その三
晋一は、再び受話器を取り電話をかけ始めた。これからの自らの行動によって影響を受ける方々に。後日の訪問を伝えるために。
時刻は、17時40分。
最後の電話を切ると冷蔵庫の水を一気に飲み干した。
何かやり残したことはないだろうか? しばらく考えた。
腕時計の文字盤をトントンとたたきながら、
「おい。ちゃんと記録してるか? 」
「ハイ。リョウコウ二キロクヲ、ツヅケテオリマス。」
予想した通りの、わかりきった答えだっだ。
「そう言うだろうと思ったよ。」
と、苦笑しながら続けた。
「これからのことは、特にちゃんと記録してくれよ。」
「トクニ? チャント? キロクセッテイハモンダイアリマセン。」
晋一は、クックッと笑いをかみしめていた。
ドンドンドン。
「先生! 先生! 」
ドンドンドン。
「先生! 」
と、田村が呼んでいる。
「田村です。ずっと待っておりましたが、お声がかからないものですから。心配で……。」
「ちょうどよかった。田村君。」
「はい? 」
晋一は、ドアに駆け寄りおもむろにドアのレバーを引いた。
そこには、ア然とする田村が立っていた。
「……。 先生、準備のほうはいかが……。」
晋一は、田村の言葉を遮るように
「田村君。原稿だけど、変更するよ。」
「え! では違う原稿を? 」
「うん。そうだよ。」
「では、主催者側に早くお見せしなければ……。」
「うん。わかっているが、原稿はないんだよ。」
晋一は、自らの頭を指さし、
「原稿は、ここの中にあるんだよ。」
と、まるで悪戯っ子のような仕草で言った。
「ん? 」
田村は、怪訝そうな目をしていたが、これまで失敗をしたことがないからか。安心して、確認するようにうなずいた。
「先生もお考えが、おありでしょうから。おまかせいたします。」
「うん、ありがとう。主催者に、その旨を伝えてくれないか? 」
「はい、かしこまりました。」
田村は、返事をしたが、まだ何か言いたそうなそぶりで突っ立っていた。
「田村君、まだ何か? 」
「先生。お預かりしております原稿は? 」
田村は、いつもの要領を得ない顔つきをしていた。
晋一は、彼の表情を見て考えていることを察し、彼の思うようにしてやろうと考えた。
「あの原稿は、君が処分してくれ。処分だから、君の好きなようにしてくれ。」
「好きなようにですか? 」
「そうだ。必要ならば、持って帰ってもいいけど……。」
田村は、晋一が言いおわらぬうちに、
「あ、ありがとうございます。」
と、うれしそうにその場を後にした。
時刻は18時25分。
そろそろ会場への案内係がくる時刻である。
晋一は、他に打つべき手はないか? 漏れはないかと考えていた。
高鳴る鼓動を鎮めようと静かに目を閉じた。目に浮かんでくるのは、小さな頃、川や山で遊んだ時の風の香りや水の冷たさだった。
天才少年と世間から騒がれてチヤホヤされる以前のことばかり。暑い夏の日差し。木々の匂い。
しばらくすると、案内係が迎えにきた。晋一は、ソファーから立ち上がり、ゆっくりとドアを開いた。
「お待たせしました。」
「博士、お迎えにあがりました。」
「ありがとう。」
「博士。こちらへ」
晋一は、案内係の後を、ただ黙ってついていった。
長い廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。その間、一言も口を開かずにいた。何度も深呼吸を繰り返す。エレベーターから出ると会場の正面の入口が見えた。華やかな雰囲気が伝わってきた。あちらこちらに花が飾ってある。受付には、研究所のスタッフが忙しそうにしていた。
晋一には今夜の、この花束や華やかな会場が最後を飾る舞台に見えた。しばらくは、華やいだ世界ともお別れだと思った。何度ともなく見てきたこの景色。今夜は、初めて疎ましく思えた。
控室は、会場となる大広間の反対側に位置するせいか、静かなところだった。なるほど、一流のホテルとなると、控室の場所にも配慮があるのだろうか。いままで、気にもしたことないことを考えたりしていた。チッチッチッと腕時計の秒針の音だけが心を落ち着かせてくれる。
晋一は、もう一度これからのことを頭に描いた。時刻は迫ってきているが、出来る限りゆっくりとシュミレーションを始めた。
トントントン。
「先生。田村です。」
田村が晋一を呼びに来たらしい。
「先生。お迎えにあがりました。」
「はい。」
晋一は、時計に目をやり大きく深呼吸をした。
思えば、この田村という、なんだかオタクぽい学者が助手になって3年になるが、どうゆう男なのかはっきりとわからない。この十年余の時間があまりにも急激なせいか、他のことに関心を持つ余裕もなかったのだ。多忙だったせいだけかな、あまりにも関心をもたなすぎた。せめて身近に居る人達のことだけでも知ろうとしなかったことに、なにをしてきたのだろう? と、あきれてしまった。あらためて、目の前に居る風采の悪い田村の姿を見た。たしかに関心をもとうとは思わないよな、と一人で納得してしまった。青白い顔にボサボサ頭。でっぷりとした腹を無理にベルトで締め上げている。ズボンは裾が短く、大きな靴とくれば、まるでアニメのキャラクターのようである。
晋一の視線に気づいたのか
「先生、何か? 」
「いや、何も…… 」
晋一はバツが悪そうな表情で返した。
「先生、今夜のスピーチの件ですが。先方には原稿の変更を伝えてきましたので。」
と、田村は、いつものあのモジモジとした話し方で要件だけを述べる。
「あ、ありがとう。そうでしたね。」
「先方様も『期待しております』との事でした。」
「そうですか。田村さんご足労をおかけしました。本当にありがとう。」
晋一があらたまって礼を言ったことに驚いた表情で
「先生、今夜はなにかありましたか? いつもと様子が違うようですが? 」
「いや、何もない。今までは……。 」
「今までは……。 ですか? 」
「……。 今夜から変わる……かも? 」
「え? 何かが変わるのですか? 」
「田村さん。今迄ありがとう。いろいろとお世話になりました。」
「? 先生、どういうことでしょう。」
晋一は、田村に向き合いおどけたような顔をした。
「これからも、世話になるかもしれないかな?。 」
「先生、もちろんですよ。」
田村も今夜の晋一の不思議な態度に誘われるように軽い返事をしたが、
「でも先生。今夜は少し様子が…… いつもと違うようです。大丈夫ですか? 」
心配そうな顔をしていた。
そんな田村を気にもせずに、晋一は歩き出した。ゆっくりとした足取りで、一歩一歩と慎重に……。




