第10話:陥落の聖域と、甘美な「悪魔の背徳トースト」
離宮の周囲を埋め尽くす騎士たちの怒号は、もはや暴動に近いものがあった。
「肉を……肉を寄越せ!」
「昨日のチャーハンの匂いが染みついて離れないんだ!」
屈強な男たちが門を揺らし、窓を叩く。
その光景は、さながら飢えた獣の檻のようだった。
「やかましい。……グンター、門に近づく奴は全員、俺の魔圧で叩き伏せろと言っただろう」
アラリック閣下が苛立ちを隠さず、私の肩を抱き寄せる。
昨夜からの過保護ぶりは加速し、今や私の数センチ隣が彼の定位置だ。
閣下は私の髪に鼻先を埋め、深呼吸するようにその香りを吸い込んだ。
「……閣下、今は甘えている場合ではありませんわ。外の騎士様たちを落ち着かせないと、離宮が物理的に破壊されてしまいます」
「ふん。奴らは胃袋が空だから、知性まで失っているのだ。エレーナ、連中の口を塞ぐための、何か……もっと、一撃で意識を飛ばすようなものはないのか」
「一撃で、ですか?」
私は、足元で空腹のあまりガクガクと震えているジュリアン殿下とセフィリア様を見下ろした。
皇太子と聖女は、今や離宮の厨房に住み着く「居座りファン」と化している。
食事の合間には一丁前に掃除などをして貢献しようとしているが、その目は常に私の手元を追っていた。
「……よろしい。ならば、脳を直接とろけさせる『究極の甘美』を披露しましょう。しょっぱいものの後は、甘いものが欲しくなるのが人の常ですから」
私は右手をかざし、これまでにない「甘い」魔力を練り上げた。
「錬成――純白の厚切り食パン。そして、空を駆ける『天牛』の超濃厚バター。さらに、森の王『蜂王』の黄金蜜」
作業台の上に、真っ白でふわふわとした、枕のように厚みのあるパンが現れる。
続いて、透き通るような黄金色の蜜と、雪のように白いバター。
仕上げに、カリカリに焼いたアイアンタスクボアの塩漬け肉を用意した。
「エレーナ、それは……甘いのか? それとも、しょっぱいのか?」
アラリック閣下が怪訝そうに目を細める。
この国のデザートといえば、酸っぱい果実や、味の薄いゼリーが主流だ。
「甘み」と「塩気」を混ぜるという発想そのものが、この世界の常識には存在しない。
「両方ですわ。これこそが、理性を焼き切る『悪魔の背徳トースト』です」
私はまず、厚さ五センチはあろうかというパンの真ん中に十字の切れ込みを入れた。
そこへ、天牛のバターを塊のまま、これでもかと押し込む。
そして、熱したオーブンへと滑り込ませた。
じゅわぁ……。
数分後、バターが熱で溶け出し、パンの芯まで染み込んでいく音が聞こえてきた。
焼き上がったパンの表面はカリッとした黄金色になり、切れ目からは熱々のバターが溢れ出している。
「そこに、この黄金蜜をたっぷりと……」
私はパンの上に、蜂王の蜜をこれでもかと回しかけた。
さらに、その上にカリカリに焼いたボアのベーコンを数枚、贅沢に並べる。
「仕上げに、この『冷たい乳脂の塊』を載せて……完成ですわ」
立ち上る、暴力的なまでの甘い香りと、バターの香ばしさ。
そしてベーコンの燻製香が混ざり合い、厨房の空気を「甘美な地獄」へと変えた。
「な……なんだ、この匂いは! 嗅いだだけで、頭の芯がジンジンする!」
ジュリアン殿下が、よだれを垂らしながら身を乗り出した。
セフィリア様に至っては、法衣の裾を握りしめ、恍惚とした表情で虚空を見つめている。
「さあ、召し上がれ。熱いうちに食べないと、魔法が解けてしまいますわよ?」
アラリック閣下が、ナイフとフォークを手に取り、その巨大なパンの塊を切り分けた。
ザクッという音と共に、中から溶けたバターと蜜が、濁流のように溢れ出す。
彼は、冷たいクリームと熱いパン、そしてベーコンを一度に突き刺し、口へ運んだ。
「――ッ!! ぉ、ぉぉ……っ!!」
一口食べた瞬間、閣下の瞳孔が大きく開いた。
彼は椅子に座っていることができず、テーブルを力強く叩いた。
「なんだ、これは! 脳が、脳が爆発しそうだ! 暴力的なまでの甘さが襲ってきたかと思えば、ベーコンの鋭い塩気がそれを追いかけてくる。そして、この冷たさと熱さの交互の攻撃……! 俺の理性が、今、完全に崩壊した音がしたぞ!」
「わたくしも……わたくしも頂きますわ! ……あぁぁ! なんてことでしょう! この黄金蜜が、わたくしの罪をすべて包み込んで……でも、このバターの脂っこさが、もっと、もっと汚してほしいと叫んでいます! これこそが、真の浄化ですわ!」
聖女セフィリア様は、頬をクリームで真っ白にしながら、なりふり構わずパンを口に詰め込んでいる。
彼女の目は、もうどこか遠い銀河の彼方を見ているようだった。
「シェフ……エレーナ……。僕は、僕はもう、王宮には帰れない。このトーストがない人生など、死んでいるのと同じだ。ああ、この甘味と塩気のループ……! 永遠に、永遠に食べていたい……!」
ジュリアン殿下も、涙と鼻水を流しながら、皿に残った蜜をパンの端で一滴残らず拭い取っている。
厨房に響くのは、ナイフが皿を叩く音と、甘美な地獄に堕ちた者たちの溜息。
窓の外で暴れていた騎士たちも、隙間から漏れ出す「甘いバターの匂い」に、戦意を喪失してその場に座り込み始めていた。
「……エレーナ。お前という女は、どこまで俺を狂わせれば気が済むのだ」
アラリック閣下が、私の手首を掴み、そのまま指先を軽く噛んだ。
彼の瞳には、トーストよりもさらに熱く、ドロリとした独占欲が渦巻いている。
「この甘さは、毒だ。俺を、この離宮から一歩も出られなくするための、最高に卑怯な罠だ」
「あら、閣下。罠にかかったのは、貴方の胃袋だけではないはずですわよ?」
私が小悪魔的に微笑むと、閣下は私をそのまま抱き上げ、厨房の奥へと運ぼうとした。
「門番どもに伝えろ。今から一刻、俺を邪魔する者は、たとえ皇帝であろうと斬る」
「えっ、閣下、ちょっと、まだ片付けが……!」
「片付けなど後だ。俺には、この甘さを流し込むための『別のデザート』が必要なんだ」
閣下の情熱的な視線に、私は抵抗するのをやめた。
窓の外では、トーストの匂いに骨抜きにされた騎士たちが、幸せそうな顔で地面に転がっている。
皇太子を跪かせ、聖女を堕落させ、最強の騎士団を沈黙させたのは、たった一枚の背徳トースト。
悪役令嬢による「胃袋からの帝国制圧」は、今、ひとつの頂点を迎えようとしていた。




