第12話:断罪の門と、紅蓮に燃える「禁忌の刺激(スパイスカレー)」
離宮の重厚な正門の向こう側から、無機質な軍靴の音が響いてきた。
それまで離宮を囲んでいた「空腹の騎士たち」の喧騒が、一瞬にして静まり返る。
門を割って現れたのは、皇帝の直属である法衣貴族たちと、帝国の国教を司る大司教を筆頭とした「保守派」の老人たちだった。
「アイゼンベルク大公! そこをどけ! 皇太子殿下と聖女様を、その不浄な女の魔手から救い出すのだ!」
先頭に立つのは、帝国宰相のヴォルガノ伯爵。
彼は香水をたっぷりと染み込ませたハンカチで鼻を覆い、離宮から漂う「ハンバーグの余韻」を忌々しそうに睨みつけていた。
「断る。宰相殿、ここから先は俺の管轄だ。たとえ皇帝陛下の勅命であっても、今の俺は、エレーナを渡すつもりはない」
アラリック閣下が、私の前に立ちはだかる。
彼の背中からは、昨夜までの比ではない、圧倒的な魔力の波動が立ち上っていた。
ジャンクフードによって極限まで充填された彼の魔力は、もはや一人で軍隊を壊滅させかねないほどの密度に達している。
「狂ったか、大公! その女は聖女様を毒殺しようとした大罪人だぞ! そのような女が作る『泥』に胃袋を掴まれるなど、帝国の恥さらしだ!」
宰相の罵声。
だが、その背後に控える護衛兵たちの鼻が、ピクピクと動いているのを私は見逃さなかった。
彼らは、アラリック閣下の漲る生命力と、離宮から漂う「本能を揺さぶる匂い」に、恐怖よりも深い興味を抱いている。
「……閣下。言葉では、彼らには通じないようですわ」
私は、アラリック閣下のシャツの裾をそっと引き、不敵な笑みを浮かべた。
「彼らの凝り固まった脳を、内側から爆破してあげましょう」
私は右手を高く掲げた。
これまでの「脂」や「甘み」とは一線を画す、鋭利で、熱く、それでいて深淵のような魔力を練り上げる。
「錬成――紅蓮の果実。大地の熱を帯びた『獄炎の種子』。そして、アイアンタスクボアの骨髄を極限まで煮詰めた、黄金の出汁」
作業台の上に現れたのは、鼻を突くような鋭い香りを放つ、色とりどりの粉末だった。
クミン、コリアンダー、ターメリック……そして、この世界では「毒草」に近い扱いをされている、超激辛の『地獄唐辛子』。
「シェフ! 魔臭球のすりおろし、準備できましたわ!」
「エレーナ、僕もこの……玉葱というやつを、涙を流しながら刻み終えたぞ!」
厨房の奥から、エプロン姿の聖女セフィリア様と皇太子ジュリアン殿下が、ボウルを抱えて走り寄ってくる。
その姿を見た宰相たちは、あまりの衝撃に言葉を失い、持っていた杖を落とした。
「……な、なな、なんだその姿は!? 殿下! 聖女様! 貴方様方が、なぜそのような不潔な作業を!」
「不潔ではありませんわ、宰相殿! これは聖なる儀式……これから生まれる『奇跡』のための、尊い下準備なのです!」
セフィリア様の目が、狂信的な光を宿して輝く。
私は彼女の手から魔臭球を受け取り、巨大な鍋へと投入した。
じゅわぁぁぁぁぁぁッ!!
これまでの料理とは明らかに違う、鋭い刺激臭が離宮から溢れ出した。
それは、嗅いだ瞬間に涙が溢れ、喉が焼け、それでいて心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされるような、未知の芳香。
「錬成――アイアンタスクボアの極厚バラ肉。それを、この紅蓮の液体で煮込む!」
数十種類のスパイスと、ボアの脂、そして焦がした玉葱が混ざり合い、鍋の中はドロリとした「赤茶色の溶岩」へと変貌していく。
私はそこに、さらに大量の魔臭球と、ボアの背脂をたっぷりと追加した。
「はい、お待たせしました。本日の最終回答、『断罪の紅蓮スパイスカレー・全部マシ』ですわ」
私は、炊きたての白真珠米を山盛りにし、その上から、沸騰する紅蓮のルーを豪快にかけ回した。
仕上げに、素揚げした魔晶芋と、黄金の半熟卵をトッピングする。
立ち上る蒸気は、もはや兵器だった。
離宮の門の前で構えていた騎士たちが、その「匂いの暴力」に耐えきれず、次々と膝をつき、口から涎を流し始める。
「な……なんだ、この鼻を突き抜けるような、熱い匂いは! 体が、体が勝手に火照りだす!」
「これこそが、貴方たちが『清らかさ』のために捨て去った、大地の咆哮ですわ」
私は、まずはアラリック閣下の前に、特大の皿を置いた。
閣下はスプーンを手に取り、真っ赤な液体を米と共に掬い上げる。
「……いただく。お前の作る『熱』を、俺の魂に刻み込むぞ」
閣下がそれを口に含んだ瞬間。
「――ッ!! ぉ、ぉぉぉぉぉぉッ!!」
閣下の全身から、凄まじい魔力の奔流が爆発した。
彼の髪が逆立ち、瞳は黄金色の光を放つ。
彼は口を押さえ、あまりの辛さと旨味の衝撃に、喉を鳴らして呻いた。
「熱い! 口の中が焼けるようだ! だが、その痛みの後にくる、圧倒的なまでの旨味の波! スパイスの一つ一つが、俺の魔力回路を叩き起こし、眠っていた野性を呼び覚ます! 旨い……旨すぎるぞ、エレーナ! これだ、俺が求めていたのは、この『命の火』だ!」
閣下は、汗をダラダラと流しながら、狂ったようにカレーを掻き込んでいく。
その背後では、ジュリアン殿下とセフィリア様も、自分たちの皿に頭を突っ込む勢いで食らいついていた。
「あぁぁ! 舌が痺れる! なのに、スプーンが止まらない! この辛さの向こう側に、楽園が見えますわ!」
「僕の……僕の体の中の魔力が、燃えている! エレーナ、これだ! これこそが、帝国を統べる者に相応しい、力の味だ!」
三人の発する魔力が共鳴し、離宮の空には巨大な魔法陣が浮かび上がった。
それは、ジャンクフードの摂取によって限界突破した、最強の「胃袋軍団」の誕生を告げる合図。
それを見た宰相ヴォルガノは、恐怖に顔を歪めた。
「ば、化け物か……!? 食べ物一つで、これほどの魔力を……。ええい、構わん、突入しろ! その女を殺し、この呪われた離宮を焼き払え!」
宰相の命令で、数百人の護衛兵たちが門を突破しようとした、その時。
「「「「させるかぁぁぁぁぁぁッ!!」」」」
離宮の周囲で待機していた、あの空腹の騎士団たちが、一斉に立ち上がった。
彼らの瞳には、もはや皇帝への忠誠ではなく、エレーナの作る「カレー」への執着だけが宿っている。
「俺たちの聖域を汚す奴は、誰であっても容赦せん!」
「エレーナ様のカレーを食べるまでは、死んでも死にきれんのだ!」
騎士たちが、たった一杯のカレーの匂いに導かれ、宰相の軍勢を圧倒的な力で押し戻していく。
それは、帝国の歴史上、最も「美味しそうな匂い」が原因で起きた、前代未聞のストライキだった。
「ひっ……ひぃぃぃ! 狂っている! 騎士団までもが、あの女の毒に!」
逃げ惑う宰相の背中に向かって、私は鍋に残ったルーを掲げた。
「宰相殿、清らかさだけでは、お腹は満たせませんのよ。もし命が惜しければ、貴方もこの『紅蓮の地獄』に堕ちてみることですわ!」
離宮に響き渡るのは、肉が煮える音と、騎士たちの雄叫び。
そして、欲望のままにカレーを貪る、帝国最高権力者たちの無様な咀嚼音。
悪役令嬢による「胃袋からの帝国制圧」は、ついに不可逆の段階へと到達した。
明日の帝国議会では、間違いなく「魔臭球」の輸入拡大が最優先事項として可決されることになるだろう。
私は、アラリック閣下に力強く抱き寄せられながら、次の「禁忌のレシピ」を練り始めるのだった。




