その一
ドンドンドンと激しく戸をたたく音が耳に入ってきた。重い瞼を少しづつ開いていくと、次第にその音が大きくなってきた。
ドンドンドン。
「先生! 先生! 」
ドンドンドン。
「先生! 矢野先生! 」
はっと晋一はわれにかえった。
気づかぬうちに寝込んでしまっていたらしい、ソファーの前のテーブルに無造作に置かれた書類の山がそれを物語っている。晋一はドアに向かって叫んだ。
「はい!。ちょっと待ってください。」
「あの……。 田村ですが、原稿のチェック終わりましたので……。」
「あ、ありがとう。あとで、声をかけるから」
「はい……。では、部屋で待っておりますので、お声をおかけください。」
「……。」
晋一は、枕で顔を隠しソファーに伏せたまま無言でうなづいていた。
「あの……。先生!。聞いていらっしゃいますか? 」
いつもの、もじもじとした話し方がやけに気に障る。チェッと舌打ちして返事をした。
「はい。わかっているよ!。」
「聞こえていらっしゃいましたね。では、後ほど」
田村の足音が消えていくと同時に、晋一は頭の中で整理をはじめた。
自分が直面する、この問題は誰一人として理解できないだろう。それどころか、真実を語ったところで誰も相手になんかしてくれない。むしろ、病人や狂人扱いされるに違いない。いっそのこと、何もなかったように振る舞うか? それが出来るならばそうするが……。
一体どうしたらいいのか?
晋一は、事の重大さをわかっていながら、眠り込んでしまった自分に苦笑してしまった。まだ笑う余裕があったなんて、いや、笑うしかできなかったのかも。記念講演の開始まで四時間ほど。昨夜から会場である、このホテルに宿泊しているから、欠席なんてできないだろう。どうすればいいのやら。
晋一は、あきらめずに何か良い方法はないか考えてみた。しかし、問題が問題なだけに、簡単に策など浮かばない。
講演の原稿も、たしかに自分で書いたのだが今となっては、難しい文字の行列で、頭の中がグルグルと回り始める始末である。
晋一は、腕時計に目をやった。ゆっくりと外すと目の前に持ち上げて、文字盤をトントンと叩いた。
(俺の頭の中は壊れても、こいつは無事かもしれない)
腕時計の中央が三色の光で点滅しはじめた。
「おい! 返事をしろ!」
「ゴヨウケンヲ、モウシアゲテクダサイ」
短い電子音とともに無機質な声が聞こえた。晋一は、うれしくなって目の前の腕時計を両手でかいがいしく持ち上げていた。
(お前は、無事なんだな。うれしいぞ。)
「イカガナサイマシタカ?」
「な、おしえてくれ! 昨夜。俺に何があったのか? 」
「サクヤノ、二十一時ノコトデスカ」
「そうだ。何があった。俺になにがあった? 」
「サクヤハ、アナタノメンテナンスヲシテオリマシタ」
「そうだ、毎週やってる更新とかいうやつだよな! で、何があった? 」
「ダウンロードハ、シッパイシマシタ。」
「ん? なんだって! し、失敗だって!」
「ハイ、ソノヨウデス。」
「じゃあ、もう一度やりなおせばいいんだ! 頼むから、早く連絡してくれよ!」
晋一は、懇願するように床に膝をつけた。
腕時計は、例の三色の点滅を繰り返しながら小さく振動していた。




