加しておいた。


・十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの弘法

  (それが本当ならば、成人は皆悟りを開いていることになる)


・君の目の前に弘法は無い。しかし、君の後ろに弘法はできる。

  (歩くそばから弘法が生えてくる様を想像し、筆者は身震いした)


・天才とは、1%の才能と99%の弘法である

  (それはもう、ほぼ弘法と呼んで差し支えないのではないだろうか)


・ぶったね!?弘法にもぶたれたこと無いのに!!

  (大半の人間はそうである。筆者もぶたれたことはない)


・見える!私にも弘法が見えるぞ!

  (群衆の中、大人気の弘法が見えるのは筆者だけだろうか)


・飛ばねえ弘法はただの豚だ。

  (弘法が飛ぶ訳がない。ただの悪口雑言である)


・親方!空から弘法が!

  (飛んだようである。我慢ならなかったのだろうか)



 最早、弘法が何であるのか理解さえ出来なくなってくる。

 しかし、混乱している筆者を尻目に「どれと組み合わせてもある程度の意味を無理やり付けられる辺り、やはり弘法は良い素材である。これぞ、弘法筆を選ばずであるな」と三衣氏はうまい事言ったつもりになっている。


 これしきで得意になるとは、やはり氏は阿呆のようである。

 しかし、氏は最近阿呆の道を究めんとしているようであるので、生暖かく遠巻きに見守るのがよろしいのではないかと思う次第である。たまに着いていけないと思うのは筆者だけだろうか。いや、そんなことはない。読者諸賢の中に共感を覚えていただける方がいることを筆者は信じている。


 一つ、また一つと年を重ねる三衣氏であるが、根っこのところはいつまでも変わっていない。今更変わるものでもないし、そもそも変わりようが無い物なのかもしれない。

 三衣氏は、どう足掻いても三衣氏にしかなれない存在なのだ。

 つまるところ、阿呆なのだ。


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