第8話:堕ちた王族と、黄金の「厚切り断罪肉」
離宮の厨房の床に、かつてないほど無様な光景が広がっていた。
次期皇帝であるジュリアン殿下が、そして高潔の象徴である聖女セフィリア様が、涎と肉汁で顔を汚し、這いつくばっている。
「……あ、ああ。喉が、喉がまだあの熱い滴を求めている。エレーナ、もう一粒だ。もう一粒、僕の口に運んでくれ」
ジュリアン殿下の声には、王族としての威厳など微塵もなかった。
あるのは、強烈な「旨味」という名の劇薬に脳を焼かれた者の、浅ましい渇望だけ。
セフィリア様も、汚れを払うはずの浄化の魔法など忘れ、自分の指についた肉汁を、夢中で吸い上げている。
「汚らわしい。殿下、セフィリア、貴様らのその姿を、本国の貴族たちに見せてやりたいものだ」
アラリック閣下が、私を背後から抱きしめたまま、冷酷な吐息を漏らした。
彼の腕には、私を誰にも触れさせまいとする強固な意志がこもっている。
昨夜からの「ジャンクフード攻勢」により、閣下の魔力は今や全盛期を超え、周囲の空間が震えるほどの圧を放っていた。
「閣下、そんなに怖い顔をしないで。彼らはただ、本当の『満足』を知らなかっただけですわ。……さて、トドメといきましょうか」
私は、まだ空腹を訴える彼らの理性を、根底から粉砕する「最後の一撃」の準備を始めた。
これまでのような「つまみ食い」のサイズではない。
圧倒的な重量感と、油の快楽。
これこそが、ジャンクフードの王道。
「錬成――アイアンタスクボアの極厚ロース肉。そして、細かく砕いた黄金の乾燥パン粉。さらに、魔力を練り込んだ漆黒の果実ソース」
作業台の上に、厚さ三センチはあろうかという、見事な霜降りの肉塊が現れる。
私はそれに軽く塩胡椒を振り、小麦粉、卵液、そしてたっぷりのパン粉を纏わせた。
「エレーナ、それは……先ほどの『肉汁の宝珠』とはまた違う、随分と分厚い塊だな。それほどまでの厚みを、どうやって熱を通すというのだ」
アラリック閣下が、私の首筋に鼻を寄せながら問いかける。
彼は、私の魔法が紡ぎ出す「音」と「匂い」の虜になっていた。
「ただ焼くのではありませんわ。閣下、これこそが、食材を黄金の衣で封じ込める魔法……『大いなる揚げ(ディープ・フライ)』です」
私は、熱した大量の油の中に、パン粉を纏った肉塊を沈めた。
シュワァァァァーーッ!!
これまでで最も重厚で、かつ心地よい高音が厨房に響く。
油の中で、肉の脂とパン粉が激しく反応し、香ばしい匂いが一気に膨れ上がった。
それは、嗅ぐだけで胃壁が痙攣し、強烈な空腹を強制的に引き起こす「匂いの暴力」だった。
「ひっ……うう、なんだ、この匂いは! 先ほどお腹がいっぱいになったはずなのに、また……また、胃が熱い!」
ジュリアン殿下が、震えながら立ち上がろうとする。
私は、黄金色に色づいた肉塊を油から引き揚げた。
パチパチと弾ける油の音。
その表面は、まるで金細工のように美しく、それでいて凶暴なまでの熱を帯びている。
「はい、お待たせいたしました。本日の最終宣告、『黄金の厚切り断罪肉(極厚トンカツ)』ですわ」
私は、ザクッ、ザクッという快い音を立てて、その肉を切り分けた。
切り口からは、閉じ込められていたアイアンタスクボアの肉汁が、滝のように溢れ出す。
そこへ、魔臭球と黒大豆の煮汁、そして数種類の果実を煮詰めた「漆黒の濃厚ソース」をたっぷりと注いだ。
ジュウゥゥ……というソースが熱い衣に染み込む音。
それが、彼らの理性の糸が切れる音だった。
「……食え。殿下、セフィリア。これが、お前たちが『不潔』と切り捨てた女が作る、真実の価値だ」
アラリック閣下の一喝に、二人は競い合うようにして皿に飛びついた。
殿下はフォークも使わず、その分厚い肉の塊を素手で掴み、口へと押し込む。
「――っ!? ザクッ……じゅ、じゅわっ……っはあぁぁぁぁ!!」
ジュリアン殿下が、天を仰いで絶叫した。
あまりの旨さに、彼の目からはボロボロと涙が溢れ、鼻からは幸せそうな蒸気が噴き出している。
「なんだ、この衣の歯ごたえは! そして、その後にくる肉の柔らかさ……。噛むたびに、ボアの生命力が俺の体内に流れ込んでくる! この、黒いソース……。甘いのに辛く、そして魔臭球の刺激が、俺の脳を……脳を蕩かしていく……!」
「わたくしも……わたくしももう、戻れませんわ! この、脂身の部分……。口に入れた瞬間、雪のように溶けて、甘い快楽だけを残していく……。セフィリア、幸せです……。浄化なんて、もうどうでもいい……!」
聖女セフィリア様も、頬をソースで真っ黒に汚しながら、夢中で肉を咀嚼している。
彼女の放っていた「聖なる光」は、今や「油の輝き」へと完全に置き換わっていた。
「……ふん。連中、ようやく分かったようだな」
アラリック閣下は、最後に残った一番大きな一切れを、私の手から直接口へと受け取った。
彼は、私の指先を優しく噛むようにして肉を頬張ると、深い満足感と共に、私の肩に頭を預けた。
「旨い……。エレーナ、やはりお前の作るこれは、世界を支配する力だ。見てみろ、あの無様な王族を。あいつらはもう、お前の作るこれなしでは、一日たりとも生きられん身体になった」
「ええ、閣下。彼らはもう、私の奴隷……いいえ、私の『ファン』ですわ」
私は、空になった皿を見つめ、満足げに微笑んだ。
皇太子と聖女。
彼らがこれから、この離宮に住み着き、私の料理を求めて泣き叫ぶ姿が容易に想像できた。
「エレーナ、お願いだ。もう一枚……もう一枚だけ、あの黄金の肉を焼いてくれ! 代わりになんでもやる! 王位も、領地も、僕の魂もだ!」
ジュリアン殿下が、私の足元に擦り寄ってくる。
かつて私を「不潔な女」と罵ったその口から、今は懇願の言葉しか出てこない。
カタルシス。
胸の奥を突き抜けるような、最高の快感。
私は、彼らの頭上に、これでもかと「白銀の罪」をたっぷりと振りかけてあげた。
「いいですよ、殿下。ただし、これからは私のことを『シェフ』と呼びなさい。そして、私のキッチンを汚す奴は、この国から追い出してあげますわ」
「ああ、シェフ! 最高だ、エレーナ・シェフ!」
離宮に響く、王族たちの狂乱の歓喜。
アラリック閣下は、私をさらに強く抱きしめ、独占欲に満ちた熱い口づけを私の髪に落とした。
「……お前の指を汚すのは、俺だけでいい。エレーナ、今夜も……俺だけに、特別な『夜食』を作ってもらうぞ」
閣下の瞳には、食欲と、そしてそれ以上に深い、逃れられない愛が宿っていた。
私の「禁忌フード」による帝国制圧は、まだ始まったばかりなのだ。




