-10- ミツイの年越しにおける作法について
―――三衣氏の年越しにおける作法について
氏は一人で年越しをする事となった。いつもならば家族と共に過ごすのだが、家族は氏を置いてどこかの温泉宿にいるはずである。氏は年越し直前まで仕事があったために行くことは叶わなかった。
『何処に行ったか詳しくは覚えていないけれども、せっかくの旅行なのでゆっくりしてくると良い。土産は野沢菜の山葵漬けを所望する。』と家族にメールを送ったところ、『長野だと分かっているのならばなぜ明言を避けるのか』と返信があった。
携帯電話を閉じてコタツに潜り、頭をごつんと天板に乗せて氏は呟く。
「悔しいからに決まっているではないか!」
○ ○ ○
一人の年越しなどいつ以来であろうか。思い返してみれば3年ぶりであった。久方ぶりと言う訳でも無く、頻繁と言う訳でも無い。何とも言えぬ微妙な数字でコメントに困る。その辺りを考えてくれなければ筆者としては困るのである。
しかし、そんなお前の苦労など知ったことではないと三衣氏はコタツでミカンを食べていた。コタツとミカンはどうしてこうも合うのであろうか。これぞ和の心であるとほくほく顔で座っていたのである。
三衣氏が動かなければ、こちらは何も記すことが出来ない。定点カメラのライブ映像のようにただただごろごろする氏を見つめ続けるなど苦痛以外の何者でもない。読者諸君も退屈でしかないだろう。
そこで筆者は一計を案じ、氏に対して質問を投げかけることにした。しかし、いざ質問を始めるという段になって、やれ「忙しい」だの「年越しくらいゆっくりさせ給えよ」だのと氏は言う。
一人黙して年を越そうという三衣氏が忙しいはずなど無い。むしろごろごろと寝正月になってしまう所を助けるような行為であるのだ。感謝されこそすれ、面倒くさいと言われるのは筆者としても多分に心外である。
いいから答えろこの阿呆めと一喝すると、氏はしぶしぶ姿勢を正して「何が聞きたいというのだコンチクショウめ」と悪態をついた。
ふてぶてしい態度をとる三衣氏に、お前は一人きりの寂しい年越しについてどう思うのだと聞いた。氏はふんと一つ鼻を鳴らし「一人であることと、寂しいという感情の間に相関性は無い」と言った。
―――確かに今年は単身、年を越す。それは事実だ。客観的事実は認めなければならない。しかし、だからといってそこに付随する感情とは一切関係ないではないか。部屋にはコタツがある。ミカンもある。何不自由ない空間だ。本棚から書を好きに取って読む自由もある。
人は一人でいる時、完全な存在となるのだ。まさにパーフェクト・ワールド。誰も自分を否定しない世界である。素晴らしいではないか。この六畳間で俺は真理を得ることすらできるのだ!
両手を広げて態度だけは気宇壮大にそう語った後、ぷしゅうとしぼんでぼそりと呟いた。
「いや、分かっている。ただの負け惜しみだ」と。
○ ○ ○
しかし、不貞腐れながらも氏は日々を楽しもうとする姿勢を忘れない。一人であるが故に自由は掃いて捨てるほどあり、独りであるが故に誰にも束縛されぬのだ。
年を越すにあたり、氏は近所のスーパーで年越しの為のアレコレを買い込んだ。アサヒのスーパードライと、気分でカゴに詰めこんだ食材達、そして小さな鏡餅である。
家に帰ってきて、氏はいそいそと鏡餅の置き場所を考えた。少し、氏の家について補足しておくが、賃貸である氏の家の間取りは少しややこしい。キッチンと十畳のリビングが一階部分にあり、階段を昇って二階に六畳の和室が一つと同じく六畳の洋室が一つある。氏のねぐらは六畳の和室であり、残りの部屋は物置である。
独り暮らしの割に妙に広い部屋に住んでいるなと思われるかも知れないが、本来は人と住むはずの部屋であったのだ。部屋を持て余すくらいならば引っ越せばよいと思うのだが、氏はしつこくメゾネットタイプのその物件に住み続けている。広さの割には家賃が安く、独り暮らし用の1DKとさして値段が変わらないのがその大きな理由である。
その部屋のどこに鏡餅を置こうか、氏は真剣に悩んでいた。二階の自らの和室が最も適当であろうと思われたが、隣の洋室には書籍が山と積まれており、書への感謝を示すためにも洋室に置くべきか。食への感謝を示すためにキッチンに置くべきか悩んだ。
コタツの上に置いた鏡餅とにらめっこしながらしばらく考えた後、「もうお前はココに居るが良い」と結論着けた。コタツの上に堂々と置かれる鏡餅。どうやら考えるのが面倒になったらしい。
○ ○ ○
しばらく書を読んで過ごした後、氏の胃袋から非難の声が上がった。何か詰めこめとの合図が鳴り響いたのである。
何もしなくても腹は減るのだなと読んでいた小説「時計館の殺人」を置き、一階に下りて食材の調理に取り掛かった。メニューは鍋である。
土鍋に昆布をえいやと沈め、適当に食材を切り、ざるに入れていく。氏はよく水炊きを作る。鍋は基本的に楽なメニューである。氏もそのつもりで鍋にしたのではないかと思うが、氏はこれを否定する。
―――独りある身はなんとせう。確か、誰かの詩の一節だったか。どうするもこうするもない。面白く過ごす以外に何かあるというのか。水炊きとは、一人の年越しに欠かせない唯一にして絶対の料理であるぞ!
そう、氏は力説した。
家族揃った年越しでは、かならずせわしなく動く誰かがいる。それは、母親であったり、親戚の料理上手であったり、また祖母であったり様々だ。幼い頃の氏の家ではその役目は父親であった。
年を越す前後には蕎麦が、元日には縁起物と称して様々な食材が食卓に並ぶ。家人は蕎麦をずるずると啜り、来年も細く長い付き合いを続けようではないかと言いながら紅白を眺め、縁起物を食べてあけましておめでとうと朗らかに挨拶をする。
その裏で、食材の準備に勤しむ者の姿があることを忘れてはならない。もしも一人でこれをこなそうものならば、蕎麦を湯掻いている間に紅白はおろか往く年来る年も終わり、気付けば次の年である。朝から一人でおせちなどの縁起物の準備をすれば、重箱に詰め終わる頃には三ヶ日などとうに過ぎ去っている。
それほど、年末年始の時間の流れというものは矢の如しであり、無常なのである。
そこで水炊きでありますよ!と氏は強く拳を握る。
出汁をとり、食材を入れて火にかけるだけの手間で様々な食材を食べることが出来る。年越しの直前に土鍋に蕎麦を放り込めば、年越し蕎麦とてお手の物である。正月に縁起物が食いたければ、海老や蟹を放りこめば良い。年が明ければ餅を入れて雑煮風にしても良い。
何より賞賛されるべきは、カセットコンロに置いてコタツから出ることなく調理が出来る、という点である。そして何となく豪勢に見える。酒とも合う。非の打ち所が全く無い!
誰にともなく鍋の深淵について語っているうちに、鍋に沈めた昆布からは良い出汁がとれ、あとはくつくつ煮るだけとなった。
氏は鍋の具材として入れる予定であった海老を見つめ、ひょいと数匹を取り上げて網の上に置き、塩を振って炙った。酒の肴にと我慢が効かなかったようである。
○ ○ ○
氏の年越しの作法については以下の通りである。
まず、鍋を用意する。そしてそれを楽しむ。気が向いたら初詣に出かける。ただそれだけである。作法と呼べるほどのものでもないが、一人の年越しに鍋だけは欠かせないと氏は言う。
用意をしていると年越しの瞬間まであともう数時間という所まで迫っていたが、氏は何ら気にする事なく「誰に急かされるという訳でもない。落ち着いて鍋をつつけば良い」とカセットコンロを二階の和室に運んだ。
その際に、氏は机の上に置かれた鏡餅を見て「なぜお前はそんな邪魔なところに居る!」と悪態をついた。その後、自分でそこに置いたことを思い出して「お前は何も悪くない。すまなかった」と謝った。阿呆の所業である。
鏡餅をコタツの向かいに置きなおし、「詫びにお前と差し向かいで飲むことにしよう」と鏡餅に対して“加賀君”と名前をつけた。
加賀君はどこまでも色白で寡黙な男であった。当然である。餅なのだから。
その白い肌と寡黙な態度は氏の阿呆っぷりをより引き立てる事となった。
氏の鍋の作法において、一番先に食すのは白菜である。これは、昆布出汁の具合と鍋のぬくもりを知るのに、じんわりと温まった白菜が最も適しているからだと言う。
酒を飲み、白菜を食べ「上々だ」と呟いたところで、氏の携帯にメールが届いた。鍋を邪魔する不届き者は誰だとぷんすかしながらも、どこかで誰かからの年越しを共にしないかとの誘いである事を期待していた氏の精神は随分と軟弱である。
結論から言えば、メールは家族からであり、『露天風呂が素晴らしかった』だの、『飯が美味い』だの書かれていた。
「なぜこのタイミングでどん底へ叩き落とすのだ!」
氏は年越し数時間前に独りである事を無残に突きつけられた。
○ ○ ○
若者よ、書を捨てて町に出ろ。書を読みふけり、積み重ねすぎた氏の妄想劇場は部屋の隅で高く高くどこまでも積もっている。このままでは崩れ落ちてきた妄想劇場に押しつぶされるのは時間の問題である。
食べ終わった鍋をそのままに、氏は潰されてはたまらんと深夜の街中に出た。どのみち、自分は孤独なのだ。こうなったらとことんまで正月の孤独を味わいつくしてやろう。
そう考えて氏は近鉄電車に乗って年が明けたばかりの町中を一人移動した。年末年始を24時間休むことなく動いているこの鉄道会社に氏は多大なる敬意を払わなければならない。
目指したのは奈良にある春日大社という神社である。神の御使いとして愛くるしい鹿を置く素敵な神社であり、正月は初詣の客でごったがえす場所でもある。
孤独を得るといっている割に行動が伴っていないと思われるかも知れないが、これが氏なりの孤独の感じ方である。
―――人は多ければ多いほど良い。雑踏の中にある孤独は、自己と他との繋がりを明確にする。人混みを眺め、ただ一人そこにいる自分を認識することこそ、真に孤独を感じることと同義であるのだ。
よく分からない理論を持ち上げ、氏はゆらゆらと人に流されて春日大社で初詣をした。さりとて願う事もなかったので、「今年も俺の生き様を御笑覧あれ」と二礼二拍手一礼にて述べておいた。春日大社の神もさぞ混乱したに違いない。
詣でた時間よりも、屋台で買ったたこ焼きやベビーカステラを食べながらぼんやりしている時間の方が長かったので、氏は単に屋台のアレコレが食べたかっただけなのかも知れぬ。
存分に独りであることを楽しみ、「ああ、寒いほどひとりぼっちだ!」と井伏鱒二の山椒魚の一節を口に出して悦に入ろうとしたが、ぴゅうと吹いた風に当てられて「ああ、寒い!」と呟くに留まった。
すっかり日も高くなり、家に帰って鍋の残りを雑炊にして食べながら氏は結局だらだらと正月を過ごした。
後日、家族から土産である野沢菜の山葵漬けを受け取り、正月は何をしていたのかと聞かれたので「鍋を食って寝ていた」と答えた。
たまにはこんな正月もいいものであると氏は思っていたが、家人からの憐れみの目には気付かなかったようである。
いや、気付いてはいたが見なかったことにしておいたのだろう。
自分に都合の悪い所は華麗に見なかったことにする辺り、やはり三衣氏は阿呆である。
年をまたいでもその事実に変わりはないようだ。