第3話:離宮の秘密と、黄金の「サクサク」
地下牢の湿った空気とはおさらば。
私が案内されたのは、アラリック閣下が管轄する騎士団専用の離宮だった。
しかも、そこには驚くほど整った最新の厨房が備え付けられている。
「ここは俺が魔力訓練の合間に休息をとるための場所だ。他者の目は入らない。エレーナ、お前を罪人として扱う者はここにはいない」
アラリック閣下はそう言って、私に自由を与えてくれた。
もちろん、彼の目的は明確だ。
私の背後に立ち、獲物を待つ大型犬のように、じっと私の手元を見つめている。
「……閣下、そんなに至近距離で見つめられては、料理がしにくいのですが」
「気にするな。俺は、お前がその奇妙な魔法で、次は何を顕現させるのか興味があるだけだ」
嘘だ。
その目は、知的好奇心ではなく、完全に胃袋に支配された男の目だ。
隣では、護衛という名目で付いてきたグンターも、期待に満ちた顔で自分を律しようと必死になっている。
さて、今日のお昼は何にしよう。
昨夜はニンニクたっぷりの麺とステーキだった。
重厚な味が続いたからこそ、次は「食感」で脳を揺さぶりたい。
「今日は、王家の鳥、ストームグリフォンの雛に近い種……『疾風鶏』を使いましょう。それと、土の中で魔力を吸って育った『魔晶芋』も」
私は右手をかざす。
前世で愛してやまなかった、あの「黄金色の揚げ物」に必要な調味料を錬成する。
「錬成――純白の澱粉。そして、数種類の香辛料を調合した禁断の粉。さらに、極限まで精製した透明な植物油」
バチバチと火花が散り、厨房の台の上に真っ白な粉と、大瓶に入った油が現れる。
アラリック閣下が不思議そうに粉を指先で触れた。
「これは……小麦粉ではないのか? これほど白く、細かな粉は見たことがない」
「ふふ、これが『サクサク』の正体ですよ、閣下」
私は手際よく疾風鶏の肉を一口大に切り、魔臭球の絞り汁と黒大豆の煮汁、そして数種類の香辛料に漬け込む。
次に、魔晶芋を細長い棒状に切り分けた。
「エレーナ様、その芋を……そのまま揚げるのですか? 芋は普通、茹でてから潰すものでしょう」
グンターが驚きの声を上げるが、私は黙って熱した油の中に芋を投入した。
シュワーッ!
心地よい高音が厨房に響き渡る。
油の中で踊る魔晶芋が、次第にキツネ色へと色づいていく。
続いて、粉を薄く纏わせた疾風鶏も油の海へ。
「くっ……この音、そしてこの香ばしい匂い。ステーキの時とはまた違う、胸の奥を掻きむしるような刺激だ」
アラリック閣下が思わずといった風に、鼻先をひくつかせる。
魔晶芋のカリッとした質感。
そして鶏肉から溢れ出す、スパイシーな肉の香り。
油が弾ける音さえも、この場所では最高の調味料だった。
「はい、お待たせしました。本日のメニュー、『黄金のフリッターと魔晶ポテトの塩まみれ』です」
大皿に山盛りにされた揚げたての料理。
私は仕上げに、結晶化した粗塩をこれでもかと振りかけた。
アラリック閣下は、我慢の限界だと言わんばかりにフォークを伸ばすが、私はそれを制する。
「閣下、これは指でつまんで食べるのが一番美味しいんです」
「……指でだと? そんな、貴族にあるまじき――」
「騙されたと思って」
私が一切れを自分の指でつまみ、サクッ、と音を立てて食べて見せる。
中の肉汁がじゅわっと溢れ、私の唇を光らせる。
その様子を見たアラリック閣下は、ついに意を決したように、大きな指で黄金色の肉をつまみ上げた。
そして、一口。
「――!? サクッ……じゅ、じゅわぁぁ……ッ!!」
アラリック閣下の口内で、軽快な音が響いた。
「なんだ、この食感は! 外側は氷の層のように硬く、繊細に砕けるのに、中からは溶岩のような熱い肉汁が溢れてくる。この『サクサク』という音……耳から脳が溶けてしまいそうだ!」
「閣下、こちらの芋もどうぞ。塩を強めに効かせてあります」
彼は次に魔晶ポテトを数本まとめて口に放り込んだ。
「う、旨い……! ホクホクとした芋の甘みに、この鋭い塩気が完璧に調和している。止まらん。指が勝手に、次の芋を探して動いてしまう!」
「自分も、自分も失礼しますッ!」
耐えきれなくなったグンターも参戦した。
一本のポテトを口に入れた瞬間、彼は震えながら天を仰いだ。
「ああ……生きててよかった。このカリカリした部分だけを永遠に食べていたい。エレーナ様、これに比べたら、今まで自分が食べていたマッシュポテトはただの泥です!」
「二人とも、飲み物も忘れないでくださいね。これを流し込むための『黒い弾ける水』を用意しましたから」
私は、真っ黒な液体に氷を浮かべたコップを差し出した。
シュワシュワと泡立つそれは、前世の記憶にある「コーラ」を再現したものだ。
アラリック閣下は疑いもせず、その黒い液体を煽った。
「ッ――!? 喉が、喉が弾ける! だが、この刺激が、揚げ物の油分をすべて洗い流して、次の一口を呼び寄せる……。なんだこれは、恐ろしい。この液体は、無限に食べさせるための呪いか!」
「呪いではなく、幸せのループですよ」
私が微笑むと、アラリック閣下は顔中を脂で輝かせ、騎士団長としての威厳をどこかへ置き去りにしたまま、夢中で皿を空にしていった。
静かだった離宮の厨房に、サクサクという軽快な音と、二人の男の荒い吐息、そして「旨すぎる」という呻きが交互に響く。
しかし、そんな幸せな時間を切り裂くように、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「アイゼンベルク大公! ここにおられるのは分かっております! 皇太子殿下より、地下牢から消えた罪人エレーナの件で至急――」
現れたのは、皇太子の側近。
彼は厨房に立ち込める、強烈な揚げ物とスパイスの匂いに顔を歪めた。
「な、なんだこの不潔な……鼻を突く下卑た匂いは! 閣下、まさかこのような場所で、その罪人と何を……」
アラリック閣下は、手元のポテトを最後の一本までゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
そして、冷徹な死神の瞳を側近へと向けた。
「……見て分からんか。俺は今、帝国の最重要事項を遂行中だ」
「は? 重要事項……?」
「エレーナの料理による、魔力供給試験だ。邪魔をするな。お前の発言一つで、俺の今の完璧な満腹感が損なわれた。万死に値するぞ」
「え、ええぇ……?」
アラリック閣下の放つ殺気に、側近はガチガチと歯を鳴らして後退りする。
閣下は私の隣へ歩み寄ると、脂の付いた指をこれ見よがしに、私の錬成した布で拭った。
「エレーナ。どうやら外が騒がしくなってきたようだ。お前を不潔だと罵る連中に、教えてやろう。真の豊かさとは何かをな」
彼の瞳には、私の料理によって完全に火がついた、狂気にも似た守護欲が宿っていた。




