第13話:堕落の代償と、とろける「深淵の肉厚サンド」
離宮を包囲していた宰相の軍勢が、カレーの匂いと騎士団の反乱によって霧散してから数時間が経過した。
帝国の権威を象徴するはずだった正門前には、今や戦いの跡ではなく、燃え尽きた灰のような静寂と、どこか鼻をくすぐるスパイシーな余韻だけが漂っている。
「……ふぅ。これでしばらくは静かになるかしら」
私は厨房の椅子に深く腰掛け、額の汗を拭った。
足元では、皇太子ジュリアン殿下と聖女セフィリア様が、空になったカレーの皿を抱えたまま、満足げな寝息を立てている。
かつて私を冷酷に切り捨てた二人が、今や私の料理なしでは眠ることさえできない「胃袋の奴隷」と化している姿は、何度見ても飽きない。
「エレーナ。連中のことは放っておけ。それよりも、俺を見ろ」
不意に、背後から熱い吐息と共に、強靭な腕が私の肩を抱きしめた。
アラリック閣下だ。
カレーによる魔力ブーストを受けた彼の体は、まるで暖炉のように熱く、その肌からは微かにスパイスの香りが立ち上っている。
彼の魔力は今や離宮全体を物理的に発光させるほどに高まっており、その瞳は夜の海よりも深く、私への執着で濁っていた。
「閣下、魔力が溢れすぎていますわ。少しは落ち着いてくださいな」
「無理を言うな。お前の料理を喰らうたびに、俺の中の『何か』が壊れていくのがわかるのだ。……もっとだ、エレーナ。もっと俺を、お前という毒で満たしてくれ」
閣下は私の首筋に鼻を寄せ、深く、深くその匂いを吸い込む。
食欲と愛欲が渾然一体となったその視線は、もはや騎士団長のものではなく、飢えた魔王のそれだった。
「……仕方がありませんわね。激しい戦いの後は、心と胃袋を優しく、それでいて重厚に包み込む『癒やし』が必要ですわ」
私は閣下の腕をすり抜け、最後の仕上げに取り掛かる。
今日、私が錬成するのは、これまでの「暴力的な味」とは少し趣を変えた、だが確実に人を廃人にする一品だ。
「錬成――アイアンタスクボアの腹身肉(バラ肉)。それを、焦がした魔臭球と蜜で三日三晩煮込んだと想定した『漆黒の煮豚』」
作業台の上に、プルプルと震えるほど柔らかく煮込まれた、巨大な肉の塊が現れる。
脂身は透き通るような飴色に輝き、赤身の部分は箸で触れるだけで崩れそうなほどにホロホロだ。
「錬成――バターの海で焼き上げた、極厚の『黄金食パン』。そして、スノーゴートの乳から作った、糸を引く『濃厚乳脂ソース』」
私はまず、厚さ三センチに切った食パンをバターで両面カリカリに焼き上げた。
その上に、さらに厚さ二センチはある漆黒の煮豚を二枚、どんと載せる。
仕上げに、上からたっぷりの濃厚乳脂ソースをかけ、魔力で加熱してトロトロに溶かした。
「はい、閣下。本日の癒やし、『深淵の肉厚煮豚サンド・乳脂の滝仕立て』ですわ」
それは、手に持つことさえ困難なほどの重量感。
煮豚の甘辛い香りと、バター、そしてチーズの芳醇な香りが混ざり合い、閣下の理性を最後の数ミリで繋ぎ止めている。
「……ああ、これだ。これがお前の、俺への回答か」
アラリック閣下は、その巨大なサンドイッチを両手で掴んだ。
そして、大蛇が獲物を呑み込むかのように、大きく口を開けて食らいついた。
「――ッ!! ぉ、ぉぉぉぉぉぉッ!!」
閣下の喉が大きく鳴り、次の瞬間、彼の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
あまりの旨さに、彼の魂が震えているのが魔力の揺らぎでわかる。
「旨い……! 煮豚の脂が、口に入れた瞬間に体温で溶けて、甘いソースとなって舌を包み込む! そこにこの、濃厚な乳脂の塩気が加わり、味の深淵へと俺を叩き落とす! このパン……肉の脂をすべて吸い取って、まるで宝箱のようだ!」
「閣下、そちらの『焦がし魔臭球スープ』も一緒にどうぞ。サンドイッチを浸して食べるのが、通の食べ方ですわ」
私は、真っ黒なニンニクオイルが浮いた、濃厚なクリームスープを差し出した。
閣下は躊躇なく、サンドイッチの端をスープに浸し、口へ運ぶ。
「……っはあぁぁぁッ!! 恐ろしい! パンがスープを吸って、さらに重く、さらに深く……。俺の中の魔力が、この一口ごとに咆哮を上げている! エレーナ、お前は……お前は俺を、どこまで高く、どこまで深く連れていくつもりだ!」
閣下は、無我夢中でサンドイッチを貪り、スープを煽った。
その食べっぷりは、もはや芸術的ですらある。
一滴の脂、一欠片のパン粉さえも逃さないという、狂気的なまでの食への執着。
その匂いに釣られて、床で眠っていた二人も、ゾンビのように起き上がってきた。
「……あ。……あぁぁ。その、とろとろとしたお肉は、なんですの……?」
「シェフ……僕にも、僕にもその、脂の塊を……。もう、何も考えたくないんだ。ただ、その美味しさに溺れていたい……」
皇太子と聖女が、空っぽの目で私に縋り付いてくる。
私は溜息をつきながら、彼らの分も用意してあげた。
二人はサンドイッチを口にした瞬間、同時に白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「あぁ……幸せ……。わたくし、もう、聖女なんてお辞めしますわ……」
「僕の……僕の帝国は、このパンの中にあったんだ……」
三人の強大な魔力が、サンドイッチのエネルギーを得て共鳴し、離宮を黄金の光が包み込む。
それは、帝国のどの儀式よりも神々しく、そしてどの宴よりも下俗で、最高に「美味しい」光景だった。
「……エレーナ」
最後の一口を飲み込み、指についたソースまでを愛おしそうに舐めとったアラリック閣下が、私を後ろから押し倒すようにして抱きしめた。
彼の心音は、ドラムのように激しく打ち鳴らされている。
「この離宮を、新しい帝国の中心にする。お前が作り、俺が喰らい、俺たちが統べる。ニンニクの香りと脂の輝きこそが、この国の新しい法だ」
「あら、それは随分と胃もたれしそうな帝国になりそうですわね、閣下」
私が笑いながら答えると、閣下は私の耳元を優しく噛み、独占欲を滲ませた声で囁いた。
「構わん。お前がいれば、俺はどんな地獄でも、どんな肥沃な土地でも、永遠に喰らい続けてやる」
閣下の瞳には、煮豚の脂よりも濃厚な、逃れられない愛が宿っていた。
悪役令嬢による「胃袋からの帝国制圧」。
それは今、一人の騎士団長を完全な「守護獣」に変え、新たな時代を告げる狼煙となったのだ。
窓の外では、サンドイッチの匂いに誘われた騎士たちが、吸い寄せられるように離宮の壁を登り始めていたが、今の閣下なら、彼らさえも指先一つで、あるいは「おすそ分け」一つで従えてしまうだろう。




