第97話 挟み撃ち
午前の仕込みを終えたころ、
麦猫堂の扉が控えめに叩かれた。
「エリさん。お時間よろしいですか」
聞き覚えのある、落ち着いた声。
振り返ると、クレアル邸の家令補佐アンナが立っていた。
「奥様が、少しお話ししたいと仰っております。
今日か、遅くとも明日には」
胸の奥が、静かに波立つ。
(……来た)
「分かりました」
エリは小さく頷いた。
「今日の夕方なら……」
アンナは安堵したように微笑み、一礼して去っていく。
◇ ◇ ◇
その背中が見えなくなった直後だった。
店の前に、見慣れた人物が立っていた。
「ご無沙汰しています、エリ殿」
監督官アーク。
外套をまとったその姿は、周囲の空気を一段引き締める。
「……アークさん」
「少し話がある」
端的な言葉。
「今日の午後、連合へ来られますか」
エリは、一瞬だけ言葉を失った。
(今日……夕方は、ルチア様との約束が……)
セシルが半歩前に出る。
「内容を伺ってもよろしいですか」
「催事の件です」
アークは即答した。
「判断の猶予はあると言いましたが、
状況が動き始めています」
視線が、まっすぐエリに向けられる。
「あなた自身の言葉を、そろそろ聞きたい」
◇ ◇ ◇
店の奥。
エリは椅子に座り、深く息を吐いた。
「……挟まれてるね、完全に」
「偶然ではないでしょう」
セシルは落ち着いている。
「双方とも、エリの決断を見逃せなくなった」
「まだ……条件、正式には出してないのに」
エリは胸元に触れる。
折りたたんだ紙は、そこにある。
(準備はできてるのに)
(渡す順番が、決まらない)
◇ ◇ ◇
午後。
連合の応接室は、相変わらず簡素だった。
「まず伝えておく」
アークは椅子に腰を下ろし、静かに言う。
「催事の参加枠は、あなたを含め三名に絞られました」
エリの背筋が伸びる。
「辞退する場合でも、
次の機会は保証されない」
それは脅しではない。
事実の提示だった。
「……はい」
「条件があるなら、聞く」
アークは淡々と続ける。
「ただし、公式の場に出す以上、
私情は考慮しません」
(今、出すべき……?)
エリは、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「……少しだけ、時間をください」
アークは一瞬、目を細めたが、頷いた。
「今日中までです」
◇ ◇ ◇
夕刻。
今度はクレアル邸の客間。
「来てくださって、ありがとう」
ルチアは柔らかく微笑んだ。
「街の様子が、少し騒がしくなっていますね」
「……はい」
「催事のお話も、耳にしました」
静かな声。
「エリさんは、どうなさるおつもり?」
同じ問い。
だが、重みが違う。
「私は……」
エリは正直に言った。
「条件次第で、考えたいと思っています」
「条件」
ルチアは興味深そうに目を細める。
「それは、とても健全な考えです」
穏やかな口調。
「無理を強いられる場に、
善意は長く続きませんから」
(……話しやすい)
そう感じた自分に、エリは少し怖くなった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
空はすでに暗く、街灯が灯っている。
「……両方、会ってしまったね」
エリがぽつりと言う。
「ええ」
セシルは頷く。
「ですが、もう隠す必要もありません」
エリは、胸元の紙をぎゅっと握った。
(次は……逃げない)
誰に、どう伝えるか。
それを選ぶ立場に、もう立っている。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額
収入 店頭販売(午前のみ) +18
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +38
借金残高 21,744 → 21,706リラ
セシルの一口メモ
同時に声がかかる時、
選ばれているのは道ではなく、覚悟です。
沈黙も迷いも、
決断の途中に過ぎません。




