第1話 男装デート記念日
まさかここから紬の計画が始まってるとは、この時の私には思いもよらなかった。
……どうして、こうなったの?
「楽しいねー、樹」
「そうだな、紬」
私たちは休日の街を歩き、これから映画を見に行く予定だ。
ときおり周囲から微笑ましい視線が向けられる。
中には舌打ちが聞こえてきそうな鋭い視線もあったけど。
いつもより低くセットされた髪に、紬が見立てたメンズライクなジャケット姿。
すれ違った女子たちから、
「ねえ、あの人めっちゃカッコよくない?」
というヒソヒソ声が聞こえると、紬は見せつけるように、私の腕をさらに強く抱きしめてきた。
「ねー、もっと楽しそうな顔してよ、樹」
「ちょっと無理かなぁ、紬さん」
「いやっ、紬さんなんて他人行儀な呼び方やめて!」
さすがに我慢できず、私は紬の耳元で小声で抗議した。
「ねぇ、紬。なんで私は『男装』なんかさせられて外に引っ張り出されてるのよ!」
「栞が悪いんでしょ。あんな賭けに乗るから」
それを言われてしまうと私も言い返せなくなってしまうけど。
誰かあの頃の私に言ってくれないかなぁ。「その賭けはやめておきな。後で酷い目にあうよ」ってね。
見上げた空では、私の境遇をあざ笑うかのように太陽が力いっぱい輝いていた。
閉じた目元に浮かんだ涙は、まぶしくてなのか、情けなくてなのか、よく分からなかった。
◇◆◇
今考えると、本当にくだらない、どうでもいい話。
なんであんな賭けに乗ってしまったのか、過去の自分を全力で殴りたい。
事の発端は数日前、紬と一緒に服を買いに出かけた時のことだった。
「栞、これこれ、すっごいよ! 大盛りカレーライス、三十分で食べきったらお代無料だって!」
「大盛りってこの写真でしょ? 確かに多いけど無理っていうレベルには見えないよ」
「じゃあさ、栞やってみてよ。で、食べ終わったら一緒に記念写真撮ろう」
紬はこういうちょっとしたイベントごとが大好きだ。
そしてなんでも写真を撮って、小さな記念日を作りたがる。
私と教室の席が隣同士になった日は『席が隣記念日』、街でたまたま会った日は『たまたま会った記念日』。
こんな調子で写真と共に記念日は増え、たぶん私との記念日はすでに百日を超えるだろう。
彼氏になる人は大変だと思う。
……まあ、私には関係ない話だけど。
「いいけど。でも私、今日はそんなにお金持ってきてないんだよね」
「それなら私が出してあげる! でも食べきれなかったら、栞が一つ私の言うこと聞くこと!」
「何よ、その約束。まぁ、これくらいなら余裕だから別にいいけど」
私はバレー部のキャプテンとして、毎日誰よりも練習に打ち込んでいる自負がある。
その分食べる量も……まぁ、人よりちょっとだけ多いわけだ。
そして私たちは、意気揚々と店内へと入っていく。
――数分後。私の目の前にドンッと置かれたのは、地獄のように真っ赤なカレーだった。
「はい、激辛大盛りね! がんばって!」
「えっ! ちょっと、写真と違う……」
満面の笑みを浮かべる紬を見て、私はすべてを悟った。
(最初から、知ってたんだ……!)
こうして紬の策略にまんまとハマった私は、約束を盾に、こんなハメになっている。
もちろん約束を無効にしても良かったんだけど、まさかここまで突飛なことをさせられるとは思わなかったから、ついOKをしてしまったのだ。
◇◆◇
「今日一日は『樹』の約束なんだから、ちゃんと男の子やってよね?」
「はいはい、分かったわよ」
「言葉!」
「分かったよ!」
紬はそれでようやく機嫌を直して、また私の腕に抱きついて歩き始めた。
いいや、映画館ならきっと休める。
そこで疲れを取ることにしよう。
「はい、樹。あーんして」
映画館は満席とはいかないまでも、大勢のお客さんで埋まっている。
その空間の、まさにど真ん中で紬は仕掛けてきた。
幸いカップルで来ている人が多いため、冷たい視線は飛んでこなかったが、このやり取りをきっかけに、周りからもほんの少し甘い空気が漂い始めた気がする。
……私は黙って口を開いた。
キャラメル味のポップコーンが一粒放り込まれた。
指が離れる時、スッと紬の指が私の唇に触れる。
口の中に広がるキャラメルの甘さは、まるで今日の紬みたいだった。
ちょっぴり、しつこくて、甘すぎる。
映画が始まれば、こんな風に声を出したやり取りも出来なくなるだろう。
あと少しの辛抱だ、私。
映画は、去年話題になっていたドラマの続編だ。
盲目の少女を青年が助け、いつの間にか恋仲になる話。
今回は少女の目が治せるかもしれないというところから始まり、目の前のスクリーンでは、治療を受けるかどうかで二人が大ゲンカしている。
どうもこういう恋愛ドラマは分かりにくくて好きじゃない。
もっと勧善懲悪がはっきりしたドラマとか、アクションがたくさんある方が私好みなんだけど、今日は紬に付き合う約束だから仕方ない。
映画の途中、右手をぎゅっと握られた。
驚いて隣を見ると、紬がスクリーンを見つめたまま涙を流していた。
普段は、あんなにうるさいのに。
今は声も出さず、ただ静かに泣いている。
その横顔を見た瞬間、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がした。
私はポケットからハンカチを取り出し、そっと差し出す。
紬は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「ありがとう」
声は出さず、唇だけでそう言う。
……なんだろう。
静かな紬って、こんなに――。
そして物語は佳境に入り、恋仲の二人がキスを交わすシーンでは会場中から静かなため息がいくつも漏れ聞こえた。
ふと紬を見ると、一瞬私と視線が合い、彼女はすぐにスクリーンへと顔を戻した。
(私を見てた? まさかね……)
いつもの私ならぐっすり寝てるはずの、映画のエンディングロール。
流れる甘いバラードが、やけに心に残った。
「あー、すっごくいい話だったね」
「そう、だな」
「あ! 樹こういうの苦手だったよね。ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、紬が楽しかったならいいんだ」
暗い空間に照らし出された、紬の泣き顔が頭の中から離れず、私はつい適当な返事をしてしまっていた。
「疲れさせちゃった?」
上目遣いで、すごく心配そうに聞いてくる。
いや、私の方が背は高いから普段から上目遣いなんだけど。
「あぁ、大丈夫だよ」
視線をずらしてそう答えた。
紬の顔を真っ直ぐ見るのが気恥ずかしい。
なんか、今日の私、少し変かもしれない。
もしかしたら……紬のこと――。
この時の私はまだ知らなかった。
この後さらに紬の仕掛ける『別の記念日』が控えていたことを。




