『放課後のスコアボード』
いま思えば、あれが最初の外れだった。
中学二年の秋。放課後のグラウンドは、夕陽の色を吸い込んで、赤とも橙ともつかない光を帯びていた。校舎の影が長く伸び、白線はところどころ擦れている。
決勝戦の前日だった。
練習は早めに終わったはずなのに、誰も帰ろうとしなかった。
亮介はゴール前に立っている。
誰もいないネットに向かって、何度もボールを蹴る。
乾いた音が響く。
ネットが揺れる。
「もうやめとけって」
陸が笑いながら言う。
「明日足なくなるぞ」
亮介は振り向かない。
「決めるから」
それだけ言った。
弦はベンチでノートを開いている。相手校のフォーメーションを、几帳面な字で書き込んでいる。
「左は甘い。後半、足止まる」
誰にともなく言う。
創は少し離れた場所で、スケッチブックを膝に置いている。
描いているのはボールではなく、亮介の背中だ。
「お前、明日も描くのか」
陸がからかう。
「勝っても負けても」
創は顔を上げない。
「描く」
僕は、その輪の外側に立っていた。
靴の裏についた土を擦り落とす。
声をかけるタイミングを探しながら、何も言えない。
スコアボードが校舎の上に見える。
手動式の、古びた鉄の枠。
HOME と AWAY の文字は少し剥げている。
数字板は、すべて「0」。
風が吹くと、金具が小さく鳴った。
「三十年後、何してるかな」
陸が唐突に言う。
弦がすぐ答える。
「四十五か。会社やってる」
「出たよ」
陸が笑う。
「俺は店だな。絶対流行るやつ」
「まず数字覚えろ」
亮介がボールを拾いながら言う。
「俺はプロ」
迷いがない。
「創は?」
「漫画」
即答だった。
「健太は?」
陸が振り向く。
四人の視線が集まる。
「俺は……」
言葉が浮かばない。
「普通でいい」
口から出たのは、それだけだった。
亮介が鼻で笑う。
「つまんねえ」
でも、その顔はどこか安心していた。
スコアボードのゼロが、夕日に照らされる。
まだ、何も始まっていない。
翌日。
空は曇っていた。
相手は隣町の強豪校。
応援の声が、風に流れる。
試合は拮抗した。
点は入らない。
時間だけが進む。
後半終了間際、亮介が倒された。
笛。
ペナルティエリアの中。
「PKだ」と誰かが叫ぶ。
スコアボードを見る。
HOME 0
AWAY 0
亮介がボールを置く。
あの瞬間、初めて彼の肩がわずかに震えているのを見た。
助走は短かった。
蹴った音は、軽い。
金属音。
ポスト。
ボールは外れた。
息を呑む音。
次の瞬間、カウンター。
僕たちの戻りは遅れた。
失点。
スコアボードの係が、「1」の板をはめる。
だが手が滑る。
白い「1」が地面に落ちる。
転がる。
土に汚れる。
HOME 0
AWAY 1
試合終了の笛。
亮介は膝をつく。
陸が泣きながら叫ぶ。
「お前のせいじゃねえ!」
弦は唇を噛む。
「確率の問題だ」
創はスケッチブックを閉じる。
僕は、何も言えない。
観客が帰ったあと、グラウンドに戻る。
スコアボードの足元に、白い「1」が落ちている。
拾う。
ポケットに入れる。
なぜ拾ったのか、わからない。
ただ、そのままにしておけなかった。
夕方の風が吹く。
スコアボードは、またゼロに戻される。
だが、ポケットの中には「1」がある。
それが、消えなかった。
目覚ましが鳴る前に目が覚めるようになったのは、いつからだったか。
六時前。冬の朝はまだ暗い。天井を見上げたまま、隣の部屋のドアを思い浮かべる。閉じたままのドア。ノブの冷たい光沢。
息子は、今日も起きないだろう。
いや、起きているのかもしれない。ただ、布団の中で目を閉じているだけかもしれない。
キッチンで味噌汁を温める。包丁の音が、やけに大きい。卵焼きを弁当箱に詰めるとき、妻が小さく言う。
「今日も声かける?」
「うん」
短く答える。
娘が階段を下りてくる。制服のリボンを整えながら、こちらを見ない。
「お兄、今日も?」
「ああ」
それ以上、何も言わない。
七時。階段を上がる。
ドアの前で立ち止まる。
ノックを三回。
「朝だぞ」
返事はない。
「今日は、三時間目まででいい」
言いながら、自分の声が少し硬いことに気づく。
沈黙。
ノブに触れる。鍵はかかっていない。
それでも開けない。
これは礼儀なのか、逃げなのか。
「……無理はするな」
言葉が、宙に落ちる。
中から、かすかな布団の擦れる音がした気がした。
階段を下りる。
食卓に、息子の椅子だけが空いている。
娘が言う。
「パパ、怒らないであげてね」
「怒ってない」
「うん。でも、怒ってるみたい」
娘はパンをかじる。
市役所では、僕は揉め事を収める側だ。
会議室で声を荒げる人間を前にしても、落ち着いていられる。
だがあのドアの前では、言葉がうまく並ばない。
通勤途中、スマートフォンを取り出す。
連絡先を開く。
野村 陸。
三十年ぶりに、通話ボタンを押す。
コール音。
「もしもし?」
少し寝ぼけた声。
「俺だよ。健太」
一瞬の間。
「……おお。どうした」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「ちょっと、聞いてほしいことがある」
それだけ言う。
陸は笑う。
「やっと俺の出番か」
電話を切ったあと、ポケットの中に指を入れる。
もう、白い「1」はない。
机の引き出しに入れたままだ。
あの板は、三十年、ずっとそこにあった。
落ちた数字を拾うのが、僕の役目のような気がしていた。
役所でも、家庭でも。
だが息子のことは、拾えない。
拾う以前に、触れることが怖い。
夜、帰宅すると、息子の部屋のドアは閉じたままだった。
夕食の皿は、ほとんど手つかず。
妻が言う。
「先生、心配してた」
「そうか」
「このままだと、進級、厳しいかもって」
言葉が胸に刺さる。
進級。
評価。
数字。
スコアボードのゼロと一が、頭の奥で揺れる。
その夜、布団に入っても眠れなかった。
決勝の金属音が、耳の奥で鳴る。
ポストに当たる音。
外れた音。
息子の部屋の前で立ち止まった自分の姿と、グラウンドで立ち尽くした十四歳の自分が、重なる。
翌日、昼休み。
陸の店の前に立つ。
シャッターが半分だけ上がっている。
扉を開ける。
「いらっしゃい……って、ほんとに来た」
陸が笑う。
カウンターに座る。
言葉を探す。
だが、うまく出てこない。
陸は急かさない。
僕は、ようやく口を開く。
「息子が、学校に行けない」
それだけ言う。
言葉にした瞬間、胸の奥の何かが崩れる。
陸は黙っている。
店の奥で、油が小さくはじける音がする。
僕は続ける。
「理由はわからない。いじめでもないらしい。ただ、行けない」
「クラスのグループLINEが鳴る音が、夜中まで止まらないらしい」
通知音が鳴るたび、肩を震わせる日があった。
沈黙。
陸は、湯呑みを押し出す。
「飲め」
僕は湯呑みを持つ。
温かい。
「怖いんだ」
自分の声が、少し震えている。
「このまま外れたら、戻れなくなるんじゃないかって」
陸は、初めて口を開く。
「何から外れる」
僕は答えられない。
店の中に、昼の光が差し込んでいる。
スコアボードはない。
ただ、木目のカウンターと、油の匂い。
陸が言う。
「健太」
僕は顔を上げる。
「いまから話すこと、たぶん解決にならねえ」
その前置きが、なぜか救いになる。
「いまから話すこと、たぶん解決にならねえ」
陸はそう言って、湯呑みを自分の方へ引き寄せた。指先に、長く水仕事をしてきた皮膚の硬さが見える。
「でも、たぶん必要だ」
店の外を自転車が通り過ぎる。チェーンの音が遠ざかって、また静けさが戻る。
僕は、うなずく。
うなずくしかない。
陸は、しばらく黙っていた。
それが僕には落ち着かなかった。沈黙が続くと、何か言わなければと焦る。市役所の癖だ。空白を埋め、議題を前に進め、結論を出す。
陸は進めない。
ただ、そこに置く。
「健太さ」
陸が言う。
「いま怖いの、息子が困る未来か?」
僕は少し考えて、うまく答えられない。
「……困るだろ」
陸は首を振らない。うなずきもしない。
「それもある。でもさ」
彼は湯呑みの縁を指でなぞる。
「もっと手前の怖さじゃねえの」
僕は黙る。
「外れたら戻れない、って言ったろ」
陸の声は、責めるというより、確かめるようだった。
外れる。
戻れない。
僕の中で、その言葉が何かに引っかかっている。
「俺な」
陸が突然言う。
「店、潰れかけた」
前にも聞いた話だ。けれど今の言い方は、あのときと違う。
「三年前。マジで終わりだった。家賃滞納して、仕入れも止められてさ」
陸は笑う。いつもの笑いではない。笑いという形にした溜息だ。
「通帳の残高見た瞬間、息できなくなった。店の床が、抜けるみたいだった」
僕は、その場面を想像する。
声も出ない夜。光だけがやけに白い。
「そのときさ」
陸はカウンターを軽く叩く。
「俺、店主として失格だって思った。数字が読めねえ。見積もりも、原価も、利益も。全部、怖くて目を逸らしてた」
僕は言う。
「でも今、続いてるじゃないか」
「続いてるだけだ」
陸は即答する。
「勝ってねえよ。負けてもねえ。続いてるだけ」
その言い方が、妙に刺さる。
勝ち負けじゃない、と言い切る感じではなく、勝ち負けの外に投げ出されている感じ。
「常連が言ったんだ」
陸は続ける。
「“陸がいなくなるなら、店なくなっても同じだ”って」
僕は眉をひそめる。意味がすぐに追いつかない。
「店じゃなかったんだよ」
陸が言う。
「飯がうまいとか、酒が揃ってるとか、そんなことじゃなくてさ。あいつら、俺に会いに来てた」
陸は少し、目を伏せる。
「俺がいないなら、店がある意味がないって」
言い終えたあと、彼は湯呑みを口に運ぶ。
喉が鳴る。
「怖かった」
陸が言う。
「肩書きが剥がれたら、俺、何者でもなくなると思ってた」
肩書き。
店主。
市役所の係長。
僕の中で、何かが微かに動く。
「健太の息子さ」
陸は顔を上げる。
「“学校に行ける生徒”じゃないだけだろ。いま」
僕の胸が少し硬くなる。
それを言ってしまうのか、と。
「それじゃ困る」
僕は言う。
「社会は——」
「社会は後だ」
陸の声は低いが、強くない。
強くないから、止められる。
「いま困ってんのは、息子だろ。健太もな」
僕は言葉を飲む。
陸は立ち上がり、厨房へ行く。
火をつける音。フライパンに油を落とす音。
油が静かに鳴り始める。
「料理ってさ」
陸が背中のまま言う。
「分量とか測らねえだろ? 俺」
「知ってる」
「でも音は聞く」
油のはじける音が少し高くなる。陸は火を弱めた。
「焦げる前の音がある。ちょっとだけ高い音。あれ聞こえたら、火を弱める」
僕は、息子の部屋の前を思い出す。
沈黙。
布団の擦れる気配。
返事のないノック。
あれが、音だったのかもしれない。
陸が振り返る。
「健太、いま息子の音、聞けてるか?」
僕は答えられない。
「聞いてるつもりだった」
ようやく言う。
「声かけて、担任とも話して、妻とも……」
「それ、全部“言葉”だろ」
陸は言った。
「音ってのは、言葉の前に出るやつだ」
僕は湯呑みを握る。
温かさが、掌に残る。
「解決なんかできねえ」
陸は言う。
「俺は数字読めねえし、未来の設計もできねえ。正解も出せねえ」
少し間を置く。
「でも、隣にいられる」
その言葉が、店の空気に残る。
隣にいる。
僕はふと、十四歳のグラウンドを思い出す。
亮介が外したあの瞬間。
僕は隣にいた。
でも、何も言えなかった。
そして、そのことをずっと、卑怯だと思っていた。
「俺さ」
僕は言う。
「決勝のとき、何も言えなかった」
陸は驚かない。
初めから知っていた顔で聞いている。
「亮介が外したとき、俺、隣にいたのに」
言葉が喉に引っかかる。
「何もできなかった」
陸はしばらく黙ってから言った。
「覚えてるよ」
即答だった。
「お前、最後まで立ってた」
僕は息を止める。
「立ってたって……」
「逃げなかった」
陸はそれだけ言う。
逃げなかった。
その言葉が、僕の中で何かをほどく。
僕はずっと、できなかったことばかり数えていた。
言えなかった言葉。止められなかった涙。拾えなかった瞬間。
でも、立っていた。
それだけは、確かに。
陸は厨房に戻り、皿を一枚出した。
簡単なつまみだ。卵焼きに似ている。でも少し甘い匂いがする。
「食え」
僕は箸を持つ。
一口食べると、口の中でほどける。
「うまいな」
言うと、陸が少しだけ胸を張る。
「だろ?」
勝ち負けのない店で、陸はそういう勝ち方をする。
帰り際、陸が言った。
「健太」
振り向く。
「勝ち負けって、閉めたときに決まるもんじゃねえ」
店のシャッターの隙間から、光が差し込む。
埃が舞っている。
「開けてる間は、まだ途中だ」
僕は外に出る。
息子の部屋の前に立つことを、少しだけ怖がらなくなっている。
解決はしない。でも、隣にいられる。
陸の店に五人が揃うのは、三十年ぶりだった。
再開発から取り残された路地の奥。引き戸を開けると、油と醤油の匂いが混ざった空気が胸に入る。カウンターの奥に、創のスケッチが貼られている。十四歳の僕たちが、まだ何も失っていない顔で並んでいる。
「遅えよ、係長」
陸が言う。
「市役所は時間通りだろ」
弦が笑う。黒いジャケットに、相変わらず無駄のない動き。
亮介は壁際に座っている。肩幅が広くなった。だが、目の奥はあの頃と同じだ。
創はノートを持っている。取材だと言っていたが、ページはまだ白い。
乾杯のあと、しばらくは他愛ない話が続いた。
娘の話。仕事の話。腰痛の話。
笑いはあるが、どこか慎重だ。互いの三十年を踏み抜かないように、言葉を選んでいる。
やがて弦が言った。
「健太の息子のこと、聞いた」
店の空気が少しだけ静まる。
「どうなんだ、いま」
「行ける日もある」
僕は答える。
「でも、続かない」
弦はグラスを置く。
「環境を変えるのも一つだと思う」
声は穏やかだが、迷いはない。
「オンライン教材もあるし、学習管理は仕組みで補える。学校に通うことだけが学びじゃない」
陸が眉を上げる。
「また仕組みか」
「悪いか?」
弦は即座に返す。
「感情に寄り添うのは大事だ。でも、再現性がない。個別の対応だけじゃ、また同じことが起きる」
言葉が正しいのは、僕にもわかる。
「健太は役所だろ」
弦が続ける。
「制度で支える側だ。家族だけで抱え込むな」
陸が箸を置く。
「制度が全部救うなら、俺の店も潰れてねえよ」
「それは経営の問題だ」
「人の問題だろ」
二人の視線がぶつかる。
亮介は黙っている。創も、まだ口を開かない。
「問題はな」
弦が言う。
「放置することだ。怖いから触れない。優しさって言葉で包んで、何もしない」
陸が笑う。乾いた笑いだ。
「誰が何もしてねえって?」
「それで、変わるのか?」
その瞬間、店の空気が張りつめる。
陸の声が低くなる。
「お前、娘とちゃんと話せてんのかよ」
弦の指が、テーブルを叩く。
「関係ない」
「関係あるだろ」
陸は身を乗り出す。
「仕組みで全部整理できるなら、家族だって設計できるだろ」
弦の顔から色が抜ける。
「俺は逃げてない」
「じゃあ、怖くねえのかよ」
沈黙。
弦は、目を伏せる。
僕は止めるべきか迷う。
だが、止めない。
止めないでいることが、必要な気がした。
亮介が、ゆっくり口を開く。
「俺は逃げた」
全員が彼を見る。
「息子に、勝てって言い続けた」
声は低い。
「勝てば楽になると思ってた。俺がそうだったから」
少し間があく。
「でも違った。あいつは俺じゃない」
その言葉が、店の中に落ちる。
弦は、何も言わない。
陸も、すぐには続けない。
創が、ようやく口を開く。
「俺さ」
指でグラスの水滴をなぞる。
「決勝の次の日、学校休んだ」
弦が顔を上げる。
「何で今それ言う」
「関係あるから」
創は言う。
店の蛍光灯が、わずかに唸る。
「教室の笑い声が、自分に向いてる気がした」
静かだが、揺れのある声。
「誰も責めてなかったのに、勝手に責められてる気がした」
亮介の目が、わずかに動く。
「言えなかった。理由なんてなかったし、説明もできなかった」
創は笑う。
「だから描いた。ノートの端に、0と1を」
弦が小さく息を吐く。
「お前……」
「俺、退場はしてない」
創が言う。
「教室からは逃げた。でも描くことからは逃げなかった」
その言葉が、僕の胸に刺さる。
退場。
スコアボードの横に書かれていた、小さな文字。
赤いカード。
僕は思う。
あの日、僕たちは全員、何かから外れた。
でも誰も、完全には消えていない。
店の奥で、陸が言う。
「健太」
僕は顔を上げる。
「お前はどうなんだ」
問いは、静かだ。
僕はグラスを握る。
「俺は……」
言葉が出ない。
あの日、何も言えなかった。
いまも、うまく言えない。
弦が、ぽつりとつぶやく。
「俺、怖いんだよ」
全員が見る。
「健康診断で再検査って言われたとき、真っ先に思ったの、金でも会社でもなかった」
間。
「誰に電話するか、だった」
弦は視線を落とす。
「健太だった」
僕は言葉を失う。
店の中の音が、すべて遠くなる。
陸が、皿を一枚置く。
「まず食え」
それだけ言う。
誰も笑わない。
だが、空気は少しだけ緩む。
僕は思う。
ここにいる五人は、もう十四歳ではない。
それでも、同じ試合の途中にいる。
勝ち負けではなく、続きの中に。
皿の上の料理から湯気が立っている。
誰もすぐには箸を伸ばさない。
弦が、もう一度言う。
「怖いんだよ」
今度は、はっきりと。
「全部、設計してきた。会社も、投資も、リスクも。失敗しても、次の打ち手があった」
グラスの水滴が、指先を伝う。
「でもさ、娘と向き合うとき、設計が効かない」
弦は笑わない。
「何話せばいいか、わからない。数学なら教えられる。でも、それ以外がわからない」
陸が小さく息を吐く。
「だから仕組みにしたくなるんだろ」
弦は否定しない。
亮介が言う。
「俺も同じだ」
彼は壁を見たまま話す。
「勝てばいいって、ずっと思ってた。勝てば、黙らせられる。納得させられる」
グラスを置く音が小さく響く。
「でもな、勝っても埋まらねえものがある」
その声には、もうエースの響きはない。
創が言う。
「負けたから、描けた」
弦が顔を上げる。
「何が」
「あのときの、顔」
創はスケッチブックを開く。
そこには、十四歳の亮介の背中がある。
膝をついた姿ではない。立っている姿だ。
「外した瞬間じゃなくて、その後立ち上がる前の、あの一瞬」
創は指でなぞる。
「俺、あそこがずっと気になってた」
亮介が、絵を見る。
「そんな顔してたか」
「してた」
創は言う。
「消えそうだった」
店の空気が、わずかに重くなる。
僕は、そのときの自分を思い出す。
立っていた。
でも、何も言えなかった。
それがずっと、敗北よりも重かった。
「健太」
陸が言う。
「お前は何が怖い」
同じ問いだ。
だが、今は逃げられない。
僕はグラスを置く。
「外れること」
声が静かに落ちる。
「息子が、道から外れて、戻れなくなること」
少し間を置く。
「それと……」
喉が乾く。
「あの日、俺、何も言えなかった」
四人が黙る。
「亮介が外したとき、俺、隣にいたのに」
言葉が、ようやく形になる。
「何も言えなかった。それがずっと、逃げたみたいで」
亮介が、ゆっくりと首を振る。
「逃げてねえよ」
短い。
「立ってただろ」
陸と同じ言葉だ。
僕は目を伏せる。
立っていた。
それだけだった。
「退場してねえ」
創が言う。
「俺も、お前も」
弦が続ける。
「退場ってさ、カードもらったときだけだろ」
亮介が小さく笑う。
「俺ら、カードもらってねえ」
店の中に、ようやく小さな笑いが戻る。
僕は思う。
退場していない。
それだけで、試合は続いている。
陸が言う。
「健太」
「うん」
「息子がいま、どこに立ってるか見ろ」
僕は考える。
教室の外かもしれない。
グラウンドの端かもしれない。
部屋の中かもしれない。
「真ん中じゃなくていい」
陸は続ける。
「立ってるなら、それでいい」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
創がノートを閉じる。
「健太、今度さ」
「うん」
「息子、連れてこいよ。ここ」
陸が即座に言う。
「未成年に酒は出さねえぞ」
笑いが少し広がる。
弦がグラスを持ち上げる。
「続いてるってことで」
亮介が応じる。
「途中ってことで」
僕もグラスを持つ。
スコアボードはない。
HOMEもAWAYもない。
ただ、五人のグラスが静かに触れ合う。
その音は、金属音ではなかった。
柔らかい、続きの音だった。
店を出ると、夜風が冷たい。
路地を歩きながら、僕は思う。
息子の部屋の前で、立ってみよう。
正解を探さずに。
拾うことばかり考えずに。
立つだけでいいなら、できる。
十四歳のときも、立っていたのだから。
家に帰ると、灯りは消えていた。
妻は先に寝ている。娘の部屋からは、イヤホン越しの微かな音が漏れている。
息子の部屋のドアは閉じている。
以前と同じ光景なのに、足取りは少しだけ違う。
ノックを一回。
「起きてるか」
間。
「……うん」
小さな声。
それだけで十分だった。
ドアは開かない。
僕も開けない。
床に座る。ドアにもたれる。
「今日、陸の店行ってきた」
返事はない。
「亮介も、弦も、創もいた」
少し沈黙が続く。
「決勝の話になった」
布団の擦れる音がする。
「覚えてるか? 父さんが中二のときの試合」
「知らない」
当然だ。
「PK外したんだ」
言葉が静かに落ちる。
「最後に点取られて、負けた」
間。
「そのとき、スコアボードの“1”が落ちた」
僕は立ち上がり、リビングへ行く。
引き出しを開ける。
白い板。
角が少し欠けている。
戻って、ドアの前に座る。
「これ、拾った」
ドアの下の隙間に、板を差し出す。
しばらくして、ドアがわずかに開く。
暗い部屋の奥に、息子の肩が見える。
寝癖のついた髪。細い首。Tシャツの袖から伸びる腕。
まだ子どもとも、大人ともつかない体つき。
彼は目を合わせない。
ただ、白い板を見ている。
手が伸びる。
指先が触れ、少しだけためらう。
そして、受け取る。
「……負けた点?」
「そう」
間。
「父さんさ」
自分でも驚くほど、声が落ち着いている。
「何も言えなかった。あのとき」
沈黙。
「隣にいたのに」
言葉が、床に落ちる。
「だからずっと、逃げた気がしてた」
言い終えて、黙る。
ドアの向こうで、息子が息を吐く。
「……俺、退場?」
「してない」
短く答える。
「試合ってさ」
僕は言う。
「終わるまで、終わらないだろ」
少し間を置く。
「お前、まだここにいる。部屋の中でも、家の中でも」
沈黙。
「父さんも、途中だ」
それから、ゆっくりと。
白い板が引き込まれる。
「それ、借りる」
「いいよ」
ドアは閉じたまま。
だが、さっきより少し軽い。
僕はその場に座り続ける。
何も言わない。
言うことは、もうない。
数日後。
土曜の午後。
息子が言った。
「サッカー、行ってみる」
亮介のグラウンドへ行く。
息子は端に立つ。
ボールが転がる。
止める。
それだけで、隣の少年が「ナイス」と言う。
亮介は何も評価しない。
笛も鳴らさない。
ただ、隣に立つ。
点数はつかない。
スコアボードはない。
夕方、陸の店に寄る。
息子はカウンターに座る。
陸はメニューを出さない。
「腹減ってるか」
息子はうなずく。
油が鳴る。
創は壁のスケッチを見つめている。
弦は珍しく何も言わない。
亮介は、グラスの水を飲む。
白い「1」は、息子のポケットにある。
エピローグ
夜。
テーブルの上に、白い「1」が置かれている。
いつ戻されたのか、わからない。
角の欠けた板が、灯りを受けている。
HOMEもAWAYもない。
数字は一つだけ。
僕は灯りを消す。
暗闇の中で、その白さだけが残る。




