第1話:断罪の夜、私はニンニクを錬成する
カタン、という冷たい音が地下牢に響いた。
湿った石壁に囲まれた、わずか二畳ほどの檻。
そこが、公爵令嬢である私の新しい居場所だった。
「……はぁ、お腹空いた」
私は壁に背中を預け、小さく息を吐いた。
つい数時間前まで、私は王城の大広間で「聖女への毒殺未遂」という身に覚えのない罪を突きつけられていた。
婚約者だった皇太子ジュリアンは、私の必死の訴えに耳を貸すどころか、冷酷な眼差しでこう言い放ったのだ。
「エレーナ、お前のような不潔な女に、この国の高貴な食事を摂る資格はない。地下牢で己の罪を噛み締めるがいい」
そうして私は、晩餐会を前にしてここへ放り込まれた。
この国の貴族が重んじるのは、純潔。
食事もまた、素材の味を壊さない程度の薄味で、脂や香辛料を徹底的に排除した「清らかな料理」が至高とされている。
正直、前世でこってりした味をこよなく愛していた私には、あの砂を噛むような宮廷料理にはもう飽き飽きしていた。
冤罪は腹立たしい。
けれど、それ以上に今の私を支配しているのは、脳を揺さぶるような「あの味」への渇望だった。
「清らかさなんて、クソ食らえ。どうせ明日死ぬかもしれないなら、最後は思い切りギルティなものを食べてやるわ」
私はそっと右手をかざした。
私の固有魔力、物質等価錬成。
魔力を消費して、記憶にある物質をこの世に具現化する力。
本来なら宝石や金貨を生み出して国を豊かにするために使うべき「聖なる力」だと教わってきた。
けれど、今の私が必要としているのは、金でもダイヤでもない。
「……錬成開始」
まずは、底の深い大きな陶器の器。
次に、鉄の牙を持つ猪、アイアンタスクボアの背脂。
そして、黄金色の硬質小麦。
最後に、この国では魔除けにしか使われない、強烈な刺激臭を放つ根菜。魔臭球。
じ、じじ……。
魔力が形を成し、私の目の前に小さな魔導コンロと、黄金色に輝く液体が満ちた鍋が現れる。
鍋の中には、アイアンタスクボアの骨を丸一日煮込んだと想定した、白濁してドロドロの濃厚スープ。
私は震える手で、錬成した極太の麺をその中へ投入した。
小麦の香りが、熱気に乗って一気に膨らむ。
「そう、これよ。この暴力的なまでの視覚情報」
麺が茹で上がるまでの数分間が、永遠のように感じられた。
私は仕上げに、刻んだ魔臭球を山のように盛り付け、背脂を雪のように振りかける。
最後に、甘辛く煮込んだアイアンタスクボアの厚切り肉を三枚、どんと載せた。
出来上がったのは、山のようにそびえ立つ、禁断の一杯。
立ち上る湯気には、この国の人間なら気絶しかねないほどの、暴力的なまでの脂とニンニクの匂いが混じっている。
「いただきます……!」
私は重たい箸を割り、まずは麺を引っ張り出した。
スープをたっぷりと纏った極太の麺は、まるで生き物のように艶めいている。
それを勢いよく、口の中へ放り込んだ。
「――っ!?」
衝撃が走った。
口の中に広がるのは、野性味あふれる肉の旨味と、魔臭球の強烈なパンチ。
噛みしめるたびに、小麦の力強い押し返しが歯を喜ばせる。
ドロリとしたスープが喉を通るたび、冷え切っていた胃袋が、熱い溶岩を流し込まれたかのように活性化していくのがわかった。
美味しい。
美味しいなんて言葉じゃ足りない。
脳が、細胞が、この背徳的な味を待っていたのだ。
「おい、お前! そこで何をしている!」
不意に、鉄格子を叩く音が響いた。
見れば、腰に剣を帯びた門番の男、グンターが顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている。
けれど、彼の怒鳴り声には、どこか落ち着きがない。
鼻をピクピクと動かし、私の手元にある丼を、穴が開くほど見つめている。
「……何って、お夜食をいただいているだけですが?」
私は平然と答え、今度は厚切りの肉をガブリと齧った。
ホロホロと崩れる肉から、閉じ込められていた脂がじゅわっと溢れ出す。
「お、おまっ……貴様! それは何だ! その、鼻が曲がりそうなほど下卑た、それでいて……その、妙に食欲をそそる不潔な匂いは!」
「これは、魔臭球のスタミナ麺です。不潔どころか、元気の源ですよ。一口、いかがですか?」
私はニヤリと笑い、予備で錬成しておいたもう一つの丼を差し出した。
もちろん、麺は硬め、魔臭球と背脂は最大量だ。
「馬鹿を言うな! 自分は帝国騎士団の下に連なる門番だぞ。そんな不浄なもの、口にできるわけが――」
グンターは言いかけた言葉を、自身の腹の音によって遮られた。
静かな地下牢に、ぐううぅ、と、獣の唸りのような音が情けなく響く。
彼は顔をさらに赤くし、葛藤するように丼と私を交互に見た。
「……毒、は入っていないだろうな」
「私が毒殺犯だというなら、これが最後の一撃になるかもしれませんね」
私が挑発的に言うと、グンターは覚悟を決めたように丼を受け取った。
鉄格子の隙間から差し出された禁断の食べ物を、彼は恐る恐る口に運ぶ。
まずはスープを一口。
その瞬間、彼の目が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「な……何だ、これは。舌が、舌が痺れるほどの衝撃だ。なのに、止まらない。喉が、もっとこの油を寄越せと叫んでいる!」
グンターは、先ほどまでの騎士らしい振る舞いをかなぐり捨て、一心不乱に麺をすすり始めた。
ズズッ、ズズズッ! と、この国のマナーでは考えられない無作法な音が地下牢に響き渡る。
「うまい……うますぎる。自分が今まで食べていた、あの味のないスープは何だったんだ。あれはただの温かい水だったのか?」
「ふふ、そうでしょう? その脂と香りの先にこそ、真実の救いがあるんです」
グンターは、汗をダラダラと流しながら、夢中で麺を咀嚼している。
「この肉もすごい! 噛まなくても溶けるようだ。おい、あんた……いや、エレーナ様。自分は、こんなに満たされた気持ちになったのは生まれて初めてです」
彼は丼を抱え込み、最後の一滴までスープを飲み干した。
ぷはぁ、と大きな溜息をつく彼の顔には、先ほどまでの険しさは微塵もなかった。
そこにあるのは、強烈な快楽に打ちのめされた、一人の男の幸福な顔だ。
「……これ、明日も作ってくれますか?」
「それは、これからのあなたの態度次第かしら」
私が小悪魔的に微笑んだ、その時だった。
「――地下牢で何やら騒がしいと思えば。貴様ら、ここで何をしている」
地下牢の奥から、冷徹な、けれど地を這うような重低音の響く声が届いた。
カツン、カツンと正確なリズムで歩み寄ってくるのは、漆黒の甲冑を纏った男。
帝国騎士団長、アラリック・フォン・アイゼンベルク。
この国で最も「清廉」であることを求められ、そして最も空腹に飢えているはずの、死神と恐れられる男だった。
彼の鋭い鼻腔が、地下牢に充満した「ニンニクと脂の匂い」を捉えた。
アラリックの眉間に、深い皺が刻まれる。
私は確信した。
この男の理性もまた、今夜、私が作り出した一杯によって崩壊することを。




