第7話:聖女の浄化と、爆ぜる「肉汁の宝珠」
離宮の修練場に、冷ややかな空気が流れた。
中央に立つのは、黄金の刺繍が施された純白の法衣を纏う聖女セフィリア。そして、その隣で不快そうに眉をひそめる皇太子ジュリアン。
二人の周囲だけは、あたかも不可視の壁があるかのように、騎士たちの熱狂から切り離されていた。
「……おぞましい。この鼻を突くような不浄な臭気、そして理性を失った騎士たちの姿。エレーナ、貴女はこれほどまでにおぞましい魔道に手を染めていたのですね」
セフィリアが、悲劇のヒロインを演じるかのように胸元に手を当てた。
彼女の指先から、淡い真珠色の光が放たれる。広域浄化魔法。
本来なら瘴気を払い、人々の心を安らげるはずのその光が、修練場を満たす「バターと魔臭球の匂い」を強引に消し去ろうと蠢いた。
だが。
「……え?」
セフィリアの顔が、驚愕に引きつった。
彼女の放った光は、肉を焼く香ばしい匂いや、濃厚なソースの香りに触れた瞬間、霧散したのだ。
正確には、あまりにも「脂」と「旨味」の密度が強すぎて、浄化の力が浸透せずに滑り落ちてしまったのである。
「無駄ですよ、セフィリア様。私の作る料理は、誰にも否定できない『生きる本能』そのものですから。上辺だけの光では、胃袋に刻まれた記憶は消せませんわ」
私は、手元に残っていた『白銀の罪』のボトルを、あえて彼女に見せつけるように掲げた。
「エレーナ、貴様……っ! 大公閣下を唆し、兵たちを食い扶持で操るとは、どこまで卑劣な。その不潔な泥のような食事を今すぐ捨て、跪け!」
皇太子ジュリアンが声を荒らげる。
しかし、彼の声には力がない。
なぜなら、彼の鼻腔には、浄化魔法を潜り抜けた『魔臭球バター』の香りが、容赦なく突き刺さっていたからだ。
「殿下、不潔だとおっしゃるなら、確かめてみてはいかがです? 私の料理が本当に泥なのか、それとも、殿下が今まで食べてきた白湯のような食事よりも価値があるものなのか」
私は、不敵に笑い、新たな錬成を開始した。
ジュリアンとセフィリア。この二人のプライドを根本からへし折るには、ただ「重い」だけでは足りない。
見た目は「高貴な宝石」のように美しく、けれどその中身は「暴力的な肉の快楽」に満ちた一品が必要だ。
「錬成――純白の薄皮。そして、アイアンタスクボアの希少なバラ肉。さらに、魔力を極限まで蓄えた『雷鳴ニラ』」
作業台の上に、透き通るような白い皮と、鮮やかな緑の葉、そしてピンク色の美しい肉が現れる。
私はそれらを瞬時に細かく刻み、秘伝の香辛料と共に練り上げた。
「エレーナ、それは何だ。小さな袋のような形に、何を詰め込むつもりだ」
いつの間にか、おかわりを完食したアラリック閣下が私の背後に立ち、熱心に手元を覗き込んでいる。
彼の瞳は、すでに次の「快楽」を求めて爛々と輝いていた。
「これは『肉汁の宝珠』。見た目は真珠のように慎ましいですが、その内側には……逃れられない地獄が詰まっていますわ」
私は手際よく、ひだを作って包み上げた。
そして、熱した鉄板に油を引き、隙間なく並べていく。
少量の水を差し入れると、一気に激しい蒸気が立ち上った。
シュワァァァァーーッ!!
蒸気と共に、雷鳴ニラの鮮烈な香りと、ボアの肉が蒸し焼きにされる芳醇な匂いが、爆弾のように周囲に撒き散らされた。
「くっ……な、なんだ、この鋭い香りは! 鼻を刺すのに、なぜか……なぜか喉の奥が潤うようだ!」
ジュリアンが、たまらず一歩後退りした。
彼の胃は、今まさに、経験したことのない「未知の侵略」を受けていた。
「さあ、焼き上がりです。仕上げに、魔臭球の香油をひとかけして……」
鉄板の上で、円盤状に焼き固められた『宝珠』をひっくり返す。
底面は、完璧な黄金色のキツネ色。そして上部は、中の肉が透けて見えるほどプルプルと震えている。
私はそれを、まずは一番近くで涎を垂らしていたアラリック閣下の皿に盛り付けた。
「閣下、まずはそのまま。その後に、この『黒酢と魔臭球のタレ』をつけて召し上がってください」
「ああ、待っていたぞ……!」
アラリック閣下は、箸でその小さな宝珠を掴んだ。
そして、一口でそれを放り込む。
次の瞬間。
「――っ!? っ、はふっ、あ……ッ!!」
閣下の口内から、パチン、という肉の爆ぜる音が聞こえた。
直後、彼の口の端から、熱々の透明なスープ――肉汁が溢れ出す。
「熱い! だが、旨い! なんだ、この小さな袋の中に、どれだけの『力』が凝縮されているんだ! 噛んだ瞬間、肉の旨味が洪水のようになだれ込み、雷鳴ニラの刺激が神経を焼き尽くす! これは……これは食べ物ではない、口の中で炸裂する魔導弾だ!」
アラリック閣下は、熱さに悶えながらも、次々とその宝珠を口に放り込んでいく。
黄金の焼き目がついた皮のパリッとした食感と、上のモチモチした食感。
二重の罠に嵌まり、彼はもう完全に、言葉を失っていた。
「……セフィリア様、殿下。そんなに震えて、どうなさったのですか? もしや、この『不潔な匂い』だけで、お腹が空いてしまったのでしょうか?」
「バッ……馬鹿なことを! わたくしが、このような……」
セフィリアが言葉を遮る。
その時、私の手元から、一粒の宝珠がコロンと皿からこぼれ、彼女の足元へと転がった。
焼き立ての皮が破れ、そこから濃密な肉汁が溢れ出し、彼女の真っ白な靴を汚す。
「あ……」
セフィリアは、その汚れたはずの足元を、凝視した。
漂ってくる、抗いがたい肉とニンニクの香り。
彼女の「浄化の魔法」は、もう発動していなかった。
彼女の指先は、不浄な匂いを払うためではなく、その一粒を拾い上げたいという欲望に震えていたのだ。
「セフィリア、そんなものを見るな! ……っ、だが……だが、なんだ。この匂いは……僕の、僕の理性を、根本から腐らせていくような……」
ジュリアンが、ふらふらと私の方へ歩み寄ってくる。
彼の瞳は、すでに王族としての矜持を失い、ただの一人の「飢えた若者」へと成り下がっていた。
「殿下、一つ差し上げますわ。これが、貴方が捨てた私の『真実』です」
私は、タレをたっぷりと絡めた一粒を、箸で彼の口元へ運んだ。
ジュリアンは、一度だけ私を睨もうとしたが、その直後に香る魔臭球の誘惑に勝てず、ついに、パクりと食らいついた。
ガブリ。
ジュリアンの目が、見開かれた。
顔色が、一瞬で真っ赤に染まる。
「――っ。う、あああぁぁぁぁッ!!」
ジュリアンは、その場に膝をついた。
口の中で暴れる肉汁と、鼻を突き抜けるガーリックの衝撃。
彼が今まで食べてきた、どんな高級な食材も、この一粒がもたらす「暴力的なまでの満足感」には遠く及ばない。
「うまい……うますぎる。なんだこれは……。僕が今まで食べていたものは、ただの、ただの『飾り』だったのか……!? この、喉を焼くような脂……これこそが、僕が本当に求めていたものだ……!」
皇太子ジュリアン。
この国の次期統治者が、離宮の床に膝をつき、肉汁を滴らせながら涙を流している。
その隣で、聖女セフィリアもまた、我慢の限界を迎えたように、足元の『宝珠』を、指でつまみ上げていた。
「わたくしも……わたくしも、もう、我慢できませんわ……!」
聖女が、その小さな口で、禁断の味に手を染めた。
その瞬間、彼女の纏っていた「浄化の光」は完全に消滅し、代わりに、油で光り輝く艶やかな唇が残された。
離宮を支配したのは、沈黙。
そして、その後に続く、狂おしいまでの咀嚼音だった。
「……エレーナ」
アラリック閣下が、私の腰を引き寄せ、耳元で低く、満足そうに囁いた。
「これでもう、お前を連れ戻そうとする奴はいなくなったな。この国は、いや、この世界は、お前の手のひらの上で、胃袋ごと踊らされることになる」
閣下の独占欲に満ちた声が、心地よく響く。
私は、床に這いつくばって肉汁を求めている皇太子たちを見下ろし、確信した。
これこそが、私の求めていたカタルシス。
清らかさで着飾った偽りの権威を、たった一皿のジャンクフードで引きずり下ろす快感。
「ええ、閣下。次は、もっと『重い』ものを錬成してあげますわ。この国の歴史が、ニンニクの匂いで塗り替えられるまで」
私は、空になった鉄板を見つめ、次なる「背徳のメニュー」を思い描くのだった。




