第4話:使者の困惑と、とろける「罪悪感の円盤」
離宮の厨房に、冷ややかな緊張が走った。
皇太子ジュリアンの側近、バレット伯爵は、ハンカチで鼻を押さえながら信じられないものを見るかのように私を指さした。
「狂ったか、アイゼンベルク大公! このような悪臭を放つ女を庇い、挙句の果てに得体の知れない泥を食らわせるとは。皇太子殿下は、この不潔な令嬢を直ちに引き渡せと命じられている!」
「不潔、か」
アラリック閣下が、静かに、だが確実な殺気を伴って一歩前に出た。
彼の指先には、先ほどまで食べていた「疾風鶏のフリッター」の脂がわずかに残っていたが、その威厳が損なわれることはない。
「バレット。貴公は、今の俺がかつてないほど魔力が安定し、研ぎ澄まされているのが分からんのか」
「なっ……魔力、安定……?」
バレット伯爵が、たじろぎながら閣下の顔を凝視した。
そう、これこそが私の「禁忌フード」の真の効能。
過剰なまでのカロリーと、脳を覚醒させる塩分・スパイス・ニンニクの刺激は、魔力を激しく消費する高位魔術師にとって、最も即効性のあるエネルギー源なのだ。
アラリック閣下の瞳は、いつになく澄んでいる。
慢性的だった飢餓感が消えたことで、彼の全身から溢れる威圧感は、城にいた頃の比ではなかった。
「殿下には伝えておけ。エレーナは俺の監視下に置く。彼女の『魔法調理』は、帝国の軍事バランスを左右する重要な研究対象だとな」
「そ、そんな詭弁が通ると……ぐっ、うぅ!?」
反論しようとしたバレット伯爵の言葉が、不自然に途切れた。
彼の視線が、私の背後にある鉄板……そこに残された、ポテトの最後のかけらに吸い寄せられたのだ。
じゅわ、と。
部屋に残るスパイシーな香りと、揚げ物の余韻。
バレット伯爵もまた、この国の貴族の例に漏れず「清らかな水のようなスープ」で空腹を誤魔化してきた一人だ。
彼の腹が、裏切り者のように小さく鳴った。
「……何だ。貴公も、その『不潔な匂い』に胃袋を掴まれたか?」
アラリック閣下が残酷な笑みを浮かべる。
バレット伯爵は顔を真っ赤にして叫んだ。
「だ、断じて違う! 空腹なのは事実だが、このような……道徳に反するような匂いのものを口にするなど、貴族の誇りが許さぬ!」
「そうですか。では、誇り高い伯爵様には、もっと『刺激的な誇り』を見せて差し上げましょう」
私は、バレット伯爵の鼻を完全に破壊することを決意した。
逃げ出そうとする彼の背中に、魔法の詠唱を叩きつける。
「錬成――純白の強力粉。黄金の酵母。そして、太陽をたっぷりと吸った『陽光果』のソース」
まな板の上に、真っ白な生地が現れる。
私はそれを手早く円形に広げた。
さらに、北の寒冷地で育つ魔獣、スノーゴートの乳から作った、糸を引くように溶ける特製チーズ。
仕上げに、香草で味付けしたクリムゾンボアのサラミをこれでもかと並べる。
そして、極めつけだ。
昨日から大活躍の魔臭球を、オリーブの油でじっくり煮詰めた「特製香油」を、円盤の縁にたっぷりと塗りたくった。
「閣下、今度はこの『窯』へ。一気に高火力で焼き上げます」
「承知した。俺の炎を使え」
アラリック閣下が魔法で厨房の石窯を瞬時に熱する。
生地を滑り込ませた瞬間、香りの爆弾が炸裂した。
小麦が焼ける香ばしい匂い。
陽光果のソースが煮詰まる甘酸っぱい香り。
そして……チーズがふつふつと泡立ち、焦げ目がつく際の、あの暴力的なまでの芳醇な香り。
「ひっ……な、なんだ、この匂いは……!? これまでのものより、さらに……さらに凶悪ではないか!」
バレット伯爵が膝をつき、震える手で鼻を覆う。
だが、その指の隙間からは、止めどなく溢れる涎を飲み込もうとする喉の動きが見えていた。
数分後。
窯から引き出されたのは、縁がぷっくりと膨らみ、チーズが地獄の業火のように煮えくり返る、熱々の円盤だった。
「本日の昼食第二陣。『背徳のチーズ円盤』です」
私はそれを大きなカッターで八等分にした。
バリッ、と、生地が小気味よい音を立てる。
その切れ目から、溶けたスノーゴートのチーズが、まるで滝のようにとろりと流れ出した。
「さあ、閣下。これは冷めないうちにどうぞ。チーズが伸びるのが、美味しさの証です」
「……ああ、分かっている」
アラリック閣下は、迷うことなく一切れを手に取った。
持ち上げた瞬間、チーズがどこまでも、どこまでも長く伸びる。
彼はそれを、口を大きく開けて迎え入れた。
「はふっ、あ……っ! ……熱い。だが、熱さが旨さを加速させる! この生地の底はカリッとしているのに、上はモチモチだ。そしてこの、乳脂の塊が口の中で暴れる感覚……! エレーナ、俺をどうするつもりだ。これでは、もう椅子から立ち上がれん……」
閣下の目は、すでにとろけていた。
騎士団長としての厳格さはどこへやら、彼は伸びるチーズを指で絡め取りながら、恍惚とした表情で咀嚼を続けている。
「自分も、自分も頂きます! うぉぉ、なんだこのソースの酸味! 脂っこいのに、この赤い果実の味が、次の一口を強要してくる……! 魔臭球の油が、指についただけで白米が三杯いけますよ!」
グンターもまた、熱さに悶えながら、大きな円盤を半分に畳んで豪快に頬張った。
彼の鼻からは、幸せそうな湯気が立ち上っている。
その様子を、バレット伯爵は青い顔で見ていた。
だが、ついに。
彼の誇りは、チーズが糸を引く視覚的な暴力の前に、粉々に砕け散った。
「……そ、その。毒見だ。万が一、大公閣下のお体に障ってはならぬからな……」
バレット伯爵は、震える手で、最後の一切れに手を伸ばした。
そして、恐る恐る口にする。
「――っ!?!?!?」
瞬間、彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「う、うまい。うまいぞ、これは……! なんだ、この旨味の洪水は! 今まで私が食べていた『高貴なパン』は、ただの乾いたスポンジだったのか!? この、喉に突き刺さるような魔臭球の刺激……これこそが、生きているという実感ではないか!」
バレット伯爵は、なりふり構わず皿に残ったチーズの焦げカスまで指ですくい取った。
彼の顔には、もう侮蔑の色など一欠片もない。
「エレーナ様……! 申し訳ありませんでした! 不潔などと……私は、自分自身の愚かさに恥じ入るばかりです。この……この『円盤』をもう一枚、いや三枚ほど焼いてはいただけないでしょうか! 殿下への報告など、どうでもよくなった……!」
「ダメだ、バレット。これは俺の分だ」
アラリック閣下が、残りのピザを自分の手元へ引き寄せ、冷たく言い放つ。
彼は、バレット伯爵を見る目に、明確な「食敵」への警戒を宿していた。
「お前はもう食べた。帰れ。そして殿下にはこう伝えろ。エレーナは、帝国の『胃袋』を掌握したとな」
閣下はそう言うと、私の肩を力強く抱き寄せた。
その手からは、チーズと肉の温もりが伝わってくる。
「エレーナ。お前を誰にも渡さない。たとえ皇太子が自ら来ようとも、俺はこの『味』と、お前という存在を、命に代えても守り抜く」
耳元で囁かれた、騎士団長からの熱すぎる独占宣言。
私は、少しだけ恥ずかしくなりながらも、彼の胃袋を完全に仕留めたことを確信した。
窓の外では、ピザを焼く香ばしい匂いが風に乗り、城の方角へと流れていく。
その匂いに導かれ、また新たな「犠牲者」たちがこの離宮へやってくるのは、もはや時間の問題だった。




