第98話 条件を出す勇気
夜明け前の麦猫堂は、まだ静かだった。
焼き窯の温もりも入っていない厨房で、エリは一人、机に向かっていた。
小さな紙切れ。
何度も書き直し、折り直したもの。
逃げるための言葉ではない。
守るための条件。
(もう、覚悟はできてる)
◇ ◇ ◇
連合の応接室は、前回と同じ静けさだった。
「来ましたか」
監督官アークは、すでに席についていた。
立ち上がることもなく、視線だけで促す。
エリは一礼し、向かいに座った。
セシルは半歩後ろに控える。
「結論を聞かせてください」
空気が引き締まる。
「……はい」
エリは深く息を吸い、はっきりと言った。
「私は、連合主催の催事に参加します」
アークの目が、わずかに細くなる。
「ただし」
その一語で、セシルがわずかに姿勢を正した。
「条件があります」
アークは黙ったまま、続きを促した。
◇ ◇ ◇
「一つ目」
エリは指を折る。
「麦猫堂の通常営業を止めないこと。
催事準備を理由に、店を閉めることはしません」
アークは無言で聞いている。
「二つ目」
「個人名での過度な宣伝を行わないこと。
私はまだ、看板ではなく作り手です」
一拍置く。
「三つ目」
エリは、はっきりと顔を上げた。
「過去の身分や家名を、催事で利用しないこと。
私の評価は、今の仕事だけで判断してください」
室内の空気が、確かに変わった。
◇ ◇ ◇
沈黙。
アークはすぐには口を開かなかった。
机に組んだ指に、わずかに力が入る。
「……かなり踏み込んだ条件ですね」
「分かっています」
エリは視線を逸らさない。
「ですが、これを飲めないなら、
今回は参加しません」
それは挑発ではなかった。
自分の立場を、初めて正しく理解した言葉だった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、アークが小さく息を吐いた。
「あなたは、条件を出せる位置に来てしまった」
責めるでも、褒めるでもない声音。
「準会員が、主催側に条件を突きつける例は少ない」
「……無礼でしたか」
「いいえ」
アークは首を振った。
「無自覚より、よほど健全です」
その言葉に、セシルの肩からわずかに力が抜けた。
◇ ◇ ◇
「一つ目と二つ目は受け入れられる」
アークは淡々と告げる。
「三つ目については、こちらにも条件があります」
エリの心臓が、静かに跳ねた。
「名を伏せることは可能。
だが、完全に過去を切り離すことはできません」
「……それでも」
「その場合、あなたは結果で黙らせる必要がある」
重い言葉だった。
「それでも構いません」
エリは即答した。
「今は、その覚悟があります」
◇ ◇ ◇
アークは、初めてはっきりとエリを見た。
「分かりました。
条件つき参加として、上へ話を通します」
「……ありがとうございます」
「勘違いしないでください」
付け加えるように言う。
「これは温情ではありません。
あなたが、自分の価値を理解していると判断しただけです」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。
◇ ◇ ◇
連合の建物を出たあと、
エリは大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「ですが、逃げませんでした」
セシルの声は穏やかだった。
「うん」
エリは胸元の紙切れを、そっと手放した。
(初めて、自分の立場で話せた)
その実感が、確かに残っていた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(午前のみ) +15
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +35
借金残高 21,706 → 21,671リラ
セシルの一口メモ
条件を出すとは、
相手を拒むことではありません。
自分を、正しく差し出すということです。




