北への進軍 アッシュ・ウォルトンの手記
カイト達が南の砂漠地帯でデズモンド軍と相対する頃、アッシュはシルベストリ共和国の牽制のため北に向かっていた。
ウィルヘルム公率いるラトビア軍8,000人の兵士に立ち塞がるのは北の氷壁の仇名を頂戴するシルベストリの猛将トリュース。
ラトビア王国の北の玄関口と言われるセルタの街。
振り返るとそのセルタの街が遠くなりつつある。玄関口と呼ばれるだけあって機能美優先ながらもその中に意匠をこらした建造物が並ぶ様は行き交う旅人に一時の安らぎを与えてくれるらしい。
(とはいえ、俺達は軍人なわけだが)
意識を前方に戻す。
約八千の結構な規模の軍勢が縦横に連なり北を目指すその先鋒を俺が率いる800人の隊が務めていた。
「アッシュ隊長、何か気にされてます?」
俺ーアッシュ・ウォルトンーの左をカバーするように馬を進めるのは副長格のメルシーナだ。ランセルがシャリーと共に南方の砂漠地帯に任務で行ってしまったので今回の遠征では彼女の負担が大きい。
その長い黒髪を風になびかせながら問うてきた彼女に俺は「何でもない。だいぶ北に来たなと思っただけだ」と返した。
無愛想ではなかっただろうか、とちらりと後悔が胸を掠めたがメルシーナは「そうですね。少し涼しくなりましたし」と微笑んでくれた。
今でもメルシーナと話すと僅かに心が痛む。仕事上は俺が上司で彼女が部下にあたるため遠慮はしないようにはしているが、内心は彼女を呼び捨てにするのは抵抗があった。
二年前のあの日、俺を庇って亡くなった上司の訃報を告げに行ったあの日から今までメルシーナの顔を見る度にちくちくと心に刺が刺さるような錯覚がある。
それが自責という名の甘えなのか、あるいは形を変えて歪んだ彼女への好意の表れなのか自分でも分からないまま、この二年は過ぎていった。
シャリーが聞いたら「何をうじうじしてんのよ」ときつい叱咤をくれること間違い無しの不安定な状態でよく二年も過ごしたと思う。
だが今はそんなことを考えている場合では無い。
このラトビア北部の草原の先、敵対するシルベストリ共和国の前線の拠点であるカルドゥン城攻略が今回の遠征目的だ。
もっともこの遠征の総大将であるウィルヘルム公はシルベストリを威嚇するのが主目的であり、堅城として名高いカルドゥン城の攻略は出来たら儲けものと言っている。
(まだシルベストリと本格的に戦う時期じゃないってことだよな)
小競り合いこそあるがこの竜の大地を占めるデズモンド帝国、シルベストリ共和国、我らのラトビア王国、砂の部族達の四大勢力は良くも悪くもその存亡をかけて戦うという事態だけは避けて共存してきた。
時折、その国家間の関係が緊張感を高め今回のような割と大規模な戦になることはあるがその一線を踏み越えた大戦はここ数十年無い。
だがそんな危険な安定がいつまでもつのか。このカルドゥン城攻めがそれを崩壊させる一歩になる可能性だって否定は出来ない。
(そうなったらそうなった時のことさ。今は目の前の任務に集中する)
思考を切り替える。
あと数日もすればカルドゥン城が見えてくるだろう。シルベストリの軍勢と剣を交えるのであれば油断は死につながる。
騎馬に取り付けた愛用の馬上槍の冷たい鋼の表面を触りながら俺は戦いへ向けて意識を集中させた。
******
騒々しくない程度に兵達が会話する中、俺は木にもたれながら自分の武器を研いでいた。
目を上げると黒っぽい色彩の城が木々の間から小さく見える。目指すカルドゥン城だ。
まばらに生えた木と草原というお世辞にも防御側に向いた地形ではないのに、未だこの城は落とされたことが無い。
それも一重にあの城の城主の武勇と統率力によるというのがもっぱらの噂だ。
明日には恐らく初戦となる。侍従に任せてもよいのだが自分の武器を手入れして集中力を研ぐのがいつの間にか戦の前の癖になっていた。
「よお、アッシュ。久しぶりだな、元気か?」
陽気な声には聞き覚えがある。立ち上がりながら軽く礼をした。
「バーナム隊長、お久しぶりです」
長身の男はにっ、と人好きする笑いを浮かべている。灰色の逆立った髪に肩に担ぐようにした大剣が印象的なこの男には怖いものなど無いかのようだ。
男ーバーナム・アトキンス隊長には何度か同じ任務で世話になったことがある。きっぷのいい先輩として今でも時折酒を酌み交わす仲だ。
「隊長はよせよ、アッシュ隊長。お前だってもう立派な隊長格じゃねえか。俺を立てる必要はねえさ」
「そうなんですけどね、年長者に対する敬意ってやつですよ」
「そいつはいい心がけだ。。っと、おしゃべりはここまでだな、兄貴が呼んでるぜ」
それを早く言って欲しい。
バーナム隊長の兄、則ち総大将たるウィルヘルム公のご指名ならば早く行かなくては。
磨きかけの剣を鞘に収め、俺はさっさと総大将が野営時に使うテントに向かった。
バーナム隊長も何も言わずについてくるが彼がもとは呼ばれたのだろう。
頑丈さと質実剛健を絵に描いたようなテントに着くと中から漏れる静かな圧迫感に気圧されそうになった。
一つ深呼吸をして「アッシュ・ウォルトン、入ります」と言ってからテントの入り口にあたる幕をめくる。
「来たか。わざわざ呼び付けてすまないな」
堅い響きの声が俺の耳を叩いた。
魔法で点したらしい丸いランプがほの暗いテントの中を照らすその淡い光の中に声の主が椅子に座っている。
ウィルヘルム・アトキンス。ラトビアを支える絶大な魔力を誇る宮廷魔術師第一位の灰色のローブ姿が静かな威厳を湛えて光の中に浮かんでいた。
(いつ会っても圧倒される。同じ人間なのか?)
別に声を荒げているわけでも無い。ただ静かに座っているだけだが、鍛え上げられ鋼とすら噂される精神力と魔術師としての突出した実力が無言の迫力を生み出している。
若手のエースとして騎士団を支える俺も腕に覚えが無い訳ではないが、騎士と魔術師という職業的な差異を踏み越えて尚埋めがたい実力差があるのを認めざるを得なかった。
その畏怖の対象が口を開く。
後からついて来たバーナム隊長は既に他の椅子に座っているが、俺はまだ立ったままだ。
「とりあえず座りたまえ。明日のカルドゥン城攻めについての軽い訓示だ。堅くなる必要は無い。バーナム、お前もだ」
「おうよ」
兄弟といっても全くこの二人は性格違うなと思いつつ、「失礼致します」と断った上で俺も腰掛けた。
テントの中にいた侍従が差し出す紅茶のカップを両手で包む。
「正式な軍議はこの後予定通りに行うが、その前に二人に聞いておきたいことがあってな」
「何でしょうか?」
バーナム隊長は黙ったままだ。とりあえず俺が受け答えすることにしよう。
「うむ。アッシュ、今回のカルドゥン城攻め、君は城の奪取まで可能だと思うか?正直に意見してくれて構わん」
「・・・難しいかもしれません」
紅茶のカップをくるりと手の中で回しつつ、俺は答えた。
「何故だろうな?兵力が足りないか?あるいは向こうの備えか」
ウィルヘルム公が尋ねる。多分この人は自分の中で既にそれを分かって聞いてきているな、と何となく思いながら正直に答えた。
「兵力というよりは今回の戦の大儀の問題です。野戦と異なり城攻めは攻める側にかなり不利です。それを克服するには圧倒的に多数の兵力か戦にかかる大儀、別の言葉で言えば兵一人一人の覚悟や気力が高い水準で必要です。
ですがそのどちらも我々には無い。シルベストリに一泡吹かせようというやる気はあってもあの堅城カルドゥンを攻め落とす程の覚悟までは無いでしょう」
精神論をふりかざすほど頭が堅くないつもりではあるが、それを差し引いたとしてもあの城はきつい。
まるで守りに向かない地形においてシルベストリの番犬の如くラトビア王国に睨みを効かせるカルドゥン城はラトビアの兵にとっては鬼門だ。
戦で功をたてたい、生きて帰りたいという感情だけではあの城は落ちない。
城側の三倍以上の兵をもってしてギリギリというところだろうか。
俺の返答を聞いたウィルヘルム公が腕組みをしてバーナム隊長の方を向いた。
無言の問い掛けにバーナム隊長が即答する。
「俺もアッシュと同意見だな。確かに城を落とせばとんでもない戦功になるって気分はあるだろうが通常以上の士気は兵から感じられねえ。
俺なら城の奪取よりは野戦に何とか持ち込むね。それでもシルベストリの奴らに一杯食わせられる」
一見粗野に見えるバーナム隊長だが戦術眼については定評がある。
実弟からの否定的な意見をウィルヘルム公は超然と受け止めた。
「正しい分析だな。我々の今回の遠征はシルベストリにきつい仕置きを加えること。カルドゥン城の奪取はおまけと思っていたがやはりきついか。。」
「城攻めはどうします?」
苦い顔つきのウィルヘルム公に聞いてみた。奪取までは無理でも相手の居城を攻撃して敵の防壁を削るのはよくある。
「それは行う。今回は無理だとしても次回がある。どの道、いつかはシルベストリと雌雄を決するのだ。カルドゥン城を少しでも破壊し次へと積み重ねれば良い」
へえ、とバーナム隊長が声をあげた。
「その言い方だとまるでこの遠征が終わってもすぐにシルベストリに攻め込むように聞こえるけどな。全面戦争に踏み切る気か?」
兄とはいえ、重鎮中の重鎮に対して率直すぎる物言いだがウィルヘルム公も止めない。これが非公式の会話だからだろうか。
「決まったわけでは無い。陛下の裁決も仰がなくてはならんしな。だが個人的にはそろそろシルベストリ共和国の領土を切り取っておきたい野望はある」
ここ数年その辣腕をあえて抑えていたような部分もあるが彼の本心が覗いた気がした。
内政にも手腕を発揮するウィルヘルム公だが本質的には攻守万能の軍略家だ。目障りな北の強敵に本気で牙を剥き始めようとしている。
俺とバーナム隊長が何と反応していいか分からず黙っていると、ウィルヘルム公は苦笑混じりに「今すぐの話では無い、それにどのみち今回の戦だけに限れば奴らに一泡吹かせられれば十分だ。アッシュ、バーナム両隊長に聞いておく。
敵大将のトリュースを討ち取れる自信はあるか?」
トリュースという単語を聞いた瞬間、自分の背が緊張するのが分かった。
「一対一ならば互角と考えております。あとはやってみなくては何とも」
「真剣でやり合うなら願ってもねえ好敵手さ、これで答えになってるかい?」
俺とバーナム隊長の答にウィルヘルム公は頷いた。
鋼に例えられるその険しい顔が冷たさを帯びた。
「何度も煮え湯を飲まされた相手だ。
カルドゥン城は奪えなくても奴は排除しておきたい」
冷たい怒気がしのばされた言葉に俺も同調するところはある。
北の氷壁とあだ名されるトリュース将軍。
シルベストリ共和国の名うての猛将にしてラトビアへの抑えとしてカルドゥン城の城主。
ウィルヘルム公にしてみれば近年に北へ進攻するかは別としてもそろそろご退場願いたい相手だろう。
(勿論相手にとって不足なし。どころかお釣りが来るか?)
俺の内心を知ってか知らずかウィルヘルム公はこの非公式の軍議を終えた。
どっちみち重要なのは明日だ。今日この後行われる公式の軍議で決定した方針に沿って明日、北の氷壁に挑むことになる。
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明朝、両軍の緊張感が高まる中、ここカルドゥン城前面の平原には俺達ラトビア王国の正規軍8000人とシルベストリ共和国の正規軍ー隠された兵がいなければ同数程度か?ーが対峙していた。
ざわざわと興奮を抑えられない兵達のざわめきや軍馬のいななきが敵からも味方からも聞こえてくるが全体の印象としてはむしろ静かだ。
(この後の怒涛の喧騒に備えているみたいだな)
武装を整え馬上の人となった俺は前方を見渡した。
整然と並んだ敵兵の武器は生憎の曇り空のため輝きもくすんでいるが、それでもその中心にいる一人の騎馬兵が目をひいた。
水色に白い蛇の描かれたシルベストリの軍旗の下、威風堂々という言葉を結晶化させたような大柄な男が黒い鎧を着込んで自分の体格に合わせたようなやはり大きな馬に跨がっている。
「あれがトリュース将軍。。噂に聞く北の氷壁ですか」
隣に並ぶメルシーナの声が堅い。彼女はトリュースを見るのは初めてだがこれだけ離れていても相手の強さが伝わってくるらしい。
「ああ。絶対一対一で戦うな。やるなら囲んで叩け。一人で何とか出来るのは俺かバーナム隊長くらいだ」
「アッシュ隊長が負けるとは思っていませんが、それでもあれは危険では?」
「かもしれない。五分五分がいいところだと思う」
トリュース将軍と戦ったことは無いが一度シルベストリに出兵した時に偶然彼の部隊とすれ違う機会があった。その時に噂に聞く北の氷壁の戦いぶりを目の当たりにした経験があるからこそ今の俺と互角と踏んだのだが、実際どうかは分からない。
とにかく隙が無い相手だという印象が強い。
攻撃も防御も癖が無い。取り立てて特徴らしい特徴が無いのは全体的な攻守のバランスが高レベルで秀でているからだと気づいたのは後で思い返した時だった。
そういう相手こそ手強いのだ。
「そう心配しなくていいさ。俺も命は惜しい」
こちらを見るメルシーナの視線が痛い。彼女の夫を追う気は無かった。俺が死んだら誰が彼女を守るというんだ。
ガシャリと兜をかぶり直したその時、両軍から猛々しいラッパの音が響いた。
開戦の合図だ。どちらもその武器を構えて前に出始める。
「よし、行くぞ!北の氷壁を砕くのは俺達だ!」
配下の兵に号令を下し馬に拍車をくれた。
兵と馬の足に草が踏まれ、大地は重い突進音を産んでいる。
俺は馬上槍を構えシルベストリ軍目掛けて速度を上げた。
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そもそも城に篭り戦った方が余程有利なのだが奴らにその気はまるでないらしい。
流石に城を奪われない為の守備兵くらいはいるのだろうが、この野戦に全てを注がんとばかりの高い意気で向かってきた。
(良将の下に弱兵無しか!)
馬の突進力をそのまま攻撃力へと変える馬上槍の豪快な一撃で敵の先陣を切り崩した後は、いつもの長槍に切り替えた。
今回の戦の為に新調した十文字槍が唸りをあげる度に血の華が咲く。
切る、突く、払う。
万能性において刃が十字路のように組み合わされたこの武器の右に出る武器は少ないだろう。
ザン!と音を立てて切り裂かれる敵の歩兵の絶命を確かめる暇も無く、すぐに次の敵が襲ってくる。
両手持ちの槌の一撃が振るわれる前に素早く突きを数発入れてその戦闘力を奪った。
槍を振るいながらメルシーナの姿を横目で確認するとどうやら心配無用だったようだ。
副隊長として隊の統率を補佐しながら自分もシミターを振るって勇戦していた。
(ま、そう簡単には倒されないか)
たおやかな物腰と美しさに惑わされるがメルシーナは強い。剣速だけなら俺といい勝負だ。余程の事が無ければ大丈夫だろう。
しかし彼女一人しか頼れる部下がいない不便さも戦闘が進むにつれ感じ初めていた。
堅実な用兵と味方を献身的に鼓舞するランセルが不在なのは痛い。
「砂漠地帯なんかでくたばるなよ!」
この場にいない頼れる女房役に応援を送りながら厳しい戦闘を続ける。
隊の右から展開している俺の部隊か、あるいは左から大回りに回り込むバーナム隊長の隊のどちらかがトリュース将軍の本隊を狙うという筋書きだったが中々思うようにはいかない。
(一度引くべきか?)
敵の防御が堅い。左右に回り込んだ俺の隊とバーナム隊を警戒したのか、中央から少し左右に兵を割いているように思える。
このまま無理強いすれば損害が増えるばかりだが、かといって急に引けば一気に押し込まれかねない。
結局、相手の注意をもう少し引き付けようと決めシルベストリ軍の右翼前方に矛先を絞り込んだ。
「隊長、左肩にひびが。手当を」
「いい、掠り傷だ。それより中央での激突はどうなっている?」
戦闘の合間、一瞬空白になった時間帯にメルシーナが気遣かってくれた。
乱戦の中で攻撃を当てられたのは事実だが大したことじゃない。回復呪文の使い手はもっと重傷者に回すべきだろう。
「はい、ウィルヘルム公自らが指揮をとられているのもあって若干優勢なようです。ただ一気に崩せる感じでもありません」
「あれだけウィルヘルム公が武器魔力付与をかけて強化したのにか。予想以上にやるな、トリュース」
思わず舌打ちしてしまった。開戦前に実に二百人の兵に一人でウィルヘルム公がエンチャントウェポンの呪文をかけたのを見た自分としては信じがたいが、それでもほぼ五分とは。
魔法には素人の俺だがエンチャントウェポンの恩恵は実際にかけられた時にしみじみ感じている。
いつもの武器がより切れ味を増し、軽くなりさらに血糊までつきにくくなると地味ながら有り難い効果があるのだ。
比較的初級の魔法とはいえ、それを二百人にかけられる程の魔力量を持つウィルヘルム公には空恐ろしさすら感じるものの、彼が味方でいてくれて良かったと本気で思う。
「即席とはいえ二百人の魔剣軍団でも北の氷壁には通じずか。手強いな」
「ええ、でもまだウィルヘルム公も本気を出していないでしょう。本気で攻撃呪文を唱えたような気配がありませんから」
メルシーナに頷く。恐らく奥の手として温存しているのだろう。
そしてこの短い会話の間に俺は次の行動を決めた。
「メルシーナ、隊をまとめろ。今の内にカルドゥン城を攻めるぞ」
「え?私達だけで落とすのですか?」
メルシーナがいぶかしげな顔になった。鎮静化していた戦場が再び激化していく。
敵の隊が纏わり付き初めるのを打ち払おうと馬をそちらに向けながら俺は答えた。
「ふりだ。氷壁を慌てさせて城にとって帰させる為のな」




