不思議の国の・・・
「すまんが、あいつを尾行してくれないか?」
男はいきなり俺に話し掛けてきた。
「突然でびっくりしたことだろうけど、なんとか頼まれてくれ」
その男は五十代ぐらいであろうか。割合に身なりの良いスーツを着ているのだが、炎天下を走り回ってきたかのようにヨレヨレにくたびれてしまっていた。
「どういうことですか?」
わけがわからず、俺は聞き返した。
「詳しい説明をしている時間は無いんだ。尾行して欲しいのは、ほら、あいつだ」
指を示す先には、今の時代には珍しい山高帽をかぶり、黒いスーツを着た初老の男がステッキを突きながら、ビル街の人込みを歩いて行くのが見えた。初老と思ったのは、帽子の裾からほとんど真っ白になった髪の毛がフサフサとはみ出していたからだった。
「そうだ。あの帽子の老人だ。ああ、こうしている間にもどんどん離れていってしまう。どうなんだ、頼まれてくれるのかくれないのか。ハッキリしてくれ」
高飛車な男の言い方に、俺はちょっとカチンときた。だが、男が切羽詰っていることもひしひしと感じることが出来た。
「もう少し詳しく教えてもらえませんか?このままじゃ何が何だか・・・」
「解る。それはよく解る。が、実は私もあまり詳しいことは解らないんだ・・・あっ、そうだ」
呆れ顔でその男を見ている俺の手に、男はなにかズシリとした手応えの物を握らせた。
それは、手のひらにスッポリと収まるほどの大きさの青銅に輝くメダルだった。大きさの割には重量感があり、チラッと見ただけだが模様は竜の紋章のようで、いかにも値打ちがありそうな代物だった。
「そのメダルは『信頼のメダル』というものだ。とても大切な物なのだが、君を信用して預けよう。あの老人は、どうやら私が尾行していることに気が付いたらしい。そこで、私の代わりに君に尾行を頼みたいのだ。あいつがどこに行くのか、それを探ってほしい。君が情報とメダルを持って帰ってくるのを私はここで待っている。当然、報酬は払う。それと、これは当座の費用だ」
そう言うと男は、スーツのポケットから無造作に高額紙幣の束を取り出すと、俺のスーツのポケットに捻じ込んだ。後で数えると、それは俺のひと月分の給料より多かった。
こうなると無碍に断ることも出来ない。金に目がくらんだわけではないが、俺は腹をくくった。
「わかりました。やってみましょう。ところで、あなたのお名前だけでも教えていただけませんか?」
「名前か?そうだな・・・私は有栖川という」
「有栖川・・・さんですか。僕は・・・」
「君の名前はいいんだ。とにかく早く追ってくれ!」
老人の姿は、かなり遠いところで人込みに紛れて見え隠れしている。まだ戸惑いがちな俺を、有栖川と名乗った男は押し立てた。
意を決して歩き出した俺の背中に「信じているぞ!」と、有栖川の力強い声が響いた。俺は一瞬、有栖川を返り見て、大きくひとつ頷いた。
オフィス街の雑踏は、尾行をするのになんと都合の良いものだろう。山高帽の老人から適度に距離をおいて、俺はゆっくりと尾行を続けた。老人の足はそれほど速くない。どちらかと言えば足取りは遅いほうだろう。いきなり、ほとんど有無を言わさずという風に非現実的な行動を強いられたのだが、どうやら俺は、この『尾行』というやつがけっこう楽しくなってきたようだ。
ついさっきまで、俺は得意先の担当者にねちっこい嫌味を言われながら、ペコペコと頭を下げていた。営業という職種がら、得意先の機嫌を取るのは必要な行為である。今の不景気な世の中では、それは尚更のことだ。値下げ競争の行き着く先は、やはり「如何にして得意先に気に入られるか」という営業職の基本姿勢だろう。
とはいっても、自分を抑えて「営業姿勢」を持続することはストレスが溜まる。毎日の現実から離れて、こういう突拍子も無い非現実的行為を取ることは、格好のストレス発散にはなる。
山高帽の老人は、歳を食ってそうな割には軽快な足取りで進んで行く。
オフィス街の中心にある地下鉄の駅から電車に乗り、郊外の住宅街をふらふらと歩き、バスに乗ったりまた電車を乗り継いだり。
携帯電話で、訪問する予定だった得意先に断りの電話を入れ、会社には得意先から真っ直ぐ帰宅すると嘘をついて、追いかけている俺のほうがへとへとになりながら、それでも追跡を続けていた。
辺りはもうとっぷりと日が暮れ、晩飯の時刻も過ぎようとしていた頃、俺の頭に、何故こんなにも一所懸命になって追跡を続けているのだろうという考えが芽生えてきた。
全てはあの、有栖川という男の言葉だ。そして―――俺は、上着のポケットの中から有栖川が『信頼のメダル』と呼んだメダルを取り出した―――このメダルだ。
しかし『信頼のメダル』は、何度もポケットから取り出したり触ったりしたおかげで、最初にあった光沢は薄れてしまっていた。
俺は、光を失ったメダルを見たとき、一瞬にして悟ってしまった。
(いっぱい食わされた!)
よくよく考えれば、おかしな話である。この21世紀の世の中で、山高帽をかぶっている人間などそうざらには居ない。俺が尾行をしている老人は、明らかに目立ちやすい格好をしているではないか。しかも老人は、家に帰るでも無く目的地がある様子でも無く、ただ「鬼ごっこの鬼」のように逃げまわっているだけなのだ。その上、俺が老人を見失ってしまいそうになったことが何度かあったが、そのとき老人は、山高帽が目立つように背伸びをしたり、ステッキを振り上げたりして、絶対に見失われるような行動をしなかった。
何故こんなうさんくさい話を信用してしまったのだろうか?
俺は、もう一度『信頼のメダル』を見た。
俺が有栖川の話を信じてしまったのは、このメダルを見てからだ。たぶん、どうしてかは解らないが、このメダルの光には人を信用させる何かがあるのだろう。
今、老人は駅のホームで電車を待っている。当然、俺も少し距離を置いて同じホームに居る。
時刻を見ると、あと5分ほど電車は来そうに無い。
ふと、柱の影を見ると、髪を金色に染めた、それでいて人の良さそうな青年を見つけた。
「君、すまんがあいつを尾行してくれないか?」
戸惑う青年に俺は簡単に訳を話し、ハンカチで綺麗に拭いて光沢を取り戻したメダルを渡し、軍資金として有栖川に貰った金を渡した。
「俺は、君が戻って来るまでここで待っている」
と俺が言うと、電車に乗り込んだ青年は俺の名前を聞いてきた。
「俺か・・・俺は、有栖川という者だ」
閉まりかけた扉に向かって、「信じているぞ!」と俺が力強く声を掛けると、金髪の青年は右手のこぶしを握り締め親指を突き立てて大きくひとつ頷いた。
電車がホームから離れて行くのを見届け、俺はゆっくりとその場を後にした。
しかし、すぐに立ち止まり、電車の去って行った方向を眺めながらこう思った。
このゲームはいったいいつまで続くのだろう。
そして、山高帽のあの老人は、何処から来て何処に行くのだろう・・・と。