その四
会場の近くに来ると大勢の人々の熱気が漂っていた。梅雨もまだ明けきらぬ湿度の高さに、さらにこの熱気で空調設備が悲鳴をあげている。晋一は、会場の正面のドアの前で田村と別れた。晋一の前には、ドアを開く者が左右に一人づつ待機している。ドア越しに聞こえてくる司会者の声は、何やら大げさな言葉をならべたてている。
晋一は、自分が置かれている状況が滑稽でならなかった。まるでサーカス小屋のピエロの登場のような感じがする。いつものように正面のドアが開き、スポットライトを浴びながら登場するんだ。右手を軽く掲げて場内を練り歩くさまは、人形劇の主人公のようだ。そこに居るのは、僕であって僕ではない。今の僕は、世間が作りあげた偶像なのではないだろうか。
あの日、小五の夏休みに宇宙人から埋め込まれた頭の機械のおかげで、神童と呼ばれるようになった。何でも一目で記憶することができた。百科事典を何十冊と丸暗記して皆を驚かせ、やがて僕はテレビのスターになった。どんな語学も瞬時に習得できた。どんな学問も数式も化学式も……。
今では、数多くの博士号と数百にものぼる特許に、莫大な富。何不自由のない生活をしている。もちろん国家からの手厚い保護も受けている。若干、二十二歳の若造なのに。
でも、自分で望んだ生き方じゃない。僕は、ただ回りの大人達から言われるままに記憶し、計算し、理論を構成しただけなんだ。まるで不思議な生き物を見るように実験されていた。身体のあちこちに計測機器を取り付けられたりもした。
僕の回りには、いつも大勢の大人達がいた。僕は商品なんだろう。ビジネスチャンスだと思って集まる人々にとって僕の感情など知ったことではない。結局のところ、彼らに振り回されて生きてきたんだ。そのあげく、昨夜更新に失敗して僕は、ただの僕に戻ってしまった。誰も信じてはくれない真実を、語ることも出来ない僕に戻ってしまった。
そして、今迄の夢物語を、ただの僕が、僕の意志で終わらせなければならない。こんな皮肉なことが滑稽でないはずがない……。
目の前が眩しくなった、いつの間にかドアが開いてライトに照らされていた。場内からは、拍手と歓声が怒涛のように迫ってきた。晋一は、いつものように右手を軽く掲げ、ゆっくりと中央のステージにむかった。今夜は、特別なつもりだからいつもよりもゆっくりと歩いた。顔見しりや世話になった方々にはその都度会釈をしながら。
晋一は、マイクの前で両手を掲げ場内の歓声にこたえた。コップの水で咽を湿らすとマイクの前にたった。場内は、それを合図に静寂を取り戻した。
挨拶のあと、今夜のパンフレットを右手でつまみあげて、咳払いをした。
「みなさんのお手元にあるこのパンフレットですが。お手元に、ございますか? 」
場内には、紙をめくる音があちらこちらでしていた。
「そうです。受付で渡された封筒の中にあります。」
前列に座っている男性の手元の封筒を指さした。男は、封筒を持ち上げた。
「その中に入ってますよ。皆さんもおわかりになりましたか? 」
場内のあちこちでパンフレットを取りだして顔を見合わせている。
「皆さん。このパンフレットですが。」
晋一は、再びパンフレットを右手でつまみあげた。皆がその右手に注目していたその瞬間。晋一は、右手をパッと開きパンフレットを床に落とした。場内がどよめいたのを確認して、
「今夜は、このパンフレットは捨ててください。」
あっけにとられた場内の空気を制するように続ける。
「そう、今夜は、肩書や経歴を取っ払っい。私、矢野晋一。人間、矢野晋一としてのスピーチをさせていただきたいと思います。」
場内は、晋一の意に反して大歓声が上がった。パフォーマンスだと思っているのだろう。
晋一は、歓声を右手で制して、話を続けた。
「古来、科学技術は我々人間の生活に深く寄与してきたことは、衆知の事実であります。あらゆる分野の学問は人々の生活をより豊かにそして便利にしてきたことは、私を含め学術を研究する者としての誇りでもあります。しかしながら、その技術は、我々の生活を脅かすことに使われているのも事実です。」
少し目まいがしてきた。きっと暑さのせいだろうと思い、水をゴクリと飲んだ。気合いを入れるために。
「二十世紀から今日にいたるまでの、急激な科学技術の進歩の中で、偉大な先人達もその憂いを抱きながら没していきました。今日の多くの科学者達もその想いは同じであります。」
晋一は、次の言葉を発するまでに少しの間を置いた。マイクから少し顔を離しながら最前列の人達に向けて笑顔でうなずいた。それは、これまでにも何度かスピーチで見せたことのある仕草。いよいよ核心に迫るときの癖であった。
「あらゆる研究の最大の目的は何でありましょうか? 」
両手を掲げて聴衆に問う。
「その答えは、人間が人間らしく、そしてこの世界から戦争や飢餓を取り除くためではないでしょうか!」
晋一の迫真のパフォーマンスに場内は歓声の渦に飲み込まれていた。
再び右手をあげてマイクに近づいた。身体中が上気して汗が噴き出していた。ゆっくりと場内を見渡すと、先ほどとは別人のように物静かな口調で話し続ける。
「ところが、悲しいことに。これまで我々が発見や発明してきたものの中から、既に軍事転用が進んでいることを知りました。私は、そのことに激しい憤りを感じました。本当に悲しいことです。しかし、どうすることもできないのです。」
晋一は、来賓席の男性を指さした。
「そう、あなたがもし多くの人を殺す機械の製作に手を貸して、多くの子供や女性や老人が殺されていたとしたら? 」
さらに他の席を指さして、
「そう、あなたがもし、自分の知らないところで多くの人々を殺すことに協力していたことを。知ってしまったらなら? 」
晋一は、肩を落とした。
「とても…… とても、不幸なことです。」
場内は静まりかえり、次の言葉を待っていた。
晋一は、顔を正面に向けて穏やかに語りだした。
「私は、考えました。どうしたらいいのか。そして、私なりの答えを見いだしました。」
場内は、その答えを聴くために晋一に視線を集めた。
「私は、今日までの研究成果及び継続中の研究のすべてを放棄いたします。そして、研究者としての私は、今夜をもって引退いたします。」
場内は、驚いた。誰も予想していなかった答えだったからだ。
まだまだ若い世界一の頭脳とも呼ばれる科学者が、突然引退を宣言するなんて。とくに、関係者の慌てようは尋常ではなかった。騒然とする場内に切り込むように晋一は叫び続けた。
「悲劇を……。 このような悲劇を繰り返さないために必要なのは、教育です。」
まだざわついていた場内も晋一の声を合図に静かになった。
「あらゆる分野の研究も一流の知性の上に成り立ち、そして、その成果は、一流の知性を持って正しく使いこなせなければならないのです。そのためには、正しい倫理感と哲学を持つ者たちが多く育っていくことが急務ではないでしょうか。」
場内は、賛否両論だった。
「そして、私はすべてを教育事業に捧げます。」
晋一は、達成感を得ていた。なんとかシナリオ通りにスピーチができたことに。
場内のようすなど、見向きもせずにこれから具体的にどうするべきかと頭のなかで考えていた。今夜は、やけに疲れている。明日から考えることにしようと、決めて場内を見渡した。
身体中が汗でびっしょりと濡れている。ライトのせいなのか、目まいがしてきた。早くシャワーを浴びたい、早くここから立ち去りたい……、と思ったのが最後の記憶だった。




