第2話:氷の騎士団長と、禁断の背脂ステーキ
鉄格子の向こう側に立つアラリック・フォン・アイゼンベルク大公は、まさに死神のような威圧感を放っていた。
冷徹なまでに整った美貌。
深い夜の色の髪。
そして、すべてを見透かすような鋭い瞳が、私と、そして空になったグンターの丼を射抜く。
「……何だ、この異様な臭気は」
アラリックの低い声が地下牢の空気を震わせた。
この国の貴族は、匂いの強い食材を忌み嫌う。
特に彼のような高魔力保持者は、五感が鋭すぎるゆえに、刺激物に敏感なはずだった。
「団長! これは、その、エレーナ様が……」
グンターが慌てて立ち上がり、口元の油を拭おうとするが、もう遅い。
彼の顔はテカテカと輝き、辺りには隠しようのないニンニク――魔臭球の匂いが充満している。
私は、手元に残っていた最後の「厚切り肉」をあえてゆっくりと咀嚼した。
アイアンタスクボアの脂が、私の舌の上でとろりと溶ける。
その様子を、アラリックの瞳がじっと追っているのがわかった。
「大公閣下、不潔な場所へようこそ。おひとつ、いかがですか? ちょうど追加を作ろうと思っていたところです」
「ふざけるな。貴様、毒殺の罪で捕らえられていながら、牢の中で禁忌の魔術を使っているのか」
アラリックが一歩、踏み込んでくる。
彼は私の錬成した魔導コンロを険しい目で見つめた。
この国において、食事を具現化する魔法は存在するが、それはあくまで「清らかな水」や「味のない保存食」を作るためのものだ。
こんな、脂の焼ける音を立て、胃を直接掴んでくるような料理を作るなど、彼にとっては未知の脅威なのだろう。
しかし、私は見ていた。
彼の喉仏が、小さく上下したのを。
そして、彼の高い魔力が、慢性的にお腹を空かせていることも。
「これは魔術ではなく、芸術ですわ。閣下、あなたはずっとお腹を空かせているのでしょう? その鋭すぎる魔力が、あなたの体力を削り、胃袋を空っぽにしている」
「……黙れ。貴様に何がわかる」
アラリックの声に、わずかな苛立ちが混じる。
それは怒りというより、必死に抑え込んでいる本能の揺らぎに見えた。
私は彼にこれ以上の言葉は不要だと判断し、右手をかざした。
再び、魔力を練り上げる。
「錬成――アイアンタスクボアの、リブロース。そして魔臭球の特製ソース」
じ、じじ、と魔力の火花が散り、空中に新たな食材が現れる。
今度は麺ではない。
拳ほどの厚みがある、見事な霜降りの肉塊だ。
それを、熱した鉄板の上に一気に載せる。
ジューッ!
凄まじい音と共に、肉から溢れ出した黄金色の脂が弾けた。
そこに、たっぷりと刻んだ魔臭球と、この国では「不浄の調味料」とされる塩気の強い黒大豆の煮汁を注ぎ込む。
立ち上る蒸気は、もはや暴力だった。
醤油に似た香ばしさと、ニンニクの刺激、そして焼ける肉の香りが混ざり合い、地下牢という閉鎖空間を「旨味」で支配していく。
「な……ッ!?」
アラリックが、たじろぐように一歩下がった。
だが、その視線は鉄板の上で暴れる肉に釘付けだ。
「さあ、焼き上がりました。閣下、お口に合わなければ捨ててくださって結構です。ただ、今のあなたに必要なのは、清らかなスープではなく、この暴力的なまでの栄養のはずよ」
私は錬成したナイフとフォークを添えて、焼き立てのステーキを差し出した。
肉の上には、これでもかとばかりにバターに似た乳脂と魔臭球が鎮座している。
アラリックは、侮蔑と困惑の入り混じった表情で私を睨んでいたが、やがて、吸い寄せられるように鉄格子の隙間から皿を受け取った。
「……毒味は済んでいるのだな、グンター」
「はっ! 自分、先ほど麺をいただきましたが、五体が内側から燃えるような活力を得ました!」
グンターの力強い言葉に背中を押されたのか、アラリックはついに、一切れの肉を切り分け、口に運んだ。
世界が静まり返った。
アラリックの動きが止まる。
彼は目を閉じ、眉間に深い皺を寄せたまま、咀嚼を始めた。
「――っ、おお……」
漏れ出たのは、悲鳴に近い感嘆だった。
「なんだ、これは。肉を噛むたびに、熱い奔流が全身を駆け巡る。この、魔臭球という根菜……。舌を刺すような刺激があるのに、その後から追いかけてくる肉の甘みが、すべてを調和させている」
彼は、まるで取り憑かれたように二切れ目、三切れ目とナイフを動かす。
「脂が……脂が重くない。それどころか、俺の体内の魔力が、この油を求めて歓喜しているのがわかる。今まで食べていた宮廷の肉は、紙の束だったのか?」
「それは、あなたが魔力を使いすぎているからですわ。高潔な食事では、あなたの魂は満たされない」
私がそう言うと、アラリックは最後の一切れを惜しむように口に入れ、ソースの一滴までもをパンに絡めて拭い取った。
あれほど冷徹だった男の頬は赤らみ、瞳には情熱的な光が宿っている。
「エレーナ……。貴様、これほどのものをどこで学んだ」
「前世の記憶、とでも言っておきましょうか」
私が微笑むと、アラリックは皿を私に返しながら、身を乗り出すようにして鉄格子を掴んだ。
その手はわずかに震えている。
「グンター。今すぐこの牢の鍵を開けろ。エレーナをここから出す」
「えっ、団長!? しかし、彼女は聖女様を毒殺しようとした罪人で……」
「黙れ! これほどの至福を作り出せる者が、あのような味の薄い、おままごとのようなスープに毒を盛る価値を感じるはずがない! これは帝国の損失だ」
アラリックの言葉には、絶対的な確信がこもっていた。
彼は私を見つめ、これまでの誰よりも熱い声で囁いた。
「エレーナ。お前の罪は俺が洗い直す。だから、その代わりに……」
「代わりに?」
「明日も、これを俺に作れ。いや、三食すべてお前の料理で満たしてほしい。俺の魔力も、心も、もうお前のこの味なしでは生きられない」
それは、帝国最強の騎士による、事実上の降伏宣言だった。
私は、心の中でガッツポーズを決める。
やはり、ニンニクと脂は裏切らない。
「いいですよ、閣下。ただし、私の料理はとってもカロリーが高いですから、覚悟しておいてくださいね?」
「構わん。お前に溺れるというのなら、それも本望だ」
冷徹だったはずの騎士団長の瞳が、獲物を狙う獣のような、それでいて愛おしいものを見つめるような温度を帯びていた。
こうして、私の地下牢生活は、わずか一晩で「専属シェフ」兼「溺愛対象」へと劇的な変化を遂げたのである。




